2014/04/23

戦争賠償・被害者補償-韓国

 日本のアジア諸国に対する戦争賠償や戦後補償は、基本的に経済協力方式であった。それは、経済的利益を追及する日本の関係者の要求に沿うものであっただけでなく、冷戦下に於けるアメリカのアジア戦略の関係上、求められたことでもあった。

 戦後の日本は、アメリカが主導したサンフランシスコ講和条約によって、「…日本国がすべての前記の損害及び苦痛に対して完全な賠償を行い且つ同時に他の債務を履行するためには現在充分ではないことが承認される」と規定され、莫大な損害や被害の実態に見合う賠償や補償は免れた。その上、再軍備と安保条約によるアメリカ軍に対する軍事基地提供と引き換えに、戦争賠償・戦後補償のさらなる軽減を得て、経済協力方式のかたちをとったのである。
 
 米ソ冷戦の激化や朝鮮戦争に対応するため、日本に再軍備を求めたJ.F.ダレスは、「日本は戦争賠償をしなければならないから再軍備する金がない」と答えた吉田首相に対し「戦争賠償はしなくてもいいから再軍備せよ」と言ったという(古関彰一獨協大学教授の研究による)ことに象徴されるように、日本の戦争賠償や戦後補償は、戦争被害国や戦争被害者への賠償や補償を脇に置いて、アメリカのアジア戦略に沿うかたちになったといえる。

 したがって、韓国に対する戦争賠償・戦後補償は、いわゆる「従軍慰安婦」の問題はもちろん、強制連行された朝鮮人労働者の実態調査などもきちんとなされず、植民地支配の問題も究明されることのない、経済協力方式の戦争賠償・戦後補償となった。戦争被害者個人に対する補償は、経済協力に置き換えられたのである。戦争責任を免れ、経済的利益を追求したい日本の関係者と、米ソ冷戦の対応にせまられたアメリカの思惑が一致した結果の戦後処理が、現在に問題を引き摺る原因となったのだと思う。再び交渉が持たれているようであるが、日韓関係改善のために、「解決済み」など冷たく突き放すのではなく、被害者に寄り添い誠実に対応する必要があると思う。

 下記は、「日本の戦後補償」日本弁護士連合会編(明石書房)から、韓国に対する部分を抜粋したものである。
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           第2章 日本の戦後処理の実態と問題点

第3 日本政府による賠償と被害者への補償

2 個別の賠償条約、経済協力協定の締結

(2)韓国

①日韓会談とその中断
 サンフランシスコ講和条約(1952年4月28日発効)第4条で朝鮮の独立に伴う日韓間の請求権問題は両国間の特別取り決め主題とした。
 日韓では1951年の予備会談以降、1952年2月15日からはじまった第1次日韓会談から1965年1月18日から6月22日まで行われた第7次会談まで14年間、7回にわたる会談を経て、1965年6月、1条約、4協定(日韓基本条約、漁業協定、請求権および経済協力協定、在日韓国人の法的地位協定、文化財および文化協力協定)が締結された。
 韓国政府は第1回会談以降、以下の「対日請求8項目」を要求して交渉を続けた。
1、朝鮮銀行を通して搬出された地金、地銀
2、1945年8月9日現在の日本政府の対朝鮮総督府債権の返済請求
 ア 通信局関係
 1)、郵便貯金、振替貯金、為替貯金
 2)、国債および貯蓄債券等
 3)、簡易生命保険および郵便年金関係
 4)、海外為替貯金および債権
 5)、太平洋米軍陸軍司令部布告第3号により凍結された韓国受取金
 イ、1945年8月9日以降、日本人が韓国の各銀行から引き出した預金額
 ウ、韓国から歳入された国庫金中の裏付け資金がない歳出による韓国受取金関
   係
 エ、朝鮮総督府東京事務所の財産
 オ、その他
3、1945年8月9日以降、韓国から振替または送金された金品の返還要求

 ア、8月8日以降、朝鮮銀行本店から在日東京支店に振替もしくは送金された金
   品
 イ、8月9日以降、在韓金融機関を通じて日本に送金された金品
 ウ、その他
4、1945年8月9日現在、韓国に本社、本店または主たる事務所がある法人の在日
   財産の返還要求
 ア、連合国最高司令部指令第965により閉鎖清算された韓国内金融機関の在日
   支店財産
 イ、連合国最高司令部指令第965により閉鎖された韓国内本店保有法人の在外
   財産
 ウ、その他

5、韓国法人または韓国自然人の日本国または日本国民に対する日本国債、公債、日本銀行券、被徴用韓国人の未収金、補償金および他の
請求権の返済要求
 ア、日本有価証券
 イ、日本通貨
 ウ、被徴用韓国人の未収金
 エ、戦争による被徴用者の被害に対する補償
 オ、韓国人の対日本政府請求恩給関係
 カ 韓国人の対日本人または法人請求

6 韓国人(自然人、法人)の日本政府または日本に対する個別的権利行使に関する項目

7 前記諸財産または請求権から発生した諸果実の返還請求権
8、前記の返還および決済の開始および終了時期に関する項目
  韓国側は、1910年の日韓併合条約は無効であり、無効な条約に基づく植民地支配は違法であるとの主張がなされたが、日本側は1949年12月3日、第1に植民地化は朝鮮の経済的、社会的文化的向上に貢献した、第2に解放後の「日本人の放逐」と日本人の努力により平和裡に蓄積された私有財産の剥奪は過酷な措置であって、国際慣習上異例である、第3に朝鮮は正当な手続きをへて日本の領土となったことなどを内容とする基本見解をまとめて会談に臨んだ。

 このため植民地化をめぐって両国の認識は真っ向から対立し、第2の点についても、日本は在韓米軍政府の財産処分(サンフランシスコ講和条約第14条(b)により日本はその効力を承認するとされていた)は日本の私有財産の所有権移転を意味しないとして日本人の財産につき韓国政府に返還請求していた。
 第3次会談において、久保田貴一郎日本側主席代表が「日本が講和条約を締結する前に韓国が独立したのは国際法違反であり、日本の統治は韓国に有利な面もあった」と発言し、1953年10月21日会談は決裂した。



②日韓条約の締結へ
 アメリカのアジア戦略の中では日韓関係の改善が急務とされ、アメリカは会談の再開を促し、1957年12月31日、第4次会談のための予備会談において、日本政府の対韓民間人財産請求については、日本側がサ条約第4条の解釈に関する米国政府の見解(在日米大使の口上書、1957・12・31、第1010号)に従って請求権の主張を撤回、第5次日韓会談予備会談から項目別討議が始められた。

 しかし、日本は、韓国の8項目請求に対しては、法的根拠と証拠関係が確実なものについては弁済するが、大部分はこれが不明であるとした。
 韓国は日本に資料の提供を求めたが、日本は資料はないと言って交渉は進展せず、かつ、この間、日本側が受取先は国であるのか、個人であるのかとした点については、韓国は国として請求しているのであって、個人に対するものは国内問題として処理すると回答していた。
 1961年の第6次日韓会談において、日本は無償経済協力による解決を提案、併せてこれによって韓国に請求権の放棄を求め、韓国は国内世論に押されて請求権放棄はできないと主張、アメリカは韓国に対し、日本との国交を早く回復するよう求めていたが、1962年6月、経済援助について考え直さざるを得ないとして会談の早期妥結を迫った。

 1962年の大平、金会談において、無償経済援助3億ドル、政府借款2億ドル、民間借款1億ドル以上の経済協力と引き換えに一切の対日請求権を放棄するとの大平、金メモが作成された。


③条約、協定の締結
 1965年6月22日、日韓基本条約および4協定が締結された。
 請求権および経済協力協定では、日本が韓国に無償経済協力3億ドル、政府借款2億ドル、民間商業借款3億ドル以上を供与することで、日韓両国および国民の財産、権利および利益並びに請求権に関する問題が完全かつ最終的に解決されたことが確認された。(請求権および経済協力協定第2条1項)
 
 なお、請求権及び経済協力協定第2条2項では、「この条約の規定は、次のものに影響を及ぼすものではない」と定め、2項aでは、「一方の締約国の国民で1947年8月15日からこの協定の署名の日までの間、他方の締約国に移住したことがある者の財産、権利、及び利益」と定めている。
 したがって、在日韓国人の「財産、権利、及び利益」は適用除外となっている。

 請求権の問題が経済協力に置き換えられた経過については、例えば、強制連行された朝鮮人労働者に対する補償問題は会談の最重要課題の一つとされたが、「事実関係を実証するような材料というものはもうみんななくなっておる」として、「合意のうえ完全かつ終局的に終了したことにして、経済協力という方法によってその問題を置き換えることになった。」(1965年12月3日参議院日韓条約特別委員会における椎名外務大臣答弁)とされている。


 しかしながら、各法務局に供託され、強制連行された朝鮮人労働者への未払賃金の供託報告書が存在して法務局に保管されていて、事実関係が明白である場合についても一括して経済協力に置き換えられている。


④法律の制定(日本)
 日韓条約、請求権協定の締結に伴って、1965年12月17日法律第144号、「財産および請求権に関する問題の解決並びに経済協力に関する日本国と大韓民国との間の協定第2条の実施に伴う大韓民国等の財産権に関する措置に関する法律」が制定された。
 この法律では大韓民国又はその国民財産権であって協定第2条3の財産、権利、利益に該当するものは1965年6月22日において消滅したものとし、日本国または日本国民が保管する物は保管者に帰属する、証券に化体される権利についてはその権利に基づく主張をすることができないと定める。



⑤法律の制定(韓国)
 請求権資金の運用および管理に関する法律(1966年2月19日法律第1741号)が制定され、大韓民国国民が有している1945年8月15日までの日本国に対する民間請求権はこの法律に定める請求権資金の中から補償しなければならないとされ、この民間請求権の補償に関する基準・種類・限度等の決定必要な事項は別に法律で定めるとされた。

 この別の法律として1971年1月19日、対日民間請求権申告に関する法律および1974年12月21日対日民間請求権補償に関する法律が制定された。
 この申告に関する法律により、1971年5月21日から1972年3月20日までの10ヶ月間に対日民間請求権申告管理事務所および全国30ヶ所の税務署で、日本政府発行の国債・地方債・郵便年金・郵便貯金・日本国内所在の金融機関への預金、生命保険等の債権等、および日本国により軍人・軍属または労務者として召集または徴用され1945年8月15日以前に死亡したものに対する補償申告が受け付けられ、対日民間請求権申告管理委員会で適否の審査がされた。そして、補償法により1975年7月1日より1977年6月30日まで、8万3,519件に対し、総額91億8,769万3,000ウォンが支払われた。
 しかし、死亡のみで傷害に対しては支払われておらず、8,552件25億6,560万ウォン、死亡1人当たり30万ウォンが支払われた。


⑥ 問題点
 請求権の問題が経済協力に置き換えられた経過については、例えば、強制連行された朝鮮人労働者に対する補償問題は会談の最重要課題の一つとされたが「事実関係を実証するような材料というものはもうみんななくなっておる」として、「経済協力という方法によってその問題を置き換えることになった」。経過は前記のとおりである。

 しかし、東南アジア開発促進の見地から賠償と民間経済協力を併用する方針は、1951年12月17日から1952年1月18日までに行われた、日本とインドネシアとの予備交渉の過程で具体化されたものであり、日韓会談にあたっても、日本では当初から、経済発展にとってプラスになり、日本の損にならない経済協力方式で解決する方針が固められており、これによって全てを放棄させるのでなければ意味がないとの一文も追加されている外務省の文書が見つかっている。

 植民地支配の問題を棚上げにした上、具体的な項目に入ってからも、事実の究明もせず、日本が持っている資料の開示もせず、証拠がないとして引き延ばしたうえ、当初の目的通り経済協力に置き換えて解決したのであって、植民地支配に対する解決も、強制連行された朝鮮人労働者に対する補償問題も未解決のままなのである。
 「従軍慰安婦」問題は当時は会談の対象にもなっていなかった。
 さらに、各法務局に供託され、強制連行された朝鮮人労働者への未払い賃金の供託報告書が存在し、法務局に保管されていて、日本にとっては事実関係が明白である場合についても一括して経済協力に置き換えられたのである。
 また、アメリカはアジア戦略の上で、日韓関係の正常化をはかる必要から、当時アメリカの経済援助によって、経済が成り立っていた韓国に対し、早期に会談を成立させねば援助を打ち切ることも考えなおさなければならないとして脅かして解決を迫り、この結果、日本の当初の方針どおり、経済協力による一括解決となった点も見逃せない。



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戦争賠償・被害者補償-フィリピン

 2014年4月現在、韓国人元「従軍慰安婦」の平均年齢は88.3歳で、補償や謝罪、法的責任などに関して早期の根本的解決を求める韓国と日本の関係者の接点を探る協議が続けられているという。それは、フィリピンに対する日本の戦争賠償・被害者補償も、もう一度考え直す必要性を示すものだ、と思う。

 戦争の被害者補償を受けられなかったフィリピンの元「従軍慰安婦」の人たちは第2次世界大戦当時、進駐してきた日本国の軍隊の兵士らから暴行、監禁、強姦等の被害を受け、著しい精神的苦痛を被ったとして、日本国に対し、1人につき2000万円の損害賠償請求の訴えを起こした(当初は18名その後、28名が加わって46名)。しかしながら、日本の裁判所は、国際法が「被害を受けた個人が直接加害国に損害賠償を請求する権利は認めていない」として棄却している。こうした問題は、基本的に賠償条約や経済協力協定の締結の時に解決されるべき問題だったのだと思う。
 戦争被害者の被害の実態を全く議論の対象とせず、賠償条約や経済協力協定の交渉を進めたこと、また、戦争被害者が何の補償もされていない状況などを無視し、日本の裁判所が国際法を持ち出して訴えを棄却するのでは、被害者は納得できないであろう。
  
 賠償条約・経済協力協定の締結に関する主張がかみ合わず、中断した日本とフィリピンの交渉再開のために、フィリピンは日本へヘルナンデス調査団を派遣したが、その調査団の報告の中には、「アメリカが賠償額を最小限に止め日本が可能な限り防衛費にまわすよう望んでいるのであり、賠償が解決しないのは、アメリカがフィリピンを犠牲にしてでも民主的で強い日本を選んでいるからである」との指摘があるという。フィリピンとの交渉でも、冷戦下におけるアメリカのアジア戦略が、本来の賠償・補償の交渉を歪めることになったといえる。

 さらにいえば、問題なのは、賠償額の少なさだけではない。その内容こそが問題なのである。下記は「日本の戦後補償」日本弁護士連合会編(明石書房)から、フィリピンの部分を抜粋したものである。
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             第2章 日本の戦後処理の実態と問題点

第3 日本政府による賠償と被害者への補償

2 個別の賠償条約、経済協力協定の締結

(4)フィリピン

①初期の交渉
 フィリピン政府は1947年に極東委員会に80ペソ(約41億ドル)の請求額を出したが、1950年12月、賠償経済小委員会は、80億ドルを公式の損害総額とし、1951年2月11日、フィリピン政府はこれを公式請求額であるとし、日本に提出した。しかし、同年4月頃には賠償小委員会や国家最高会議は、「獲得額10億ドル以上」の最低線を出していた。
 80億ペソが80億ドルに倍加した理由は、物損につき1941年の価格を50年の価格に算定し直したこと、及び人命損害及び供出財とサービス(主に軍票発効額)が追加されたことによるとされており、人命損害については、1人当たり4,000ペソ(2,000ドル)とし、厚生省報告の民間人死亡者数111万1,983人にかけたものである。

 フィリピンの代表は、対日平和条約について、「全く気の進まない調印をしたが、これもひとえにアメリカとの信頼友好関係のためである」と大統領宛に書き送ったように、非常に不満足なものであったが、対日平和条約第14条は自由に解釈し、交渉の余地のあるものとして以後の交渉に臨んだ。
 1952年1月、政府は使節団をフィリピンに送り賠償について交渉を始め、フィリピンは役務だけでなく現金、現物支給を含めて、別紙の明細をつけて80億ドルを要求したが、日本側は対日平和条約の役務提供という条項は厳格に解釈されなければならないし、80億ドルは日本の経済力の及ぶところではないとして交渉は進まなかった。

 
 1952年1月、80億ドルを日本政府に要求したものの、同年同月にフィリピン政府専門委員会が大統領に提出した最低請求額の勧告では「『戦争損害の公式』による損害額、つまり、戦争損害委員会によって認められた公共および民間の財産損害から既に受け取った金額を差し引いた額、すなわち16億ドル2,152万1,064ドル」を最低額としていたもので、財産的損害に限られ、約16億ドルとしていた。

 これは我々の調査においても、財産損害についてはラジオや新聞を通じて、損害の申告をするようにとの政府の通知が出され、申告をしたが現在までも何らの補償がされていないという被害者もおり、具体的に調査して提起した金額は財産損害であったといえる。

 実際の交渉においても、フィリピンは、請求総額を物損の16億ドルと人命および軍票の2つに分け、前者について批准直後に前払いし、後者は他の請求国の要求が出揃うまで延期するとの一括払いの提案を行い、また、対日平和条約の批准前の一部中間払いを要求したが、日本はこれを拒否し、フィリピンが希望する役務の種類、順位の提示を求めるに止まった。

 日本は中間賠償が沈船引き揚げ程度であればとして、1953年3月12日、沈船引揚げの中間賠償協定が調印されたが本来の交渉は進展しなかった。
 この間のフィリピンの最大の要求は平和条約批准前または直後の財産的損害を中心とする10億ドルまたは8億ドルの一部賠償要求であり、80億ドルが議論されたことはなかった。


 フィリピン内においては、シンコ教授は第2次大戦後にindeminityにかわって採択されたreparationの国際法上の概念は物損に範囲限定的であると報告しており、上院においても、80ペソ(40億ドル)を要求しているかどうかの説明が求められ、80億ドルは非現実的であり、交渉記録を見て初めて、この金額の要求が日本に対して出されたことを知ったとの上院議員の発言もあるくらいであった。

 他方、日本の賠償にあたる基本姿勢は、より厳格な条件でより小額であれば日本のために最善であるとするものであり、1951年末には賠償と民間経済協力を併用する方針が出され、かつ東南アジア諸国開発協力が日本の基本政策の一つとして出された。

 『吉田茂回顧10年』によれば、賠償支払いによって日本と相手国の経済関係の密接化を保障するのでなければ、賠償は無意味であり、たとえ経済侵略と呼ばれても邪悪を気にする必要はなく、未開発地域の開発、工業原料の確保、市場開発は彼我相互の利益にかなうものとして交渉を進めたとしている。



②覚書の締結とその破棄
 日本では「賠償は日本経済発展の特権である」(『自民党政策月報』1956・5)と言われるほど、賠償は経済的利益のためになるとして、政財界には早期解決の要望が強く、財界は東南アジアが経済開発に向け、次々視察団を送っていた。特に、鉄鋼業界は保守政党に多額の政治献金をする一方、賠償問題の早期解決とアジア諸国との国交回復を要請、とりわけフィリピン賠償は東南アジア開発計画との関係で重視され、1952年以降、フィリピン鉱業界との間で鉱山開発協力が始まっていた。

 日比の経済界は貿易振興への強い要求で一致していたのである。
 1953年5月には政府は賠償解決の併用案として民間経済開発協力の推進をめざし、諮問機関「アジア経済懇談会」が設けられた。
 同会議ではそれぞれの国を担当者を決め、政府が提示した、日本が機械、技術その他を輸出して、銅、鉄、ニッケル、鉱山、原塩、石炭などを相手国と共同開発し、アジアの地域的集団安全保障に必要な金属素材、重機械、戦略機材を供給する構想が承認され、それぞれの担当国を訪問、フィリピンについては、永野護が比要人と交渉を持った。

 1954年になると、日本政府は「賠償問題解決のための方針」を閣議にかけ、全賠償総額を5億ドルとし、フィリピン2億5,000万ドル、インドネシア1億2,500万ドル、ビルマ6,000万ドル、インドシナ3国3,000万ドルを暫定的な数字とし、3,000万ないし5,000万ドル程度の増額幅をもたせることに内定、方法は役務および生産物とし、原材料費の一時立て替えを認め、日本にも利益をもたらす場合には原材料費を負担することとした。

 アメリカも日本の自衛力増強、賠償問題解決、東南アジアの経済協力の3つを連携させ、日本と東南アジアの緊密化をはかり、東南アジア地域の対共産圏に対する安全保障体制を確立することを強く求めていた。
 当時、フィリピンではアメリカの支援を受けてフクバラハップを弾圧、壊滅させたマグサイサが1953年3代目の大統領となり、フィリピンはアメリカの軍事ブロックの中に入っていったが、この総額の決定にあたっては、日本はアメリカと緊密な情報の交換を行い、日比間の交渉の仲介の労をとることを要請、1953年11月、ニクソン米副大統領は両国を訪問し、両国首脳に柔軟な態度をとるよう要請、フィリピンのマグサイサ大統領は、現実的な態度で臨むことを表明した。


 1954年1月から始まった大野公使とガルシア副大統領の会談では、日本の2億5,000万ドル(3億ドルなら可能)との案に対して、ガルシアから最低限度4億ドルを申し入れ、同年4月10日、生産加工、沈船引き揚げ、その他の役務による日本の支払額は4億ドルとする、期間は10年で、いずれか一方の要請で10年延長できる、日本による役務のもたらす経済的価値は10億ドルを下回らないものとする、賠償協定調印後、対日平和条約を速やかに批准することを内容とする大野・ガルシア覚書が結ばれた。

 ところが、上院議員などを中心に、この案は、日本の経済侵略を許すもの、すなわちフィリピンを原料供給国とし日本製品の消費国化し従属化させるもので、フィリピンの満州化であり、もっと多額で短期支払いの賠償をすべきとの反対が強く出されたため正式調印には至らなかった。



③賠償協定の締結
 フィリピンは交渉再開のために日本へヘルナンデス調査団を派遣したが、この日本の経済の状況についての報告については、日本の健全な経済的自立を求め、無理な賠償には反対であった米国が日本の外貨事情に関する楽観的見通しについて厳しく批判し、マニラの米大使館を通じてコメントした。
 この報告では、アメリカが賠償額を最小限に止め日本が可能な限り防衛費にまわすよう望んでいるのであり、賠償が解決しないのは、アメリカがフィリピンを犠牲にしてでも民主的で強い日本を選んでいるからであるとしている。

 また、この報告では、フィリピン政府の55年から59年までの経済開発に5ヶ年計画に要する費用との関連づけが明確にされ、外貨費用の分担の一部に日本の賠償支払いをあてるという勧告をした。
 財界のフィリピン担当であった永野護は、賠償支払いと民間経済協力を併用するのでなければ交渉の妥結は難しいことを首相に承認を得たうえ、吉田首相とラウエル上院議員の秘密会談をセットし覚書の破棄を受け入れたが、1954年12月吉田内閣が総辞職し鳩山内閣となったため交渉ははかどらず、賠償額が少しは高くなっても、1日も早く妥結して正常な日比貿易が行われる方が利益になるとする財界の意向を反映して、1955年5月の非公式折衝では、賠償5億5,000万ドル、経済借款2億5,000万ドル合計8億ドル案でほぼ合意が成立した。


 しかし、今度は日本の大蔵省、自由党の反対により、財界の強い要請、ダレス国務長官の解決の遅れへの強い不満の表明などにもかかわらず対応が遅れ、ようやく1956年5月9日、5億5,000万ドルの役務および資本財による支払い期間20年の賠償協定と、2億5,000万ドルの民間商業ベースによる長期開発借款協定が締結された。

 日本が原案に入れており、フィリピンが反対していた「本協定の賠償は両国の通常貿易に不利な影響を及ぼさない、また、日本はいかなる外貨負担も課さないような方法で実施されるものとする」との条項については、貿易の拡大は共同声明で行い、外貨負担については、実施計画に関する交換公文で記載されることになった。

 フィリピンの対日平和条約の批准は7月16日に行われた。
 国会答弁で高崎達之助長官(賠償協定調印の全権委員)は、賠償は「負けて払う罰金」や「手切金」ではなく「将来手を握るための結納金である」と答弁、賠償は「国民所得のうちの海外投資分の一部」との考えを明らかにしている。

 実際にも、これは、日本の商社が東南アジアに進出する呼び水になり、建設業も進出の足場を役務賠償を通じて築いた。
 結局、賠償は日本の経済進出の地盤造りの役割を果たしたともいえる。また日本に溜まった物資をさばく、あるいは過剰設備の移転にも役立つなど不況産業救済の効果もあった。
 更に、協定第5条で定められた賠償契約における入札制と直接契約制導入はフィリピン政治家、企業と日本商社、企業を構造的に結びつける要因ともなったのである。

 しかし、フィリピンにおける、被害者たる住民には何らの補償もされていない。


④問題点
ア、日本がフィリピンにおいて行った加害行為についての事実の究明が行われたことも、これに対する日本政府による謝罪が行われたこともなかった。

イ、フィリピンより日本に当初提出された請求金額には戦争による死亡者への補償の項目があげられていたが、交渉の中で、これらが具体的に検討されたこともなく、フィリピン側は交渉の当初から財産的損害のうちどれだけを日本から引き出せるか、役務に限らず、生産財や資本財を賠償の中に含めることを目標として交渉に臨んでいた。

ウ、交渉経過からも明らかなように、日本の側は、日本の行った罪に対する償いではなく、当初はどのように額を抑えるかが課題であり、財界の圧力もあり、その後は「賠償は日本経済発展の特権である」に端的に示される、経済進出のための手段としてこの賠償協定の締結を行った。
 
 フィリピン側もこの賠償協定は、フィリピンが日本の資源供給国化し、市場化する経済侵略の容認にほかならず、フィリピンの産業を潰すことにもなるとの反対にもかかわらず、経済開発5ヶ年計画など経済政策実行のための資金が不足していたことから締結に到った

エ、対日平和条約が米国の冷戦構造下における、日本を経済的に自立させ、再軍備させるアジア戦略の一貫として締結されたことは前述したとおりであるが、米国は、フィリピンとの賠償条約の交渉過程においても、日本の経済的負担を減らし、早期に協定を締結するよう圧力をかけてきた。


オ、死亡した戦争被害者への補償について話し合われたことはなかったし、九死に一生を得て、その後も傷害の後遺症に苦しんでいる虐殺被害者や、家族のほぼ全員が虐殺され、生活に困窮し、あるいは葬式費用もないといった被害者への補償や、「従軍慰安婦」などは、そもそもフィリピンの請求にすらあがっていなかったのであり、賠償交渉は被害者の視点を完全に欠落させたものであった。

 そして、被害者個人に対する補償はなされていない。
 なお、賠償協定自身には請求権放棄条項は規定されていない。



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2014/04/03

問題ある日本の戦後補償 

 最近安倍政権によって提起され、議論されたり、今なお議論されている問題は大部分が日本国憲法の精神に反するものであるように思う。「国家安全保障会議(日本版NSC)」の創設問題や「特定秘密保護法」の問題、「集団的自衛権」の問題、「武器輸出三原則見直し」の問題などである。その他にも、靖国神社参拝問題や教育委員会制度見直しの問題、教科書の記述内容や採択をめぐる問題などもあり、日本の右傾化を懸念する声が、海外でもひろがっているようである。戦後69年を経た現在、中国や韓国から戦後補償の要求の声があがるのは、そうした日本の右傾化の動きと無関係ではないであろう。また、戦争被害者の補償がきちんとなされていないことも忘れてはならないと思う。

 ドイツと違って、日本では、戦時中の指導者層が戦後も引き続き政界や経済界、自衛隊などで活躍した。一時公職を追放された人たちも、米ソ冷戦の影響で、多くが復帰したのである。だから、政治家の「日本国憲法」に反するような言動や、海外では受け入れられないような、いわゆる「失言」が繰り返されてきたのであろう。安倍政権は、そうした戦時中の指導者層の考え方を基本的な部分で受け継いでいるのだと思う。

 日本の「戦後補償」の問題をふり返れば、戦後まもないころから、戦時中の考え方がそのまま受け継がれている部分があることがわかる。例えば、日本の戦争被害者に対する補償は、ごく一部の例外を除けば、軍人・軍属が対象である。「戦傷病者戦没者遺族等援護法」は民間人戦争被害者は対象としていない。また、連合国総司令部(GHQ)が廃止を指令した「軍人恩給」が、サンフランシスコ講和条約締結によって、日本が主権を回復すると間もなく復活したのみならず、その支給額が旧帝国軍隊の階級に基づいている。戦争責任のより大きな元軍人ほど、より多くの軍人恩給を給付されているのである。ドイツの戦後補償は、民間人戦争被害者も等しくその対象であり、軍人に対する補償に階級差などはないという。

 さらに、日本軍の軍人・軍属として戦場に駆り立てられた旧植民地出身の朝鮮や台湾の人たちが、国籍条項によって、援護法の対象から除外されていることも大きな問題ではないか、と思う。

 下記は、『「戦後補償」を考える』内田雅敏(講談社現代新書)から、記憶しておきたいと思った項目を、いくつか抜粋したものである。特に、─「殉国七士廟」が語るもの─には驚いた。
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            3 戦後処理と賠償・補償問題

2 諸外国との比較

 賠償を「値切った」日本
 これに対して日本は、前述した韓国に対する有償・無償の5億ドル、あるいはヴェトナム、インドネシア、マレーシア、ラオス、シンガポール、フィリピン、インドなどに対する賠償を合わせても、総額で6565億円、接収された「在外資産」約3500億円の放棄、およびサンフランシスコ講和条約締結前の中間賠償約1億6000万円を含めても1兆円超である。(中間賠償とは、賠償がなされることを前提として、そのうちの約30%分を、占領地あるいは日本国内にあった機械類などの物納として中国、フィリピン、イギリス、オランダなどに供与された)。しかも、この賠償は直接被害者に対して支払われるものではなく、時には彼の地の独裁政権を支えるために使われたり、あるいはその一部が日本の保守政権に環流されたりした。ドイツと比べると実に7兆円対1兆円ということになる。前述したようにドイツの場合は、今なおこの支払いを続けている。(佐藤健生拓殖大学教授、田中宏一橋大学教授らの研究による)


 日本の賠償が不十分なものであったことは、日本政府関係者も認めているところである。例えば大蔵省財政史室編『昭和財政史──終戦から講和まで』第1巻は、
「日本が賠償交渉でねばり強く相当の年数をかけて自分の立場を主張しつづけたことも結果的には賠償の実質的負担を大きく軽減させた。賠償の締結時期が遅くなった結果、高度成長期に入った日本は、大局的にみてさほど苦労せず賠償を支払うことができたのである。加えて時期の遅れは復興した日本が東南アジアに経済的に再進出する際の絶好の足がかりとして賠償支払や無償経済協力を利用するという効果をもたらした」
と記している。

 また、前述したように外務省の元高官・須之部量三氏も、「(これらの賠償は)日本経済が本当に復興する以前のことで、どうしても日本の負担を『値切る』ことに重点がかかっていた」のであって、「条約的、法的には確かに済んだけれども何か釈然としない不満が残ってしまう」ものであったと語っている。(「外交フォーラム」1992年2月号)
 そして、この不十分な賠償についてさえ日本は戦後アジアに対する再進出の足がかりとして利用したのである。当時、吉田首相は、「むこうが投資という名を嫌がったので、ご希望によって賠償という言葉を使ったが、こちらからいえば投資なのだ」と語ったという。


 外務省賠償部監修『日本の賠償』は、
「輸出困難なプラント類や、従来輸出されていなかった資材を、賠償で供与して“なじみ”を作り、将来の輸出の基礎を築くことが、我が国 にとって望ましいものである。」
 と素直に語っている。さらに、自民党政策月報1956年6月5日号も、「賠償は日本経済発展の特権である」と述べている。
 実はこの点については、ドイツの賠償・補償の場合にも同じような問題が起こりうるのでないかと思い、ボンの大蔵省の担当官にその旨質問してみたが、ドイツの補償はプラント類や資材の支給ではないのでそのようなことはない、という回答であった。


 日本人戦争被害者に対する補償
 このように日本の戦争賠償・補償は具体的な補償額を比較してみても、かつての「同盟国」ドイツと比べてきわめて不十分である。しかし、日本政府は日本人の戦争被害者に対する補償、いわゆる援護法による補償については、後述するような問題点があるとしてもそれなりに行ってきている。

 1945年11月、連合国総司令部(GHQ)が日本政府に対して軍人恩給の廃止を指令して以来、軍人恩給は廃止されていた。1951年9月のサンフランシスコ講和条約の締結を経て、翌1952年4月28日、日本は占領から解放され、主権を回復した。日本政府は国会の審議を経た上で、同年4月30日、「戦傷病者戦没者遺族等援護法」を公布し、同年4月1日にさかのぼり再び軍人恩給を支給することにした。同援護法第1条は「国家補償の精神に基づき、軍人、軍属であったもの、またはこれらの者の遺族を援護することを目的とする」としている。


 以後次々と援護法が制定され、その支給合計額は1993年3月末現在で約35兆円となっている。支払いのピークは1987年度であり、以降少しずつ減ってはいるが、年間2兆円近い金額が日本人の戦争被害者に対して支払われている。この35兆円(年間約2兆円)という数字と、前述した対外的な戦争賠償約6565億円(在外資産の放棄を含めても約1兆円)という数字を比べてみると、そのあまりに大きな差に言葉を失う。しかもこの援護法による補償はこれからも増え続けるのである。

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日系米国人への謝罪と補償
 戦後補償は敗戦国だけの問題ではない。戦勝国アメリカにおいても1983年、レーガン大統領の時代に議会は、戦時中、日系米国人を適性国民として強制収容したことを誤りであると認め、その公式謝罪と補償についての勧告を採択した。勧告文は「それがここで起きたのだということが将来への警告として後世に伝えていかねばならないメッセージである」と述べている


 そしてその勧告を受けて1988年に「市民自由法」が制定され、日本政府を介さずに、直接被害者あるいはその遺族に対して金2万ドルがブッシュ大統領(当時)の謝罪文とともに手渡された。謝罪文には次のように述べている。
「金額や言葉だけで失われた年月を取り戻し、痛みを伴う記憶をいやすことはできません。また、不正を修正し、個人の権利を支持しようというわが国の決心を十分につたえることもできません。しかし、私たちははっきりと正義の立場に立った上で、第2次大戦中に重大な不正義が日系米国人に対して行われたことを認めることはできます」
「損害賠償と心からの謝罪を申し出る法律の制定で、米国人は言葉の真の意味で、自由と平等、正義という理想に対する伝統的な責任を新たにしました。みなさんとご家族の将来に幸いあれ」(1990年10月11日 朝日新聞)

 
・・・(以下略)

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3 ドイツ企業の補償のあり方

日本企業の対応は?
 日本の企業の戦後補償ははどうであろうか。
 すでに述べたように日本政府は戦争中、約80万人から100万人の朝鮮人を、そして4万人の中国人を国内に強制連行し、強制労働させた。現在、この強制連行・強制労働について、その被害者あるいは遺族から、日本鋼管、三菱造船、不二越の3社に対して、未払い賃金の請求あるいは損害賠償請求等の訴訟が提起されている。
 これらの原告はいずれも韓国・朝鮮人である。中国人については訴訟になっていないが、花岡事件で知られる鹿島組での強制労働について、鹿島建設に対して補償請求等がなされていることは前述した。
 これらの補償請求されている企業のうち鹿島建設は、中国人被害者に対し、その非を認め一応謝罪をしたものの(ただし、補償請求そのものについてはまだ応じていない)、日本鋼管らの3社は、企業として国家の政策に従ったまでであり、なんら責任がないとしており、また、これらの問題は1965年の日韓請求権協定ですべて解決済みであるとしている。そして、さらに「時効」の主張すらしている。

 日本の国家としての戦後補償がドイツと比べて著しく不十分なものであることは繰り返し述べてきたが、企業の戦後補償についてはドイツの場合に比べ著しく不十分であるどころか、まったくなされていないのが実情である。日本政府の姿勢がそのまま反映しているのであろう。企業のイメージアップということを考えれば、この戦後補償の問題を積極的に解決したほうが得策だと思われるが、やはりドイツ企業の場合と同様、企業幹部の世代交代がないとこの問題はの解決はむずかしいのかもしれない。
 

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               4 戦後補償の核心と歴史認

2 記念館・記念碑に見る日・独の違い 

 「殉国七士廟」が語るもの
 ひるがえって、日本における戦争記念館はどうであろうか。それは広島の原爆ドームに代表されるように、そこには被害の歴史は刻まれているが、加害の歴史について刻まれているものはほとんどない。そればかりではない。あの戦争を肯定する記念碑等も多々あることに驚く。
 中部地方の小さな町、愛知県蒲郡市、その西のはずれに三ヶ根山という、山というよりはむしろ丘と呼ぶにふさわしい小さな山がある。三ヶ根という名前は、この山が、宝飯郡、額田郡、幡豆郡の3郡にまたがっているところからきている。この三ヶ根山頂の近く(公有地)に「殉国7士廟」なるものがある


 「殉国7士」とは、日本の敗戦後、東京裁判でA級戦犯として裁かれ処刑された東條英機元陸軍大将ら7名のことである。1960年、この地に「殉国7士の墓」が東京裁判の弁護人であった三文字正平らによって建てられた。盛土をし、その周囲を石で固めた広い台座が作られ、その上に「「殉国7士の墓」と刻まれた御影石の大きな墓が建てられている。墓の前には、建立の由来を彫った石碑が建てられ、そこには概要つぎのように書かれていた。
「東條英機元陸軍大将ら7士は、太平洋戦争の敗戦後、東京裁判において『平和に対する罪』という戦争当時は国際法上も認められていなかった事後法により裁かれ処刑された。この裁判は勝者の論理により裁かれたもので公正なものではない。彼は7士は処刑されることによってこの国の礎となった。今日の平和は彼ら7士の犠牲の上に成り立っているものであることを忘れてはならない」
 
実に堂々としたものである。"事後法による裁き"“勝者の論理による裁き”としっかりと理論武装もなされている。それは日本の中央ではなく中部地方の田舎町のはずれにしかこの墓を建立できなかった、という意味においては密かに、しかしその規模という面においては公然と、日本の東アジアに対する侵略の歴史の肯定と、勝者の裁判としての東京裁判批判が展開されている。
 近くには日・独・伊三国同盟締結当時の駐独大使で、東京裁判でA級戦犯として終身刑の判決を受けた大島浩が、処刑された7名を悼んで詠んだ漢詩を刻んだ石碑も建てられている。

 確かに東京裁判には指摘されるような不十分さはあった。アジアに対する植民地支配を行った欧米列強に、果たして日本の侵略を裁く資格があるのであろうかという根本的な問いもある。また個々のケースについても、例えば元首相・広田弘毅に対する死刑判決については疑問視する人も少ないくない。しかし、だからと言って日本の侵略責任が免責されるものではまったくない。戦争責任を考えるにあたっては、何よりもまず一番被害を受けたアジアからの視点を忘れてはならない。この「殉国七士の墓」には、アジアで2,000万人以上、日本で300万人という死者を出した、あの15年戦争に対する反省は微塵もない。あるのはただ東条英機元陸軍大将ら7名が、日本のために、天皇のために、その身代わりとなって処刑されたという”国土論”とでも呼ぶべき論理しかない。だからこそ、「殉国七士の墓」なのである。

 石碑の前にはさらにそれを守るかのように、俳優の鶴田浩二、横綱北の海、歌手のアイ・ジョージら「有名人」が連名で大きな石碑を建てている。あたり一面には「陸軍○○部隊」「海軍××部隊」といった石碑がずらり。あたかも従者として中央の「殉国七士の墓」を護るかのように配置されている。これらの碑は年々増えつつある。1984年にはこの地の入り口に「殉国七士廟」と書かれた高さ4.7メートル幅、奥行き1,7メートルもある巨大な御影石の門柱が2つ置かれるにいたり、文字通り大「霊園」を構成することになった(この「殉国七士廟」の揮毫者は元首相・岸信介である) 

 沖縄の摩文仁の丘にも似たこの大霊園に佇んで各々の碑文を眺めていて、あることに気付いた。それは姿こそ現していないが、この霊園の中心「殉国七士の墓」の上に君臨するものの存在についてである。「殉国七士の墓」、それに従う数々の石碑、これらが「御楯」となって守っているのは天皇および天皇制にほかならない。東条英機元陸軍大将ら7名のA級戦犯を「国士」とする理論は、当然のこととして彼ら七士の靖国神社への合祀につながり、さらに首相の靖国神社公式参拝へとつながるものである。

 

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2014/03/22

ドイツの「戦後補償」 NO2

 2014年3月19日、朝日新聞朝刊は「中国、戦後補償で転換」との見出しで、中国の裁判所が強制連行の提訴を受理したことを報じた。戦時中に、中国から日本に強制連行されたとする中国人元労働者らの損害賠償を求める訴えの受理は、はじめてのことであり事実上の方針転換であるとのことである。今回訴えを起こしたのは元労働者と遺族の40人であるが、被告の三菱マテリアルと日本コークス工業(旧三井鉱山)で働いた労働者は9400人余りに上る。そして、強制連行の被害者は中国全土で約3万9000人に達し、日本企業35社が関与しているという。

 日本政府は、1972年の日中共同声明で、戦時中の日本の行為に対する賠償請求権は個人も含め「放棄された」との立場であり、最高裁も強制連行の事実を認めつつ「中国は個人の請求権も放棄した」との判断を示しているわけであるが、戦後68年が経過している現在、再びこうした問題が浮上してきた背景には、安倍首相の「侵略の定義は定まっていない。国と国との関係で、どちらから見るかで違う」と言うような発言をはじめ、「南京大虐殺はなかった」というような日本国内の議論や報道の過熱、首相や閣僚等の靖国神社参拝、日中で合意がったと言われる尖閣問題「論争棚上げ」方針を無視しての尖閣諸島国有化などがあるのであろうが、何より日本の戦争賠償が、戦争被害者個人に対する「戦後補償」につながるようなものではなかったからではないかと思う。

 戦争被害者個人に対する「戦後補償」は、日本国内でも繰り返し争われてきた。そこに日本とドイツの戦後補償の違いがある。日本の最高裁判所は、名古屋空襲訴訟の判決で「戦争犠牲、戦争損害は、国の存亡にかかわる非常事態のもとでは、国民のひとしく受忍しなければならなかったところであって、これに対する補償は憲法の全く予想しないところ」という判断を下し、民間人戦争被害者は戦後補償の対象とはしないことを合法とした。ところが、軍人・軍属は、戦傷病者戦没者遺族等援護法で補償され、その遺族も「受忍」を免れたのである。 また、この援護法による補償は、その国籍条項で、旧植民地出身の軍人・軍属は排除しているが、ドイツでは、軍人も民間人も等しく補償される上に、国籍による排除もない。ドイツの兵役に服した該当者に対しては、国籍の有無にかかわらず、また、国外にいる外国人に対してさえも、居住する政府を通して補償されているという。ドイツの賠償や「戦後補償」にも、まだ、様々な問題が残されているようであるが、学ぶべきではないかと思う。

 日本と同じように、戦時中、ユダヤ人や政治的迫害者を強制労働をさせたドイツのダイムラー・ベンツ社やフォルクスワーゲン社は、補償金を出すとともに、強制労働させられた人々を忘れることがないようにと、記念碑や彫刻物を設置し、加害の事実を継承しようとしているという。日本には、戦争の加害責任を継承する記念館や設置物がほとんどないのではないか、と考えさせられる。

 第2次世界大戦直後は、国家主権の原則に基づき、賠償は国家間の問題であって、個人は自国の裁判所に外国政府を訴え、裁判で争うことはできないとされていたが、最近は海外でも、人権侵害被害者が訴えを起こすケースが出てきているようである。やはり、国境を超えて、戦争被害者個人が、公平に「戦後補償」を受けられるようにするべきではないかと思う。下記は、ドイツの「戦後補償」の後半であり、「日本の戦後補償」日本弁護士連合会編(明石書房)からの抜粋である。
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              第3章  外国の戦後処理

4 外国人被害者に対する補償

 ナチスによって被害を受けた外国人は上記のユダヤ人ばかりではない。
 ドイツの補償法は、その請求権者について属地主義をとっている。連邦補償法で定めている1952年12月31日にこの法律の有効区域に住所を持っていないためにこの法による補償を受けられない者がある。その補いとしてドイツ政府はそれらの者が現に滞在しているルクセンブルク、ノルウェー、デンマークなど12の国と1959年から1964年の間に各々条約を結び、総額8億7600万マルクの一括戦後補償協定をした。これを受領した各国政府が国内措置としてそれら被害人個人に支給している。フランス関係では、連邦補償法から洩れた者に対する政府との間の包括処理と適用被害者に対する個別支払いとが併用されている。

5 強制労働従事者に対する補償 

 ナチスは戦時中の労働力不足を補うために、ドイツ軍の占領地域から多数の住民・捕虜を強制連行して、国内企業の事業場で就労させた。その数は1944年の秋には26カ国790万人に及んだといわれる。その中でポーランド、ソ連からのものが過半数を占めていた。これらの連行、強制労働は、ハーグ陸戦法規、ジュネーブ条約に違反するものであった


 占領地等から強制連行され、ドイツの企業で強制労働させられた外国人労働者に対するドイツ政府の補償は、これまでなされてきていなかった。ドイツ統一後、この補償問題をめぐる交渉がはじまり、1992年3月ポーランドとの間にその被害者救済の「和解基金」が設置され、ドイツ政府から5億マルクが拠出された。チェコスロバキアでも強制労働被害者の組織がつくられた。ロシア、ベラルーシ、ウクライナ政府とドイツ政府の間にソ連侵攻により残された残虐行為被害者・遺族に対しての10億マルクの補償協定が最近締結されたことが報道されている。

 これら強制労働に従事させられた者から強制労働させた企業に対して裁判が起きたのを契機に、私企業と被害者団体の間の協定が成立し、支払いがなされている。ベンツなど7社から88年までに7000マルクが「ユダヤ人会議」などに支払われている。フォルクスワーゲン社も1200万マルクを関係国の青少年交流基金に支出している。しかし、これら各社は、その拠出は法的責任に基づくものではないとしている。


6 ナチス被害者に対する補償の補完

 ナチス時代の1933年7月の立法である「遺伝病的子孫忌避のための法律」によって、身体・精神障害者等に強制的に断種手術をされた。これらの人々は、社会的に不要であり、国家にいたずらに負担をかけるもので生存の価値がないとされた。39年以降人体実験の対象にされ、「安楽死」させられるにいたった。

 定住地を持たないロマ(ジプシー)の中で、強制収容所に収容された者がいたが、その収容のための理由とされたものが、反社会的行為、スパイ行為となっていたため、この強制収容に対する補償がなされなかった。このようになってきた客観的事由は、これらの人々の生活態様が、補償実現のための要求運動の結集を困難にしてきたことにあった。しかし、この問題についても見直しが行われている。


7 ドイツの補償支払額

 1993年1月1日現在の既支払総額は、次のとおりである。
連邦補償法(BEG)     …………… 7,104,900万マルク
連邦返済法(BRuG)    ……………   393,300万マルク
イスラエル条約       ……………  345,000万マルク
12ヶ国との包括協定    ……………  140,000万マルク
その他の給付        ……………  780,000万マルク
州法の規定による給付  ……………  221,700万マルク
苛酷緩和最終規定     ……………   64,400万マルク
                     計   9,049,300万マルク

 同日ドイツ連邦政府財務省が今後続けられるであろう支払いによる見積補償支払い総額は次のとおりである。

連邦補償法(BEG)      …………… 9,500,000万マルク
連邦返済法(BRuG)     ……………   400,000万マルク
イスラエル条約        ……………  345,000万マルク
12ヶ国との包括協定     ……………  250,000万マルク
その他の給付         …………… 1,200,000万マルク
州法の規定による給付   ……………  350,000万マルク
苛酷緩和最終規定      ……………  181,500万マルク
                      計   12,226,500万マルク

※参考 「過ぎ去らぬ過去との取り組み 日本とドイツ」佐藤健生 ノベルト・フライ編(岩波書店)には、

 連邦補償法および連邦返還法による支給の17%は国内に、40%はイスラエル、残り43%は国外に連邦補償法に基づく年金の支給は、15%が国内に、85%が国外に

とある。

     
 ドイツにおいては、本来の戦争被害者補償措置とは別に、重度身体障害法、社会扶養法等の社会保障制度がある。これらは戦争によって困難な状態に陥った者にも適用があるから、重合的に、あるいは補充的に戦争被害の救済に役立っているので、広義の戦争被害対策措置といってよい。

 また公務員関係の年金法では公務員、軍人等の戦争中のナチス政権時代の勤務期間も通算して支給がなされている。日本の恩給法が戦没者戦傷病者遺族援護法と連結されて戦争被害補償法の一種と考えられているのに対し、ドイツでは年金法は公務員法として、戦争被害補償法とは法的性格を異にするものとして截然と区別されている。したがって、もしドイツにおいても年金法による支給額を、日本で論じられているように、戦争被害補償額に算入するとすれば、今日議論されている日本・ドイツ両国の間の戦争被害についての支払の格差はさらに拡がることになる。
 


8 当面の課題

 ドイツにおける戦後措置は、西ドイツ政府によって戦後間もなくから開始され、約20年前にその体系的整備が一応終わり、実施されてきている。1990年のドイツ民主共和国(東ドイツ)の解体、ドイツの統合にともない、両地域で異なった体系でなされてきた施策間の調整、未実施部分の施行などの問題が浮かび上がってきている。
 また、これまでその処理が延ばされてきている旧東ドイツ地域でおきた被害に対する補償、ドイツ企業で強制労働させられた周辺諸国民から補償要求、東欧諸国との補償問題などが残されている。これらについてはドイツ連邦会議内に補償小委員会が設置され、これに当たっている。なお、ドイツ国と旧連合国間の賠償問題も最終的決着には至っていないのである。




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2014/03/20

ドイツの「戦後補償」 NO1

 第2大戦後、ドイツは日本同様敗戦国としてスタートした。しかしながら、戦後の歩みにはかなりの違いがある。特に近隣諸国との関係で、「過去」をめぐって今なお深刻な対立を抱えている日本と違って、ドイツは今や欧州連合(EU) の中核国である。それは、連合国(戦勝国)の戦後処理の違いによる面も大きいのであろうが、両国の過去との向き合い方の違いによる面を見逃してはならないと思う。その一つが「戦後補償」の問題である。

 日本の7倍を上回るというドイツの「戦後補償」は複雑でわかりにくいが、それは、複雑に絡み合った様々な被害や損害に対して法的措置を講じ、もれなく対応しようとしたからでもあると思う。

 それに比して日本は、アメリカが主導したサンフランシスコ講和条約によって、「…日本国がすべての前記の損害及び苦痛に対して完全な賠償を行い且つ同時に他の債務を履行するためには現在充分ではないことが承認される」と規定されたのみならず、再軍備と安保条約によるアメリカ軍に対する軍事基地提供と引き換えに、戦争賠償の大幅な軽減を得た。米ソ冷戦の激化や朝鮮戦争に対応するためであろうが、日本に再軍備を求めたJ.F.ダレスは、「日本は戦争賠償をしなければならないから再軍備する金がない」と答えた吉田首相に対し「戦争賠償はしなくてもいいから再軍備せよ」と言ったという(古関彰一獨協大学教授の研究による)。 そして、日本を極東戦略の要と位置付けたアメリは、アジア諸国との個別交渉を引き延ばし、戦争賠償を値切る日本を後押しするかたちで、その賠償要求を抑さえたのである。

 さらに、戦後の中国では国共内戦が続き、朝鮮半島では朝鮮戦争があった。また、その他のアジアの国々も、条約締結当時、自国の民間人戦争被害者の実態などを正確に把握できる状況にはなかった、ということもある。そんな中で日本は、その賠償を東南アジアに対する経済的再進出の足がかりを得るような賠償支払いや有償・無償の経済協力のかたちで進めたため、アジアの国々では、先の大戦による戦争被害者個人に対する補償は、ほとんどなされていないといっても過言ではないという。にもかかわらず、日本は、今なお戦争被害者個人の補償要求を拒否し続けている。法的にはそれで通るということなのであろうが、理解が得られるとは思えない。なぜなら、ドイツと違って、日本の賠償が、ほんとうの意味の戦争被害に対する賠償や補償になっておらず、また、その謝罪が不十分であり、歴史認識や歴史教育の面でも、たびたび批判や非難を受ける状況が続いているからである。 
 
 日本国内でも、様々な戦争被害者の補償要求があるが、戦傷病者戦没者援護法は軍人・軍属のみが対象で、民間の戦争被害者はその対象ではない。唯一例外的な補償は、原爆被害者に対するものであろうか。 

 ここでは、「日本の戦後補償」日本弁護士連合会編(明石書房)から、ドイツの戦後補償に関する部分を前半・後半の2回にわけて抜粋することにした。下記は、その前半である。
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               第3章 外国の戦後処理
第1 ドイツ

1 補償の理念

 ナチス政権のとった戦争政策と侵略の結果は、ドイツ国の内外に物心両面にわたる莫大な損害として残された。敗戦の惨禍からドイツを再建するためには「過去の克服」が必要であった。それはナチスの犯罪政治を、国民がその出現を許し、それに従ってきた歴史を心に刻みつけるとともに、戦争被害者に国の責任として償い、国民の間に戦争被害の衡平化をはかる必要があった。内外の被害者に対して真摯な謝罪の意を表明し、その具体化として被害について可能な限りの補償をすることであった。戦後のドイツの再建には、これらのことを実行することが何よりも必要であったし、そのような誠意の披瀝によってのみ近隣諸国のドイツ国およびその国民に対する信頼が回復されたのであった。
 ドイツの戦後補償のための法制化は、1949年にはじまり58年までの間に集中的に行われた。その後も補充的措置が引き続いて行われている。


2 補償の体系

 ドイツにおける戦争被害に対する国家補償は、人的損害と物的損害に及び、補償の受領者としては外国人にたいして行われるものもある。その補償の体系は次のように構成されている。

(1) 国の戦争行為によってひきおこされた結果責任補償理念に基づき、国民間
   の被害負担の衡平化をはかる。
① 人的損害に対する措置として戦争犠牲者援護法(BVG,1950)がある。
② 物的損害に対しては負担調整法(LAG,1952)、その前段階として、即時援護法
   (SHG,1949)がある。
   これらの法とその施行法令は戦争被害補償の一般法的地位にあり、その戦
   後処理の中心になっている。
③ 難民及び引揚者に関する法律(難民法 BVFG,1952)
  第2次大戦の結果、ドイツの東部領土の一部が、ソ連邦またはポーランド領と
  なったこと及び東西ドイツに分かれたことにより、そこから西ドイツに避難してき
  た人々の損害にたいする援護法である。 
④ 帰還者法(HKG,1950)捕虜補償法(KgfEG,1954)  
  前者は軍隊等に所属していたため捕虜になった者が帰還した場合の援護法で
  あり、後者はその補充をなすものであって、1947年1月1日以降外国の抑留か
  ら解放され、西ドイツに居住した者に対する援護法である。  
⑤ 賠償補償法(RepG)
  ドイツは敗戦直後、ここで述べる個人補償のほかに、工場施設の接収や海外
  資産の没収などのかたちで連合国側に約2,000億マルクと計算された国家間賠
  償を行っている。
   この補償は連合国により現物賠償として接収された物、接収後返還されたが
  現状回復不能の物、破壊されてしまった物の権利保有者への補償である。
   この法律は、国の利益のために個人の財産を失わせる結果となったことに対
  する補償であるから、公共収用補償の意味をあわせもっている。

(2) ナチス権力の不法行為についての国家賠償
 これは、ナチス政府とそれに従う徒が、世界観、宗教、政治的立場、人種を理由として人びとに加えた生命、身体、健康、自由、所有権、財産への侵害行為から生じた損害および職業的または経済的生活におよんだ不利益に対する国家賠償責任に基づく補償である。
① 連邦補償法(BEG,1956)
   ナチスの迫害による犠牲者のための補充法(BEngG)を先行法として、この法
  の制定により請求権者の範囲、損害の要件および給付内容が拡大された。連
  邦補償法終結法(1965)により請求権者の範囲は一層拡大されるとともにこの
  法による補償の終結がはかられた。 
   人的損害を主な対象とするが、連邦返済法によって補償を受けられない物的
  損害に及ぶ。
② 連邦返済法(BRuG,1957)
   不法に奪われた所有物の現物返還、それが不能の場合あるいは物ではない
  資産についての損害について一時金、年金の支払、低金利貸付などが行われ
  た。
   この法律によって返還・補償を受けた総額は3兆135億マルクにのぼり、その
  4分の3は不動産であるという。
③ ユダヤ人賠償条約(ルクセンブルク協定,1952)
   この条約は、連邦補償法の適用から洩れたナチス被害者に対する補償とし
  て1952年に調印された。その理由は「ドイツ民族の名で名状すべからざる犯罪
  が行われた。これから道徳的かつ物質的な償いの義務が生じた」(アデナウア
  ー首相,1951年9月27日の国会演説)とされている。
④ 一般戦後処理法(AKG,1957)
   ナチス犠牲者以外に国家的不法行為によって、生命、身体、健康、自由の侵
  害をうけた被害者に対する補償である。

3 主要な補償法の内容と問題点
 上記補償法の内容の概要とそれに関係する措置について、日本の対応被害と
関連してのべる。

(1) 戦争犠牲者援護法
 軍事上もしくはこれに準ずる任務にともなう事故及びそれと特有な関係による健康障害を受けた者に対して支給がなされる。そのなかには捕虜、抑留等による健康障害者も含まれている。空襲によって生じた市民の被害についても均しく適用されるが、戦時中のドイツでは市民にも防空義務が課されていたために、この法によって援護を受ける市民の範囲は広い。
 支給の内容は、治療、看護、戦争犠牲者への扶助、障害者への年金支給、死亡の場合の埋葬手当、遺族への年金支給である。
 この法律による既支出額(1988年)は829億マルクであり、現在も年間16億マルクが支出されている。
 日本の戦没者戦傷病者遺族援護法と異なり、市民であろうと軍人軍属であろうと等しく適用を受ける。このドイツ法では、市民に適用された場合、軍事上もしくはこれに準ずる任務に関してという条件があるが、これは専ら被害当時の行動の態様についての客観的事実が基準であって、雇用その他の身分関係は必要条件ではない。
 日本の援護法では国籍条項があって、被害当時日本国籍を有していてもその後外国籍に移った旧植民地出身者は、この法律による援護を受けられない。これに対して、ドイツでは国の外にいるドイツ人(ドイツの国籍を有しない)、ドイツ国内に住む外国人の該当者にも適用がある。なおドイツの国外にいる外国人でドイツ兵役に服していた該当者に対しては、その国の政府と条約の締結によって外国政府に支払いがなされ、それから本人に年金等が支給される。これらの者がドイツ国内に移住すれば直接適用者となる。在韓被爆者、その他の韓国、朝鮮国民、台湾出身者の戦後処理について考えるべきところである。

(2) 負担調整法

 戦闘による破壊(都市爆撃による被害を含む)、旧ドイツ領からの追放、引揚げ等によって財産を失った者に対する対物補償である。
 その支出総額は1987年末で1,165億マルクにのぼる。この適用者の中で旧ドイツ領内から西ドイツに移った者は約、1,000万人に達すると言われ、それらの者に対する給付額はその支出総額の3分の2を占める。これらの者に対しては、難民法、引揚者援護法によって居住地、職業、資金の借入、税法上の取扱い等についての援助がなされている。
 その負担調整法の財源は戦中、戦後に財産を失わなかった自然人、法人が1948年時点で保有していた全財産保有額の2分の1に当たる額を財産税として30年賦で連邦政府におさめ、連邦予算からの支出額とあわせて被害者に支給するものである。この納付金は基金として蓄積されていたが、79年をもってこの基金はなくなり、現在は連邦予算によって支給がなされている。

 なお、この法律は現在も作用していて、東ヨーロッパの各地域からドイツに移ってきたドイツ人にも適用されていた。ただし、移住にあたり前住地で財産を処分してきた者には財産的損失をともなわない場合が多い。その場合は支給はされないことになる。
 東ドイツ地域内でおきた当該損害については、この法律の適用はなかったのであるが、ドイツの統一後、これに対してどのような処置がとられるのか注目されるところである。


 (3) 賠償補償法

 ドイツ政府は外国に対して今次の戦争に関する請求権を放棄した。そのような請求権の中には国民の受けた私的損害から生ずるものがあった。その被害国民は外国政府からドイツ国に対する賠償を通して補償を受ける可能性があったが、ドイツ政府の請求権放棄によりそれが失われた。ドイツ連邦政府は、それら国民の外国による被害に対する補償が請求権放棄により実現しなくなったことの代償としてこの法律を制定、適用して補償を行った。公共収用補償にあたる。

 その補償内容は負担調整法による場合と同額である。ただし、これらの場合、被害評価は市場価格より低いといわれている。両法は法的性格の相違はあるが、国民の間の戦争被害の負担を均しくするための措置であることでは相違がない


(4) 連邦補償法

 ナチス等による被害者に対する補償立法である。直接的身体的な害悪を受けた者ばかりでなく、強制収容所に入れられた者、医学的実験被害者も含まれる。
 適用対象者は1947年1月1日まで西ドイツ地域に居住していた者、1937年当時のドイツ領内の居住者である。したがって1935年のニュルンベルク人種法発効前にドイツを去ったユダヤ人等は除外される。この法律によって支払われた額は、一時金、年金で1991年1月までに約864億マルクである。現在の年金受領者は約15万人、月額総計約1億2,000万マルクである。

 この法律の適用については問題が多いとされている。例えば、被害者の社会的地位によって補償額が違うために、支給をうける者の間のアンバランスが指摘されている。また、死因と受傷との因果関係が証明される場合以外の死亡者の遺族に対して、支払いがなされないことも問題とされている。


 この法律の関連法として
① 「公務従事者のためのナチスの不法行為に対する補償規制法」(BWGOD,1951)
 ナチス体制下で公務から遠ざけられ、諸権利を失った公務従事者のための法である。再採用の請求、停滞させられた昇進の回復等であるが、早く退職させられた公務員とその扶養家族の救済のためにも適用がある。再雇用に適さなくなった状態にある者に対しては、在職時同じような条件にあった退職者に支給される年金と同額の給付がなされる。

② 「社会保険に関するナチスの不法行為に対する補償についての諸規則の改正・補正のための法律」(1970)
 この種の補正は1949年に始まる。ナチス関係諸機関による逮捕、失業、余儀なくされた外国滞在のための期間の欠落等のため、社会保険給付で損害を受けた分についての補償措置である。事故保険、年金保険等について迫害を理由に支払いを停止された者に、後から支払われるべきこととなった。
 日本の治安維持被害者は弾圧に基づく失職などにより在職期間通算上の不利によって恩給等の支給を受けられない状態にあり、それが戦後措置として回復されず、現在に及んでいるのと対象的である。
 この補償法は、西ドイツの自由、民主的基本秩序に敵対する者には適用しないとの条文の存在と、1956年8月の憲法裁判所の共産党(KPD)禁止判決により、ナチスに抵抗した被害者でありながら、その適用をはばまれている者があることが問題となっている。
 連邦政府の補償とは別に11の州政府が独自にこの種の補償をしており、上の除外者でこれにより補償を受けている者もある。



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2014/03/06

三・一運動と高宗前皇帝の急逝(毒殺?)

 三・一運動とは、日本統治時代の朝鮮で、1919年3月1日に始まった運動であり、独立万歳運動や三・一独立運動などと呼ばれることもある。また、万歳事件、三・一事件などと呼ばれることもあるという。数ヶ月に渡って朝鮮半島全土で展開されたが、朝鮮総督府は、警察に加え軍隊も投入して治安維持に当たったという運動である。

 そして、その三・一運動が、民族挙げての運動になったのは、高宗前皇帝(太皇帝・光武帝)の急逝という事件が導火線になったという。ながらく抑圧されてきた民族の力が公憤として爆発したのは、当時のアメリカ大統領ウィルソンが主張した民族自決主義の考え方に感化されたからではなく、また、難解な漢文で書かれた独立宣言文に共感したからでもなく、殉死を覚悟して韓国の主権守護にあらゆる手を尽くしていた高宗前皇帝が疑問死をとげたからであるという。もちろん、ウィルソンの民族自決主義の主張や独立宣言文も様々なかたちで影響を与えたであろうことは否定できない。しかし、大衆動員の起爆剤となったのは、あくまでも条約批准の拒否や国書の下達、ハーグ特使派遣など主権守護に手を尽くしていた高宗前皇帝の疑問死である、というのである。日本の支配に不満を募らせていた朝鮮民族が、高宗前皇帝の急逝を、日本人による毒殺と見なして不満を爆発させ、起ち上がったということである。
 当時、第2次日韓協約(乙巳条約)が不法に強制されたものであること、また、皇帝が主権守護の意思を持ち、ねばり強い外交交渉を続けて抵抗していることなどについて、韓国国民は新聞報道などでよく知っていたという。したがって、毒殺が疑われる高宗前皇帝の急逝を知らされたとき、君主の仇をうたなければならないと立ち上がった、というわけである。
 
 それは、三月一日の早朝、東大門と南大門などの主要地域に張り出された下記のような壁新聞にはっきりとあらわれているという。

 ああ、わが同胞よ! 君主の仇をうち、国権を回復する機会が到来した。
こぞって呼応して、大事をともにすることを要請する
   隆煕13年正月
                                   国民大会


 また、ソウル以外の地方大都市での集会は、大部分「奉悼会」を開催するとの名文で、大衆が動員されたという。

 米高官に「日韓関係改善は米国外交の優先課題」と言わしめるほどに、現在の日韓関係は冷え込んでいるようであるが、歴史認識の問題として、日本人はこうした事実にも、目を向けなければならないと思う。総督府の日本人関係者が、高宗皇帝の妃である明成皇后(閔妃)を殺害し、高宗皇帝を強制退位させたばかりでなく、日本の植民地支配に抵抗し続けた高宗前皇帝を毒殺したと疑われているのである。
 高宗前皇帝の急性が毒殺であると考えられた根拠は、以前にも触れたが、要約して下記の4つに整理されている。

 (1)崩御後、即時に玉体に紅斑が瞞顕し糜爛した。
 (2)侍女二人が同時に致死した。
 (3)尹徳栄、尹沢栄は当日、晨4時に諸貴族を宮廷内に請激し、日本人が弑殺
    したのではないという証書に捺印しようとする運動に尽力したが、朴泳孝、李
    戴完の両人の反駁によって証書がならなかったのはなぜか。
 (4)閔泳綺、洪肯燮が玉体を歛襲するとき糜爛が早すぎるのを不審に思い、こ     れを外に伝えたところ日本人警官がただちに右の2人を拿致、詰問して激論    した。


 当時、すでに、パリ大学の国際法学者レイ教授が、第2次日韓協約(乙巳条約・乙巳勒約)が無効であると指摘しており、国際法学界でも受け入れられていたということが「日韓協約と日韓併合 朝鮮植民地支配の合法性を問う」海野福寿編(明石書店)で明らかにされている。下記は、その一部抜粋であるが、だとすれば、高宗皇帝の抵抗は当然のことであり、その毒殺説についても、歴史認識の問題として、真摯に向き合わなければならと思う。
----------------------------------
         Ⅴ 光武帝の主権守護外交1905-1907年

2 対米交渉と米国の違約:1905年親書・電報・白紙親書


 ・・・
 
 …乙巳勒約の強制直後、『ロンドン・タイムズ』は条約締結の事実を報道した。この記事は主に日本の資料を用いたもので、日本の公式立場を代弁していた。それにもかかわらず、大臣らが調印を頑強に拒むと伊藤が長谷川を動かして武力を行使し、介入した事実が報道された。この報道と、その後明らかにされた光武帝の勒約無効の外交交渉の事実を知るようになったパリ大学の国際法学者レイ教授は、1906年に『国際公法総合雑誌』に「韓国の国際状況」という論文を発表した。この論文で、彼は光武帝の勒約無効の外交交渉の事実と乙巳条約の不法性について、次のように指摘した。


 ところで、極東の急送公文書の結果、先月11月の条約は、日本のように文明化した国家の精神的かつ肉体的な不当な脅迫によって韓国政府に強要されたのであった。この条約の署名は、日本の全権大使である伊藤公爵と林氏を護衛する日本軍兵士たちの威圧の下で、大韓帝国皇帝と諸大臣から得られたものにすぎない。2日間の抵抗の後、閣議はあきらめて条約に署名したが、皇帝はただちに強大国へ特使、とくにワシントンには大臣を遣し、加えられた脅迫に対して猛烈に抗議をするように命じた。
 署名が行われた特殊な状況を理由に、われわれは1905年の条約が無効であることを確認することに躊躇しない。実際、私法の諸原則の適用により、公法においても、日本の全権大使による個人に加えられた脅迫は、条約を無効とする、同意不備にあたるものと認められる。


 要するに、締結過程で強迫が加えられ、また皇帝がただちに勒約無効化の外交交渉を試みたという事実を根拠に、レイは乙巳条約が無効であることを明らかにした。この論文が発表されて以来、乙巳条約は強迫によって締結されたために無効となる条約の、代表的な事例として国際法学界に知られるようになった。この論文以後、他の国際法の論著にも、この事実が紹介されている。だが、日本の国際法学者である有賀長雄だけがレイの主張を受け入れなかった。彼は日本の侵略をごまかすために、1906年に書いた『保護国論』で、レイ教授の主張と、その根拠となった『タイムズ』記事のように強迫が行使されて条約が締結されても、ほかの国家も類似の行為をしたのだから「おれだけに殺人強盗の罪を問わないでほしい」という詭弁を弄した。その後、この詭弁は国際法学者の論議で一度たりとも受け入れられなかった。後述するが、レイの法律的解釈は、その後、国際法学会で検討が重ねられ、その正当性が再確認されて今日に至っている。

 ・・・(以下略)

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2014/02/26

日本の韓国併合・植民地支配は合法だったか

 日本が韓国を併合し植民地化した当時、西欧列強諸国も武力を背景に弱小国を植民地化していた。したがって、日本の韓国併合は合法であり問題はなかった、というのが日本政府の考え方である。でも、はたしてそうか。下記、資料1~4のような文書の存在は、そうした考え方に疑問を抱かせる。

 高宗皇帝(光武帝)は、第2次日韓協約(乙巳条約)締結の1905年前後に、日本の植民支配の流れに抗して、外国の元首に対し、韓国の主権守護への協力を要請する親書を数回発送しているという。そして、1906年6月22日付の光武帝の親書が、87年目にして、米国コロンビア大学貴重図書・手稿図書館に保管されている「金龍中文庫」の中から発見された。
 それは、光武帝の乙巳条約(第2次日韓協約)無効宣言に関する親書であり、ハルバートを特別委員に任命して委任状を与え、米国、英国、フランス、ドイツ、ロシア、オーストリア、ハンガリー、イタリア、ベルギー、中国など当時の修好通商条約対象国9カ国元首に宛てたものである。この親書が元の状態で発見されたということは、結局これが伝達されなかったと考えられる。ハルバートが密旨に沿う外交交渉に乗り出そうとした1907年7月には、光武帝は同年4月のハーグ万国平和会議に特使を派遣し、主権を回復させようとした試みによって、強制退位させられたからである。親書を発送した光武帝は、もはや大韓帝国の皇帝ではなく、したがって、委任状と親書は効力を喪失してしまったとハルバートが考えた、ということのようである。日本の強引な大韓帝国皇帝強制退位によって、韓国の主権守護の外交交渉は終わってしまったということになる。

 今までに、乙巳条約締結が無効であったという根拠はいくつか示されてきた(乙巳条約締結が無効であれば、韓国併合の合法性が問われる)。
 まず、ハーグ万国平和会議に派遣された李相尚正使、李儁副使、李瑋鐘の3人の特使が連名で作成した文書に、条約が皇帝の許可なしに強制された事実が明らかにされている。
 また、尹炳奭教授は、日本外務省外交史料館に保管されている条約文書に、批准書がない事実を確認したという。
 さらに、李泰鎮教授は、乙巳条約はもとより、いわゆる丁未条約も、国家間の条約で最も重要な手続きである、全権委任がなしに作成されたものであることを明らかにしている。
 その上、この親書が発見されたのである。主権者である皇帝自ら、条約が不法かつ無効であることをはっきり示している。手続き的に様々な問題があり、おまけに皇帝が不法で、無効であるという条約が、合法であるといえるのか。日本側は、一貫して、諸条約は合法的に締結され、有効である主張してきたが、考えさせられる。下記は
「日韓協約と日韓併合 朝鮮植民地支配の合法性を問う」海野福寿編(明石書店)からの抜粋である。
資料1------------------------------
       Ⅴ 光武帝の主権守護外交・1905-1907年 
          ──乙巳勒約の無効宣言を中心に──

二 対米交渉と米国の違約:1905年親書・電報・白紙親書


 ・・・

 朕は銃剣の威嚇と強要のもとに最近韓日両国間で締結した、いわゆる保護条約が無効であること宣言する。朕はこれに同意したこともなければ、今後も決して同意しないであろう。この旨を米国政府に伝達されたし。
                                       大韓帝国皇帝

 この電文は勒約についての皇帝の考え──勒約無効、同意拒否──をもっとも簡潔明瞭に伝えている。この電文はハルバートによって12月11日に国務次官に伝達されたが、米国はこれを黙殺した。
 光武帝はハルバートを派遣した直後、対米交渉を強化するために追加措置をとった。パリ駐在の閔泳瓚公使に、米国に急行して外交交渉を強化するよう秘密訓令をくだした。閔公使は12月7日、特命全権資格がないことを通告し、皇帝の意思を伝えるために会談を申し込み、11日にルートと会談した。ルートは12月19日付の答信を送り、「善為調処」の約定による何らかの協力は不可能であるとの立場を通報した。米国は、この答信を日本公使に送るという親切さも忘れなかった。11月末以後、めまぐるしく展開された「文書伝達者」ハルバートと閔公使の対米交渉は、結局米国の非協力でなんの成果もあげられなかった。


 ・・・(以下略)
資料2------------------------------
三 勒約無効宣言と共同保護:1906年1月29日国書

 1906年1月29日に作成された文書は、光武帝が列強の共同保護を要請する意図を公にした最初の文書である。この文書は海外に密送され、1年後に新聞報道によって国内に伝えられた。だが、文書作成経緯と伝達過程、宣言の内容などを通じて確認できる皇帝の帝権守護の外交交渉は、まだ明らかにされていなかった。この文書は『大韓毎日申報』1907年1月16日付に次のように報道された。

1、1905年1月17日、日本の使節と朴斉純が締約した五条約は、皇帝は認可も
  押印もされていない。
2、皇帝は、この条約を日本が勝手に頒布することに反対された。
3、皇帝は、独立帝権を一毫も他国に譲与されたことはない。
4、外交権における日本の勒約は根拠がないし、内治上の一件たりとも認准するこ
  とはできない。
5、皇帝は、統監の来韓を許可されておらず、外国人が皇帝権を擅行することを寸
  毫も許されていない。
6、皇帝は、世界の各大国が韓国外交を5年間の期限付きで共同で保護すること
  を願っておられる。
     光武10年1月29日
     国璽


 この文書が新聞に掲載された際「親書」と紹介されたが、次のような文書形式上の特徴をみれば親書と見なしがたい点がある。文書は「皇帝は…」というように三人称を用いている。親書や委任状では皇帝が自分をいつも「朕」として一人称を使っている。親書では皇帝自身が発信者であることを明示するとともに受信者を特定する。皇帝の意思であることを証明するため御璽を使い、ほとんどの場合「親署押鈴寳」という文字とともに皇帝の花押し御璽が押される。ところが、右の文書では発信者と受信者が明示されず、花押もなく大韓国璽のみがだけが押されている。…

・・・

 この国書は、皇帝の他の親書と切り離しても、それ自体として注目に値する意義のある文書である。とくに国書作成の意義はその作成時期に求められる。この文書は勒約が不法に締結されてから約2ヶ月目に作成された。慣用句を借りれば、五賊と日本公使が勝手に押した「印章の朱肉が乾かぬうちに」皇帝はこれが無効であることを宣言したのである。この文書は、光武帝が乙巳年11月18日の早朝に起きた事件をまったく認めていないことを明示している。…

資料3------------------------------
4 勒約無効、国際裁判所提訴の要請:1906年6月22日親書

 光武帝が1906年6月22日に作成して発送した親書は、乙巳勒約が国際法的に無効であることを立証するもっとも決定的な外交文書である。


・・・

 朕、大韓皇帝はハルバート氏を特別委員に任命し、我が国の帝国皇室と政府にかかわるすべての事項について英国、フランス、ドイツ、ロシア、オーストリア、ハンガリー、イタリア、ベルギーおよび清国政府など各国と協議するよう委任した。この際ハルバート氏に親書を各国に伝達するようにさせており、各国皇帝と、大統領、君主陛下に対して、この親書で詳細に明らかにされているように、わが帝国が現在、当面している困難な状況を残らずに聞き入れてくれるよう望むものである。

 将来、われわれはこの件をオランダのハーグ万国裁判所に付しようとするものであり、これが公正に処理されるように各国政府は援助してくれることを願う。
  大韓開国515年6月22日
  1906年6月22日
 

 ハルバートを選んで特別委員に任命した理由は自明である。光武帝が結局、日本の主権侵害を国際裁判所に提訴し、国際公法によって解決する考えをもっていたのである。この密旨を忠実に履行するためには、9カ国の列強国家元首に対して当面の事態について「残らずに」十分協議ができる特命全権の委任をうけた外交官がいなくてはならない。皇帝が信頼するにたりる帝国官吏がいない状況で、外国との交渉であるという点を念頭においてハルバートを選んだのである。…

・・・(以下略)

資料4------------------------------

 …次はハルバートが伝達するために委任された親書の韓国語訳である。

 大韓国大皇帝は謹んで拝大ロシア大皇帝陛下に親書を差し上げます。
 貴国とわが国は長い間、数回にわたって厚い友誼を受けて参りました。現在、わが国が困難な時期に直面しているので、すべからく正義の友誼をもって助力してくださるものと期待しております。


 日本がわが国に対して不義を恣行して、1905年11月18日に、勒約を強制締結しました。このことが強制的に行われた点については、3つの証拠があります。
 第1に、わが政府の大臣が調印したとされるものは、真に正当なものではなく、
    脅迫を受けて強制的に行われたものであり
 第2に、朕は政府に対して調印を許可したことがなく、
 第3に、政府会議について云々しているが、国法に依拠せずに会議を開いたもの
   であり、日本人が大臣を強制監禁して会議を開いたものであります。

 状況がこうであるため、いわゆる条約が成立というのは、公法に反するため、当然、無効であります。
 朕が申し上げたいのは、いかなる場合においても断じて応諾しなかったということであります。今回の不法条約によって国体が傷つけられました。ゆえに将来、朕がこの条約を応諾したと主張することがあっても、願わくは陛下におかれては信じたり聞き入れたりせず、それが根拠のないことをご承知願います。

 朕は、堂々とした独立国家がこのような不義で国体が傷つけられたので、願わくは陛下におかれてはただちに公使館を以前のようにわが国に再設置されるよう望みます。さもなくば、わが国が今後この事件をオランダのハーグ万国裁判所に公判を付しようとする際に、わが国に公使館を設置することによって、わが国の独立を保全できるよう特別に留意してくださることを望みます。これは公法上、真に当然なことでしょう。願わくは、陛下におかれては格別の関心を寄せられるよう期待します。


 この件の詳細な内容は、朕の特別委員であるハルバートに下問してくだされば、すべて解明してくれるだろうし、玉璽を押して保証します。
 陛下の皇室と臣民が永遠に天のご加護がありますよう、厳かに祈ります。併せてご聖体の平安を希求いたします。
   大韓開国515年6月22日
   1906年6月22日
                             漢城において、李熙・謹白
   御璽

 この文書の書誌的な特徴と真偽を検討してみる。この二つの文書に使用された印章はすべて「皇帝御璽」の文字が刻まれた御璽である。この印章は「寳印符信総数」に登録された御璽ではない。また「親署押鈴寳」という文字がない。したがって、皇帝の花押もなく、御璽だけが押されているのである。すなわち、ハルバートに秘密に渡された外交文書には未登録印章が使われ、花押がない。こうした形式上の問題は、それらの文書がはたして光武帝が作成したものかどうかを疑わせる。だが、「寳印符信総数」に登録された印章は、勅令や法律、詔勅などのように、内政にかかわる法令を皇帝が裁可する際に使われた花押と御璽である
。…

 ・・・(以下略)
  

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2014/02/17

大韓帝国皇帝高宗の妃、明成皇后(閔妃)殺害事件

 最近日本では、嘆かわしいことに、民族的マイノリティ、特に在日韓国・朝鮮人に対するヘイトスピーチや差別落書きなどが、後を絶たない状況のようである。安倍政権の強硬路線によって、靖国参拝問題や「従軍慰安婦」問題、さらには竹島をめぐる領土問題や「安重根」記念館問題など、歴史認識に関わる問題での対立が深まり、それを背景として、営利を目的とした週刊誌などのメディアが、扇情的な報道を繰り返し、次々に出版される著作物が「嫌韓」「反韓」「憎韓」などをかき立てて、民族差別を煽っているからであろう。朝鮮学校の高校無償化法からの排除など、国や自治体の決定も、人々の差別・排除意識を助長してしまっていると思う。

 相変わらず、日本の「従軍慰安婦」問題など、過去の不都合な事実をなかったことにしようとする主張が繰り返されているが、そうした主張は、世界では通用しないし、日本の孤立化を招くだけであろう。日韓や日中の関係改善のためには、真摯に過去に向き合い、共通の歴史認識をもとめて協力するしかないのだと思う。

 ここで取り上げるのは、以前にも取り上げたことがあるが、李氏朝鮮の第26代王・高宗の妃、明成皇后(閔妃)殺害事件である。昔の事件であるとはいえ、当時の日本の指導者層の韓国に対する所業が、いかに理不尽なものであったかを思い知らされる事件である。伊藤博文を殺害した安重根も、「伊藤博文の罪状15ヶ条」の最初にこの事件を取り上げている。こうした事実をなかったことにして、「嫌韓」・
「憎韓」「反韓」の流れに沿って、「愛国心」を語る政権の危うさを指摘せざるを得ない。

 下記は、いずれも明成皇后(閔妃)殺害事件に関わる日本人関係者の文章であり、まさに動かぬ証拠であるといえる。事件の背景に、興宣大院君と閔妃の権力闘争があったとはいえ、他国の王妃を殺害するなどということは許されることではない。「日本の韓国併合」山辺健太郎(太平出版社)からの抜粋である

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                  Ⅶ 閔妃事件について

1 閔妃事件とは何か

 閔妃事件というのは、1895(明治28)年10月8日、一団の日本軍隊と日本の民間人がソウルにあった朝鮮王宮に侵入して、王妃を殺した事件である。

 ・・・

 そこで私は、まず事件当日のもようを、当時ソウル駐在の一等領事内田定槌の談話から再現させることにしよう。

 私ハ其ノ頃領事館ニ住ンデ居ツタガ、或ル朝(明治28年10月8日)ケタタマシイ銃声ニ眠リヲ破ラレタ。窓ヲ開クト未ダ夜ハ明ケ切ラヌ館内ニハ警察署ガアツタノデ、何事ガ起ツタカト巡査ニ訊イタガ、知ラヌト言フ。荻原警部ヲ起シニ行ツタガ、其ノ室ニ居ラヌ。厩舎ヘ行クト私ノ馬ガ見エナイ。ドウシタカトイ巡査ニ訊クト、警部ガ乗ツテ行キマシタト言フ。其ノ中ニ銃声ハ止ンダ。近クニハ新納少佐ト云フ海軍ノ公使館附武官ガ居ツタノデ、ソコヘ行ツテ訊イテ見タガ、何ノコトカ分ラヌト言フ。
 又当時ノ外交官補日置益君モ近クニ居ツタガ、矢張リチツトモ知ラヌト言フ。

 ソウシテ居ル中ニ、血刀ヲ提ゲタ連中ガ帰ツテ来テ新納少佐ノ所ヘ報告ニ行ツタ。私モソコヘ行ツテ話ヲ聞イタガ、其ノ連中ハ昨夜王城ニ侵入シテ王妃ヲ殺シタノダト云フ。ドウシテ行ツタノダト尋ネルト、最初ハ大院君(国王ノ父デ王妃トハ犬猿ノ間柄デアッタ人)ガ朝鮮人ヲ率ヰテ王城ニ侵入シ王妃ヲ殺ス筈ダッタ。ソレニ就テハ前カラ種々策謀ガアツタ。例ノ岡本柳之助ガ参謀デ大院君ヲ引ツ張リ出スノガ一番宜シカラウト云フコトニナリ、岡本ガ大院君ニ勧メテ行ツタ。其ノ時一緒ニ勧メニ行ツタノガ領事官補ノ堀口(九万一)君。同君ハ朝鮮語ハ出来ナイケレトモ漢文ニ通ジ文章ガ達者ナノデ筆談ヲシタ。其ノ結果大院君モソレデハ君側ノ奸ヲ倒ス為ニ起タウト承諾シタ。最初ノ計画デハ夜半ニ日本ノ兵隊ト警察官ガ大院君ヲ先頭ニ立テ、王城ニ入リ朝鮮人ガ王妃ヲ殺害スル筈デアツタガ、大院君ハ仲々出テコナイ。京城郊外ノ大院君ノ邸ヘ岡本ヤ堀口ガ夜中ニ行ツテ促ソウトシタガ、大院君ハ仲々出テコナイ愚図々々シテ居ルト夜ガ明ケ始メタノデ、多勢ノ日本人ノ壮士等モ一緒ニナッテ無理矢理ニ大院君ヲ引ッ張リダシ真先ニ守リ立テテ王城ニ向ツタ。王城侵入ノ際護衛兵ガ発砲シテ抵抗シタケレトモ日本兵ガ之ヲ追ヒ散ラシ城内ニ入ツタ。


 サウ云フ死骸ノ始末ニ付テハ関係人カラ後デ聞イタノダガ、兎ニ角私ハ非常ニ困ツタ。公使ニ会ツテ話ヲ聞ケバ万事分ルダラウト思ツテ公使館ヘ出掛ケタカ、公使ハ、一寸待ツテ呉レト云フコトデ直グニ会ハナイ。公使ハ2階ニ居リ、私ハ下ノ待合室デ待ツテ居ルト、2階デ頻リニ鐘ノ音ガスル。妙ナコトダト思ツテ居ルト、20分バカリシテ2階ヘ通サレタ。スルト公使ハ床ニ不動明王ノ像ヲ飾ツテ灯明ヲ上ゲテ拝ンデ居ル。ソコデ私ハ「大変ナ騒ギニナリマシタネ」ト言フト、公使ハ「イヤ是デ朝鮮モ愈々日本ノモノニナツタ。モウ安心ダ」ト言フ。ソレデ私ハ「併シ是ハ大変ナコトデス。日本人ガ血刀ヲ提ゲテ白昼公然京城ノ街ヲ歩ツテ居ルノヲ朝鮮人ハ素ヨリ外国人モ見タニ相違ナイカラ日本人ガ此事変ニ関係シタコトハ隠スコトハ出来マセヌ。併シ日本ノ兵隊ヤ警察官、公使館員、領事館員等ガ之ニ関係シタコトハドウニカシテ隠シタイト思フガ、ソレニ就テハドウ云フ方法ヲ講ジタラ宜イデセウ」ト言ツタガ、公使ハ「俺モ今ソレヲ考ヘテ居ルノダ」ト言ハレタ。 

 公使ト話シテ居ル中ニ露国公使ガ血眼ニナツテヤツテ来タノデ私ハ席ヲ外シタガ、露国公使ガ帰ツテカラ再ビ2階ヘ上ツテ見ルト、公使ハ非常ニ悄レテシマツテ居ル。ソコデ私ハ、日本人ガ関係シタコトダケハ何トシテモ隠蔽シナケレバナルマイト繰返シ言ツテ公使ト別レタガ、偖テソレカラドウシタラ宜シイカ考ヘガ付カヌ。外務省ヘ知ラセヨウト思ツテモ電信ハ公使館ノ命令デ差止メラレテシマツテ居ル。公使館以外ノ者ハ一切電報ヲ打ツコトヲ差止メラレテシマツタノデ私モ無論電信ヲ出スコトハ出来ナイ。後デ聞ケバ「昨夜王城ニ変アリ王妃行衛ヲ知ラズ」ト云フ電報ヲ公使館カラ外務省ヘ送ツタサウダガ、ソレ切リ止メテシマツタノデ私ハドウスルコトモ出来ナカツタ。

 其ノ中ニ堀口君ヤ警部ガ帰ツテ来タノデ堀口君ニ「君ハ大変ナコトヲヤッタガ、アトハドウスル積リカ、僕ニハ此ノ始末ハ出来ナイ」ト言ツタラ、何トモ答ヘナイデ黙ツテ居ル。矢張リドウシテ宜シノカ分カラナイノダ。ソコデ私ハ「僕ノ考ヘデハ是ハドウシテモ日本政府ニ始末ヲ委スヨリ他ハナイ。併シソレニハ日本ノ外務省ガ事実ヲ能ク知ラネバナラヌトコロガ外務省カラ何ヲ言ツテ来テモ公使館カラハ返事モヤラナイヨウナ状態デハ外務省デモ真相ヲ掴ミ得マイ。君ハ最初カラ事件ノ真相ヲ知ツテ居ルヨウダカラ、スッカリ其ノ始末ヲ書イテ本省ニ報告シテ呉レ」ト言ツタスルト堀口君ハ達筆ナノデ直グ長イ報告ヲ書イテ特使デアツタカ郵便デアツタカハハッキリ記憶シナイガ兎ニ角本省ニ送ツタ。

 其ノ話ヲシテ居ル間ニ、突然昨夜王城に変アリ云々ノ電報ガ来タノダ。併シソレカラ引続キ詳報ヲ何モ送ラナイノデ顛末ガ分ラナカツタガ、堀口君ノ報告書ガ行ツテ初メテ驚イテシマツタラシイ。ソレデ其ノ善後策ヲ講ズル為ニ小村政務局長ガ朝鮮ニ出張ヲ命ゼラレタノダ。

 私モ申訳ナイカラ進退伺ヒヲ出ソウト思フト小村局長ニ話シタラ、君ハ何モ関係ナイカラソンナコトヲスル必要ハナイト云フヤウナ訳デ出サナカツタ。小村局長ノ考ヘデハ、此ノ事件ハ京城デハ処分出来ナイカラ日本デ処分スルヨリ他ナイト云フコトニナリ、関係者ハ皆日本ヘ帰スコトニナツタ。公使館員モ軍人モ関係シタ者ハ皆召還シ、民間人ハ在留禁止、退韓ヲ命ズルコトニナツタガ、其ノ命令ヲ出スノハ領事タル私ガ言ヒ付カツタ。其ノ時在留禁止ヲ命ジタノハ47人アツタト思フガ、ソレ等ノ人間ヲ一々呼出シテ命令ヲ渡シタ。トコロガ皆大イニ其ノ時喜ンデ居タ。

 殊ニ岡本柳之助トハ、私ハ斯ウ云ウコトヲシタノタカラドンナ処分ヲ受ケテモ仕方ナイノニ、在留禁止デ済メバ非常ニ有難イト言ツテ喜ビ、其ノ他ノ壮士連モ皆有難ク在留禁止命令ヲ御受ケシタ。安藤謙蔵氏ナトモ矢張リ此壮士連ノ首領株ダツタガ、ソレ等ノ連中ハ皆公使館ノ人々、陸軍々人等ト一緒ニ京城ヲ立ツテ仁川カラ船ニ乗ツタ。船ノ名前ハ忘レタガ、皆大イニ手柄ヲ立テテ、勲章デモ貰ヘル積リダツタラウカ喜ビ勇ンデ内地ヘ向ツタ。トコロガ宇品ヘ着ヤ否ヤ皆縛ラレテ牢ニ入レラレ、広島地方裁判所テ裁判ヲ受ケルコトノニナツタ。

 広島デ王妃殺害事件ノ公判ガ進行シテ居ル間ニ、朝鮮国王ハ王宮ヲ脱出シテ露国公使館ニ逃ゲ込ンダ。(注=露館播遷ハ29年2月11日、三浦等の免訴釈放は1月20日。故にこの談話は事実とちがう)ソレハ露国公使館員ガ朝鮮宮内官ト通牒シテヤツタ仕事デアツタ。ソレカラ又「アメリカ」ノ宣教師ト朝鮮人ガ一緒ニナツテ日本党ノ人々ヲ暗殺スル陰謀ヲ企テタガ、ソレハ朝鮮政府ノ当局ガ皆犯人ヲ逮捕シ処分シテシマツタ。サウ云フ事件ガ次カラ次ニ起ツタノデ日本ノ方デモ、露国人ヤ米国人ガソンナ陰謀ヲ企テル空気中ニ於テハ日本人ノ犯罪ニ限リ厳重ニ検挙スル政策ヲ執ル必要ハナイト云フヤウナ論議ガ起ツテ来タ。ソレニ又一方朝鮮当局ノ方デモ王妃殺害事件ノ審理ヲ遂ゲタル処王妃殺害者ハ朝鮮人ノ何某ト決定シ既ニ死刑ニ処セラレタカラ、日本ノ裁判所ガ本件ヲ審理スル必要ハナイト云フ理由デ被告人ハ一同無罪放免ニ決定シタ。

 併シ当時私ハ非常ニ苦シイ立場ニ在ツタ。ソレト云フノハ領事タル私ハ広島地方裁判所ノ嘱託ニヨリ予審判事ノ職ヲ勤メナケレバナラナカツタ。本件ノ関係人ハ公使館員初メ壮士ノ連中モ皆平素私ノ知ツテ居ル人々デ、ソレ等ノ人々ノ犯行ヲ一々調査シナケレバナラヌノニハ私モ大変困ツタ。併シ領事館巡査ノ中一番朝鮮語ガ上手デ最初カラ事件ニ関係シテ居ツタ渡辺応次郎巡査ダケハ内地ヘ帰サナカツタノデ、広島裁判所ノ依頼ニ依ツテ取調ヲスル時ニハ、其ノ巡査ニ命シ王城内ノ実地ヲ調ベサセテ報告モアル。


 要スルニ、表面ハ朝鮮人ガ王妃ヲ殺シタコトニナツテ居ルケレドモ、実際ハ右ニ述ベタヤウナ次第デアツタ。

 ・・・

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2 事件の真相

 以上のことはこれまでだいたい知られていたことである。その奥にある真相はまだ知られていない。私はつぎにこの事件についていままで知られていない2~3の事実をここに紹介しよう。当時ソウルにいた内田領事が外務省に送った報告書のなかで、この事件の善後策についてつぎのようにいっている。

 事変後既ニ数日ヲ経テ日本人ノ之ニ関係セシコト最早隠レナキ事実ニ相成候ニモ拘ハラス尚当館ニ於テ公然其取調ニ着手不致候テハ外国人ニ対シテモ甚タ不体裁ニ付キ10月12日ヨ至リ先ツ警察官ヲシテ関係者ノ口述ヲ取ラシムルコトニ致候処杉村書記官ハ其意ヲ国友重章ニ伝ヘ関係者中甘ンシテ我警察ノ取調ヲ受クヘキ者ノ姓名ヲ選出セシメタルニ即チ別紙第5号及第6号写ノ通リ申出テ尚取調ヲ受ケタル節ハ別紙7号ノ通リ同一ノ申立ヲ致スヘキ様彼等ノ間ニ申合ハセシメタリ

 要するに、世間体がわるいから見せかけだけの取調べをやるが、そのときの陳述内容は、「同一の申立」をするように「申合」をやらせた、というのである。ここにいう別紙第5号とは、杉村書記官からの要請にたいして、国友重章が差し出した手紙で、このなかにすすんで兇行者であることを名のりでる予定になった者の氏名をあげている。第6号は兇行者として、藤勝顕の名を追加しただけであった。
 事件の真相を知るうえにもたいせつな資料だと思うので、全文引用しておく。


別紙第5号
 拝啓仕候先刻之御話ニ従ヒ色々評議之末別紙ノ人名ハ何時御召喚有之候共差支無之候間左様御承知可被下候尚願クハ明日直ニ御開始有之候様希望致候先以書中草々如此御座候                     頓首
  10月11日夜                             国友重章
 杉村 清殿


 ここにいう別紙の人名とは次の者であった。すなわち、
  国友重章、月成光、広田止善、前田俊蔵、平山岩彦、隅部米吉、沢村雅夫、武田範之、吉田友吉、片野猛雄、大嵜正吉
 以上11人に藤が加わり12人になったわけである。
 領事の命令で、「同一申立」をするためにやった「申合」の内容というのは、つぎのようなもので実に人を馬鹿にしたものであった。


一、私交上○○君ノ依頼ヲ受ケテ随行入闕シタル者ナリ而シテ右ハ全ク自己ノ意
   思ニ出テタリ
一、依頼ノ趣意ハ単ニ随行ト云フコトナリシモ○○君ノ真意ハ途中安心ノ為メ同行
   ヲモトメシコトナラン我々モ亦之ヲ黙諾シテ応ゼシコトナリ
一、途中宮門ニ至ル迄ハ何事も無カリシガ光化門前ニ至リテ朝鮮兵相互ノ小戦興
   レリ右小戦ハ蓋シ訓練隊ガ強テ入闕セントシタルヲ侍衛隊又ハ宮中巡査ハ    中ヨリ之ヲ拒ミ終ニ争戦ニ及ヒタルコトト思考セリ是時我々ハ唯○○君ニ危害   ノ及ハザランコトニノミ注意セリ
一、○○君入闕ノ趣意ハ全ク榜文ト同様ノ事ナ館リシ而シテ我々ハ之ヲ黙諾シテ
   随行シタルモノナリ
一、○○君同行ノ時朝鮮人モ多数随行シ其中日本服ヲ着シタル朝鮮人モ大分見
   受ケタリ
一、宮内ニ於テ騒擾興リ之ガ為メニ2、3ノ死傷者アルヲ目撃シタリ然レトモ右ハ全
   ク韓服若クハ和服ノ朝鮮人等之ヲ為セシコトニテ且ツ現ニ朝鮮人ノ抜刀シテ
   人ヲ殺害スルヲ見タルモノアリ尤モ未明及ビ困難ノ際ナレバ明白ニ之ヲ認ム
   ルヲ得サリシ
一、我々ノ内ニモ自防及大院君防衛ノ為メ抜刀シタルモノ見受ケタルモ其誰タルヲ
   詳ニセス天明ノ後チ見物ノ為メカ多数ノ日本人及洋人ヲ見受ケタリ但シ某人
   分ハ詳ナラス
一、大院君無事入闕シ且ツ騒擾モ鎮静ニ帰シタルニ付同君ニ別レヲ告ケテ退闕
   セリ


 つまり、取調べる方から命令して、11人の容疑者がみな右のような主旨の陳述をする「申合」をしたわけである。
 
 ・・・

 井上理事の報告にある「王妃殺害ノ下手者ト見込寺崎某」は一名高橋源次といい、この男が閔妃を殺した下手人であることは、本人のつぎの手記もこれを認めている。

 拝呈仕候昨夜来失敬仕候陳者今朝ハ粗暴之挙止実以慙愧之至ニ御座候      宮中口吟
  国家衰亡兆無理  満朝真無一忠臣
  宮中暗澹雲深処  不斬讎敵斬美人
 実ニ面目次第モ無之只今迄欝憂罷在候処今一友ノ話ニ依レハ或ハ王妃ナリト然共疑念ニ堪ヘス候故此儀真否御承知ニ御座候ハバ御一報被成下度奉万願候
  10月8日                             高橋源次
                                        再拝
  鈴木重元様
       呈梧下


 ここにいう「不斬讎敵斬美人」というのは、後宮の一室におしいり、戸をこじあけて2人の若い美人を引きだして斬殺したが、その2人の年齢が閔妃にしては若すぎるように見えたことと、だれも閔妃の顔を知らなかったので、一時は、人違いか思った、このことをさすのだろう。…

・・・(以下略)
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3 事件と日本軍隊

 ・・・

 …当時韓国政府の顧問をしていた石塚英蔵から末松法制局長官にあてた報告書によると、このゴロツキどもは閔妃の死体を凌辱したらしい。
 その報告書には「王妃ヲ引キ出シ23ケ処刃傷ニ及ヒ且ツ裸体トシ局部検査(可笑又可怒)ヲ為シ最後ニ油ヲ注キ焼失セル等誠ニ之ヲ筆ニスルニ忍ヒサルナリ其他宮内大臣ハ頗ル惨酷ナル方法ヲ以テ殺害シタリト云フ右ハ士官モ手伝ヘタレ共主トシテ兵士外日本人ノ所為ニ係ルモノノ如シ」と書いてある。 
 このように、閔妃事件というのは、日本帝国主義が朝鮮で犯した罪悪のうちもっともひどいものであった。


http://www15.ocn.ne.jp/~hide20/ に投稿記事一覧表および一覧表とリンクさせた記事全文があります。一部漢数字をアラビア数字に換えたり、読点を省略または追加したりしています。また、ところどころに空行を挿入しています。青字が書名や抜粋部分です。「・・・」は段落全体の省略を「……」は、文の一部省略を示します。

2014/02/09

統監府の大韓帝国宝印奪取と皇帝署名の偽造?

 戦前・戦中、日本には「言論の自由」や「表現の自由」がほとんどなかったという。軍部が、政治、経済、文化、教育、社会構造などの国民生活のあらゆる分野で絶大な影響力をもったからであろう。軍主導で戦争に突き進む日本を、国民はどうすることもできなかった。正確な情報があたえられなかったばかりでなく、厳しい取り締まりがあったからである。だから、たとえ批判的な考えを持っていても、現在のように、簡単に戦争反対の声をあげられるような状況ではなかったという。国家戦略として教育の統制支配を強め、「忠君愛国」の教育を徹底することによって、軍国日本に都合のいい国民をつくり出していたことも、そうした状況との関係で、忘れてはならないことだと思う。

 その軍主導の政治や教育に、「鬼畜米英」や中国人蔑視、朝鮮人蔑視の思想がからんで、日本は人命軽視の無謀な戦争を続け、第2次世界大戦では、国民自ら大きな被害を被ったばかりでなく、中国や韓国など諸外国に大変な被害を与えて、無条件降伏した。そして、連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)の支配下に入ることになった。

 ところが、当初、日本の民主化に取り組んだGHQが、米ソ冷戦の激化や中華人民共和国の誕生、朝鮮戦争勃発などに影響されて、民主化方針を変更し、旧指導者層を復活させる、戦争責任者の公職追放解除、警察予備隊の創設(再軍備・旧日本軍軍人の採用)、レッドパージ、公安警察創設(政治警察復活)など、「逆コース」といわれる政策をとった。
 その結果、戦前・戦中の指導者層が、政権中枢や 自衛隊、経済界、学界その他に返り咲いて、再び力を発揮するようになった。そうしたことが、先の大戦における日本の戦争行為を正当化する動きに影響を与えているのだろうと、私は思う。また、日本人自身による戦争責任の追及がほとんどなされなかった理由や、謝罪・補償を含む戦後処理が充分なされなかった理由も、そうしたGHQの「逆コース」といわれる政策の影響抜きには、考えられないことではないかと思うのである。 

 広島には『二度とあやまちは繰り返しませんから』と書かれた石碑がある。でも、残念ながら日本の戦争における「あやまち」が何であったのか、日本では共有されていない。だからいまだに戦争の問題を引き摺っているといえる。また、歴史認識をめぐる近隣諸国との対立の原因も、その辺にあるのだろうと考えるのである。

 特に日韓関係は、安重根記念館や石碑設置問題に限らず、竹島問題、従軍慰安婦問題、首相の靖国参拝問題等々で、このところ悪化するばかりである。そして、それらは、いろいろな面で先の大戦や日本の植民地支配と関わる。だから、ここでは、「日韓協約と韓国併合 朝鮮植民地支配の合法性を問う」海野福寿編(明石書店)から、衝撃的な記述部分を抜粋する。こうした事実の主張にもきちんと耳を傾け、早く関係改善の糸口を見出したいものだと思うからである。
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          Ⅵ 統監府の大韓帝国宝印奪取と皇帝署名の偽造

 まえがき

 1992年5月12日、私はソウル大学校奎章閣図書管理室長として、「乙巳条約」の原文が形式上問題が多く、純宗皇帝の名で発令された重要な諸法令の中に署名が偽造されたものが多いという事実を公開した。この発表は、当時すでに提起されていた「従軍慰安婦」問題と関連して非常な関心を集め、日本の大韓帝国国権侵奪の不法、無効を新たに確認する契機となった。発表後1ヶ月が経った6月13日、北韓(北朝鮮)外交部は、金日成総合大学の歴史学教授らが「『乙巳条約』と『丁未条約』が条約の合法性を保証できる初歩的なプロセスも踏んでいない証拠を『皇城新聞』から見付けた」と発表した。


 発表に対する反応は遠くヨーロッパからも飛んできた。ハンガリー貿易大学(Hungarian College for Foreign Trade)で韓国史を教えるロリー・フェンドラー(KarolyFendler)氏が、オーストリア・ハンガリー帝国文書館(Archives of the Austro-Hungarian Empire)にも関連資料が所蔵されているというニュースを『コリア・ヘラルド』紙に知らせてきた。該当文書は「乙巳条約」当時、韓国駐在ドイツ外交官だったフォン・ザルデルン(vonSaldern)が、事件発生後、3日目にドイツの首相フルスト・フォン・ブロウ(Furst vonBulow)に送った報告書で、ここには次のような事実が記されていると知らせてきた。つまり高宗皇帝が伊藤博文日本大使の提案に対して、最後まで「駄目だ」を貫き、外部大臣の朴斉純も皇帝の前で自分は条約に署名した覚えはないと語り、皇帝の側近の一人がザルデルンに、数分前に、条約文書の外部大臣捺印は日本公使館の職員が官印を強制的に奪って押したものだと語ったことなどを明らかにしているというのである。


 翌年の1993年7月31日には、日本で結成された「国際シンポジウム実行委員会」が、「『韓国併合』はいかになされたか」という主題で国際シンポジウムを開催した。この会議を通じて韓国、北韓、日本の三カ国の学者がはじめて一緒に集まって互いの見解を交換した。

 「乙巳条約」をはじめ韓・日間の重要条約の問題点に対する関心は、1993年10月24日に金基奭教授が高宗皇帝の親書を発見したことで一層高まった。金教授は米国ニューヨーク・コロンビア大学の貴重図書館および手稿図書館で、高宗皇帝が9カ国の修好国国家元首に「乙巳条約」の無効性を解明しながら、大韓帝国の国権回復に協力を要請する親書9通と併せてハルバートを特使に任命する委任状などを発見し、これを公開した。さらに1994年3月1日付の「東亜日報」に報道された、高宗皇帝のもう一つの親書に関する資料も大変重要な内容を含んでいる。この資料は、退位させられた高宗皇帝が1914年12月22日にドイツ皇帝にあてた親書を、北京駐在ドイツ公使のヒンツェ(Hintze)が受け取り、ドイツ語に翻訳したものだ。資料発掘者の鄭用大氏は、親書の原本がドイツのどこかにあるものと推測したが、いずれにせよこの資料は、高宗皇帝が退位させられた後も引き続き、国権回復のための外交闘争を展開させていたという証拠として、大変重要な意味を持っている。


 資料の内容のうち、自分が使っていた帝国の国璽・御璽などの実印が、今は全て敵の手中に収まり、この手紙ではそれらを使うことができず、自分が日常的に使う印章を押して証明するしかないと明らかにしているのは、この論文で筆者が明らかにしようとする皇帝の署名行為の事実と関連して、たいへん注目される内容である。

 日本の大韓帝国国権侵奪の不法性は、以上のように関連資料が引き続き発見、発掘されることで、これ以上否定できなくなった。今まで明らかにされた事実だけにもとづいても、彼らの行為は不法というより犯罪として規定しなければならない状況だ。遅きに失した感はあるが、学者らが使命感をもってこれに対する徹底した真相究明を行うならば、より詳細な事実が明らかになるだろう。

 この論文は、2年前に筆者の責任の下に発表した「乙巳条約」の文書の形式上の欠陥および純宗皇帝の署名偽造に関する諸問題を整理することを目的としている。私はこの間、すでにこの問題に関する発表を2度行った。1993年3月23日に韓日文化交流基金の第25回韓日文化講座で、「純宗勅令の偽造署名の発見経緯とその意義」と題して最初の発表を行い、同年7月に東京国際シンポジウムでも「『乙巳条約』、『丁未条約』の法的欠陥と道徳性問題」と題した論文を準備して参加した。しかし、2度にわたる発表は全て整理段階で行ったものであり、満足できるものではなかった。この間、多くの学者の見解を聞き、また前に紹介したように金基奭教授、鄭用大氏らによって新しい資料が発見されたことで、私の見解はより一層、強い裏付けを得た。未だ確認しなければならない事がたくさん残っているが、当初、捕捉された日本側の犯罪的不法行為は明白に指摘できるようになり、この間の調査を総括的に整理する意味でこの論文を新たに書いた。


 侵略者が侵略対象国の国璽もしくは御璽を奪い、重要公文書に勝手に使用して、法令の発令者である皇帝の署名を偽造した事実は、法令自体の効力喪失はもちろん、当然なこととして歴史の審判を受けるべき犯罪行為である。このような行為は、日本が「乙巳条約」に大韓帝国の外交権を剥奪した後、ふたたび「丁未条約」を通じて内政権を奪う過程で犯したものである。したがって、これに対する解明は、「乙巳条約」の不法性に対する指摘とともに、日本帝国の大韓帝国「併合」は成立しなかったという明白な証拠となるだろう。

 この論文は、国璽・御璽奪取の状況と、統監府文書課職員らによる皇帝の署名偽造の恣行過程を明らかにするだろう。統監がこうした犯罪行為の主役だったならば、近代韓・日関係史に対する認識は、現在と根本的に変えねばならないだろう。


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             3 純宗皇帝署名の偽造と統監府

2 署名偽造の実状

 1907年10月、統監府が「丁未条約」の実行を目的に編制を改編した後、大韓帝国の各種法令類の制定は、次のような過程を経て達成されるようになった。まず、当時該当各部大臣官房室が起案して(各部起案用紙使用)内閣の書記長に渡すと、内閣では皇帝に決裁を申請する文案を作成し、これを添付して(内閣起案用紙使用)統監府に渡す。「丁未条約」に従い、全ての法令制定は事前に統監の承認を受けるようになっていたからだ。統監府に渡った文書は、統監官房文書課が受け付け、統監に見せ、彼の”承認”を得るという手続きを踏む。この手続きが終われば該当法令は事実上確定したのも同じだが、形式的には該当文書を内閣が純宗皇帝に提出し、御名の親署決裁を受けるという順序が残っている。問題の署名偽造は、まさにこの最終過程を省略しながらしでかされたのである


 これについての具体的な検討のため、まず、当時通用していた大韓帝国の立法関係公文書形式についての考察から始めてみることにする。
 朝鮮王朝は1894年11月の甲午改革の時、朝廷の各種公文書形式を大きく変えた。歴代にわたって使用してきた『大典通編』のものを捨てて新制に変えた。その中で、国王が命令、制定するものとして勅令、法律、詔勅などがあった。この法令形式は全て1910年8月に大韓帝国が日本に強制併合されるまで存続した。
 現在、ソウル大学校奎章閣に所蔵されている1894~1910年間の3種類の諸法例の件数は、次の表3のとおりである。皇帝の署名が偽造されたものは、1907年~1908年度の分60件に達する。(表3略)


 ・・・(以下略)

3 文書課と署名偽造

 それでは、皇帝の署名偽造の犯人たちは誰か。前述の偽造署名例示には、互いに異なる筆跡が5,6個もある。また、偽造が事務的に処理されたようであることもあらわになった。統監府の勢いが凄まじかった時期に5、6人が集団で回し合いながら大韓帝国皇帝の署名を偽造できる者たちとは、統監府の日本人官吏以外に想像できる対象はいない。当時の法令制定の手続きを見ても、統監府の文書処理および管理制度の整備過程および状況を見ても、統監府の官吏たちが主犯であることは疑う余地がない。


 大韓帝国の内閣側もこれを手助けしただろうが、それも文書担当責任職にすでに日本人が任命されている状態にあったので、結局は統監府がやったことに変わりはない。制度的、現実的状況から見て、統監府の統監の黙認の下に、傘下の文書課職員たちが内閣と各部に配属されている日本人書記官の助けを借りて署名を偽造したことは疑う余地がない。しかし、私はこれをもう少し確実に明らかにするために、上の各種偽造署名筆跡のうちの一つを書いた人間を捜すことにした。偽造事例のうち、1907年12月23日付の(7)~(28)の22の勅令に加えられた偽造署名の筆跡の主人公を捜すことにしたのである。

 調査対象にあがったこの筆跡は、問題の516個の筆跡のうち、最も達筆だと言える。私はこの点に留意し、筆跡の主人公を追跡してみたが、私が嫌疑をかけた人物は前間恭作だった。彼が達筆で多くの筆跡を残したことが、私が彼に注目する契機と言えば契機だったかも知れない。また、彼の生涯に関する既存の一つの履歴書的整理が私の調査に大きな助けとなった。著名な日本の韓国史研究家末松保和教授が前間の遺稿『古鮮冊譜』の完刊(1957年)に付けた「前間先生小伝」が、彼の行跡追跡に大きな助けとなった。


 前間恭作は開港以後、韓国学の研究に従事した日本人第1世代に属する。彼は韓国の書誌、言語、文学、歴史などに関する多くの著書と論文を残したが、とくに肉筆で書かれた原稿として影印出版して出した著書が多く、日本人学者の間で賞賛されていた。私が彼に疑いを持つようになったのは、彼の次のような特別の履歴と、達筆の所持者という二つの事実が合わさっていた。彼は韓国学関係の著述を本格的に出す前に、日本公使館の通訳官として活動していた際、初代統監伊藤博文の側近、腹心となって、統監府の文書課にも深く関与した履歴を持っていた。そして、彼が「乙巳条約」の不法締結過程に大変活躍したということも、既存の研究で、すでに明らかにされていた。したがって、彼に対する疑いを持つのは当然だった。
それではまず彼の履歴書を見てみることにする
。…

 ・・・(以下略)
  
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2014/01/28

安重根は、犯罪者か義士か 

 獄中の安重根看守を命ぜられた関東都督府陸軍憲兵上等兵千葉十七が、しだいに安重根と心を通わせるようになり、「この人は、生き永らえたら、必ずや韓国を背負ってたつ人物なのであろうに──」と畏敬の念さえ抱き、「日本人はこの人にもっともっと学ばなければならない」と思いつめて、「安さん、日本があなたの国の独立をふみにじるようになったことは、何とも申しわけありません。日本人の一人として、心からお詫びしたい気持ちです」と頭を下げた話は、すでに取り上げた。

 また、安重根の裁判で検察官を務めた溝淵孝雄が、安重根の「伊藤の罪状15ヶ条」を聞き終わって、現状を的確にとらえた鋭い指摘に驚き、安の顔をじっと見つめ、「いま、陳述を聞けば、そなたは東洋の義士というべきであろう。義士が死刑の法を受けることはあるまい。心配しないでよい」と思わず言ってしまったという事実にも触れた。他にも、安重根と関わった日本人が、彼を高く評価していた事実が 伝えられている。

 「安重根と伊藤博文」中野泰雄(恒文社)には、次のような文がある。

”…大連からハルビンまで伊藤と同行し、事件後、傷の手当てを受けて伊藤の遺骸とともに大連にもどった田中(安重根の銃弾を足に受けた満鉄理事田中清次郎)が、後に小野田セメントの社長から会長となる安藤豊録の質問、「今まで会った人の中でだれが一番えらいと思われるか」に答えて、「それは安重根だ。残念ながら」と言ったというが、その証言は、中江兆民の『一年有半』(明治35年9月2日発行)とともに、伊藤の虚像を粉砕して、正体をあらわすものといえよう。……「大韓国人安重根」は伊藤を日韓両国民の「逆賊」として処断しようとした。生誕百年をすぎて、彼が獄中で書いた自伝と『東洋平和論』は日本近代史の真の姿を照射しはじめている。”

 上記の満鉄理事田中清次郎の言葉は、安藤豊録の書いた『韓国我が心の故里』にあり、安藤が1922年5月に、安重根の故郷を訪ねた思い出も綴られているという。その中に「安義士は伊藤公を殺した日本人の仇敵である。その住居に行くことは日本人にとって聊か憚りがある。韓国人は当時の警察の空気からいって多少遠慮せざるを得ない情勢にあった」と安藤自身が書いていることを「伊藤博文を撃った男 革命義士安重根の原像」(時事通信社)で、斎藤充功ノンフィクションライターが紹介している。

 また、彼(斎藤充功)は、安重根に魅せられた典獄(監獄の事務をつかさどる官吏)「栗原貞吉」の親族を探し当て、安重根に関する証言を得ている。下記は、いずれも孫娘の証言である。

 「私は母から聞かされた話で、二つだけは今でもはっきり覚えています。一つは、役人を辞めた理由で、祖父は、あんな立派な人物を救うことができなかったのは自分に力がなかったことと、監獄の役人の限界を思い知らされたことで、随分悩み、それで役人を辞めたそうです。
 それに、もう一つの話は、安さんが処刑される前日、祖父は安さんと会い、遺言というんでしょうか、何か希望することがあれば自分ができることは何でもすると約束したそうです。そして、その約束は絹地でできた韓服を死に装束として安さんに着てもらうことのようでした」

 「安さんが身に着けた白絹の韓服ですが、母は、官舎で祖母や姉たちが祖父の言いつけで夜なべして生地から寸法を取り、縫い上げている姿を目をこすりながら見ていたそうで、後になって、祖母から話を聞かされたそうです。その話とは、かいつまんで申しますと、祖父が安さんと約束した遺言のようなもので、安さんは、見苦しい死に方はしたくないので、死に装束は国の礼服である白絹の衣装を身に着けたい、その衣装を差し入れてほしいと、祖父に頼んだそうです」

 「日にちははっきりと覚えていなかったようですが、官舎には毎日のように韓国の人が訪ねてきて、安さんの助命嘆願を祖父にお願いに来ていたというんです。それと、祖父は処刑直前に安さんに『助けることができずまことに申し訳なかった』と謝ったというんです。私は、広島で晩年の祖父と生活したこともありまして、母から聞いたこの祖父の言葉は本当だと信じているんですの」


安重根は栗原貞吉に一書を揮毫したという。 

 「安重根と日韓関係史」(原書房刊)の著者、市川正明教授は、下記のように「安重根が早くからカトリックに帰依していたキリスト教徒であったことからすれば、安重根の思想が単に民族主義者であったばかりではなかったのではないかと思われる」と、彼の言動の背後に、キリスト教(ヒューマニズム)の影響があったのではないか、ということをにおわせている。

 私はそれを、彼の言動全体で感じるとともに、獄中記「安応七歴史」の中の、日本人捕虜釈放の話の部分で、特に強く感じた。安重根は、下記のように、日本人捕虜に武器を返還して釈放し、仲間に不満を抱かせているのである。下記は「安重根と日韓関係史」市川正明(原書房刊)からの抜粋である。
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                  四 安重根 小伝

死に臨んで

 この公判については、外務省の倉知鉄吉政務局長と小村外相との間に、電信の往復がなされている。その結果、「政府においては、安重根の犯行は極めて重大なるを以て、懲悪の精神に拠り、極刑に処せらるゝこと相当なりと思考す」と、小村外相より政府当局の裁判に対する指示がなされたが、「高等法院長に交渉したるところ、同院長は大いに当惑し、政府のご希望に副うことの非常に困難なる」旨の意思表示がなされ、若手職員中には、「司法権独立の思想より法院政府の指揮を受くる姿」となるのに反対する者が多かったが、結局「安重根に対しては、法院長自身は死刑を科すべしとの論なるを以て、政府のご希望もこれにある以上は、先づ検察官をして死刑の求刑を為さしめ、以て地方院において目的を達するを努べく、もし万一にも同院において無期徒刑の判決を与うることあるときは、検察官をして控訴をなさしめ、高等法院おいて死刑を言い渡すことゝなすべし」として、あらかじめその量刑を決していた。


 翌1910年3月26日、安重根は刑場に立ち、欣然として、「私はみずから、韓国独立のために、東洋平和のために死ぬと誓った。死をどうして恨もう」と云い放った。
 そして韓国服に着がえて従容として死に就いた。時に32才であった。

 公判を終えて宣告を待っていた安重根を取材した「満州日日新聞」は、「12日朝、重根の弟、定根、恭根の2人は恐る恐る検事局に出頭して、13日兄に面会を願出たのが、其用向きは母からの伝言で、愈々(いよいよ)死刑の宣告を受けたなら、潔い死方をして名門の名を汚さぬよう、早く天国の神の御側に参るようにと伝えることにて、2弟は涙ながら物語り出でて、許可を得たる後、悄然として引き取れり」と報じている。安重根は第1審で死刑判決を受け、上告の道があったのにかかわらず、その道をとらず、従容として死の道を選んだ背景には、この母の伝言があったことによるのである。

 安重根をして伊藤博文を銃撃させた動機は、彼のナショナリズムに根ざしたものであった。
 安重根の伊藤博文狙撃行為は、抗日義兵闘争に立ちあがった重根にとっては、その延長線上にあるものの闘いの一つの形態としての抗日テロというふうに、これをとらえることができる。
 たしかにこの日の安重根の狙撃行為は、韓国の将来に対する強い危機意識によってもたらされたものであり、それまで義兵中将として一群の義兵を率い、危機に瀕した韓国の命運を案じ、身をもってこれを救うために努めてきた安重根にとっては、祖国に危害を及ぼしてきた日本帝国に対する闘いの一環としてその狙撃行為があったのであるが、その対象が伊藤博文であったことは、伊藤が韓国の国運を大きく狂わせるにあたって主役を演じたものであったことによるのである。すなわち、伊藤が初代統監として辣腕をふるった結果として、日本帝国は具体的には伊藤の姿を借りて韓国人の前に現れ、その眼底に強烈な印象を残すことになった。伊藤博文はそれほどまでに安重根の心に、拭いがたいものを刻みつけてきたのである。


 つまり、安重根の狙撃行為は、私憤のまぎれこむ余地のない、まさしく民族的公憤によるものであったが、それだけではなく、安重根が早くからカトリックに帰依していたキリスト教徒であったことからすれば、安重根の思想が単に民族主義者であったばかりではなかったのではないかと思われる。
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           九 安重根の獄中記(自伝)の新訳

 1909年旧11月1日・12月13日書き始め

安応七歴史

 
……だとすれば、今日、国の内外の韓国人は、男女老少問わず銃を担い、剣を帯びて、一斉に義兵を挙げ、勝敗をかえりみることなく決戦を挑み、後世の物笑いを免れるべきである。もし戦いが不利になっても、世界列強の公論によって独立の望みがないわけではない。いわんや日本は5年以内に必ず露・清・米の三国と戦いを開くだろう。これは韓国に対して大きな機会を与えるものである。その際、韓国人にもし予め備えがなければ、日本が敗北したとしても、韓国はさらに他の賊の掌中に入ることになるだろう。だから、今日より義兵を継続して活動させ、絶好の機会を失わないようにし、みずから力を強大なものにし、みずから国権を回復し、独立を健全にすべきである。つまり、何もできないと考えることは滅びる原因であり、何でもできると考えることは興隆の根本である。したがって、自ら助くるものは天も助くという。諸君よ、坐して死を待つべきであろうか。それとも憤起して力を振るうべきであろうか。決心し、警醒し、熟思勇進することを望むものである。このように説明しながら、各地方を歴訪した。

 自分の説を聞いた者のうち、多数の者は服従し、あるいはみずから戦いに参加することを願い出、あるいは武器を提供し、あるいは義捐金を出した。こうしたことは、義兵を挙げるための基礎とするに充分であった。このとき、金斗星、李範允等みな一致して義兵を挙げた。これらの人々はさきに総督となり、中央官庁に大いに重用された者であった。自分は参謀中将に選ばれた。義兵や兵器を秘密の内に輸送し、豆満江の近辺に集結した後、大事を謀議した。この時、自分は、次のように論じた。現在、われわれは300人に過ぎない、したがって、賊の方が優勢で、我が方は劣勢であるから、賊を軽んずるべきではない。いわんや兵法を無視するべきではない、かならずや万全の策があるにちがいない。その後で大事を図るのがよい。いま我等一たび義兵を挙げても成功することができるかどうか明らかではない。そうだとすれば、かりに1回で成功しなかったならば、2回、3回、10回と繰り返し、百回やぶれても屈することなく、今年成功しなくても、明年を期し、明年あるいはその翌年、さらには10年、百年と、持続させるべきである。もしわれわれが目的を達成できなければ、子供が代わって受けつぎ、さらにその子孫がこれに代わり、必ずや大韓国の独立を回復するまでやめない。先ず、前進し、後退し、急進し、緩進し、予備し、後備し、具備し、いろいろやった後必ず目的を達成するよりほかにないのである。そうだとすれば、今日の先進の師を出す者は病弱少年をも合すべきである。その次の青年等は社会民志の団合を組織し、幼年の教育を予備し、後備し、各項の実業を勤務し、実力を養成し、しかる後に、大事をなすことが容易であろうと。聞く者の中には賛同する者が多くなかった。なぜかといえば、この地方の風気頑固なるものは、第1には権力ある者と金持ち、第2に腕力の強い者、第3に官職の高い者、第4に年長者である。この4つのうち我々は一つも掌握していない。それでは、どうして能く実施できようか。これに対して、不快感をおぼえ、退き帰る気持ちを起こした者があったとしても、すでに騎虎の勢いがあふれ、どうすることもできない。時に領軍諸将校は隊を分つて斥候を出し、豆満江を渡った。1908年6月のことである。昼は伏して夜に行軍して咸鏡北道に到着し、日本兵と数回衝突し、彼我の間には死傷者や捕虜が出た。

 そのとき、日本軍人と商人で捕虜となった者を連れてきて、尋ねてみた。君等はみな日本国の臣民である。なぜ天皇の聖旨を承けないのか。日露開戦の時、宣戦布告書のなかで東洋平和維持と、大韓国の独立堅持といいながら、今日このように侵掠するようになったのでは、平和独立ということができないではないか。これは逆賊強盗でなくて何であろうかと、その人々は涙を流して、これは我々の本来の気持ちではなくてやむを得ず行動に出たものあることは明らかである。人がこの世に生まれて生を好み、死を厭うのは普通の人情であって、いわんや我々は万里の戦場で無残にも朽ち果ててしまうことを憤慨しないわけがない。こうした事態は他に理由があるわけではなく、これはすべて伊藤博文の過ちである。皇上の聖旨を受けず、ほしいままにみずから権勢を弄し、日韓両国の間に貴重な生霊を殺戮すること数知れず。彼らは安心して就寝し、恩賞に浴している。我々は憤慨してみてもどうすることもできず、やむなくこうした状況に立ち至ったのである。いわんや農商民の渡韓する者ははなはだ難渋している。このように国も疲れ、民も疲れているのに、ほとんど顧みることをせず、東洋の平和は日本国勢の安寧となるということを、どうしてそれを望むことができようか。我らは死んでしまうとしても、痛恨の念はとどまるところがないといって痛哭した。自分は君等のいうところを聞いて、君たちは忠義の士というべきである。君等をただちに釈放する。帰ってこのような賊臣を掃滅せよ、もしまた、このような奸党が出てきて、端なくも戦争を起こし、同族隣邦の間に侵害の言論を提出する者がある場合には、すべてこれを取り除け、十名足らずの人数でも東洋の平和を図ることができる。君たちはこうしたことをやることができるかどうか、と言うと、彼らは勇躍してこれに応じたので、ただちに釈放した。彼らは、我々は軍器銃砲等を帯びずに帰投すれば、軍律を免れることが難しい。どのようにしたらよいかと聞くので、自分は、それではただちに銃砲等を返還しよう。また、君らは速やかに帰り、捕虜となったことを口外せず、慎重に大事を図れと言った。その人たちは深く感謝して立ち去って行った。

 その後、将校たちがこの事件を聞いて不満をもち、自分に対して、なぜ捕虜を釈放したのかと質した。自分は、現今万国公法によって捕虜を殺戮することはできず、後日送還することになっている。いわんや彼等のいうところを聞くに、真情発する美談であり、これを釈放せずにどのようにすれえばよいのかと答えた。多くの人々が、彼等は、我等義兵の捕虜を余すことなく無残にも殺戮するだろう。我等としても殺賊の目的をもってこの地に来て野宿しているものである。しかも、このように苦労しながら生捕りにした者を釈放するのであれば、我等は何のために戦っているのかわからないではないか、と彼らはいう。そこで自分は、そうではない。賊兵がこのような暴行を働くことは神も人も共に許さぬところのものである。ところが、いま我等も同じように野蛮な行動を行なってもよいのであろうか。いわんや日本4千万の人口をことごとく滅ぼして、しかるのち国権を回復するという計をはかろうとするのか。彼を知り己を知れば百戦百勝す、現在は我らが劣勢で、彼等は優勢であって、不利な戦闘をすべきではない。ひとえに忠孝義挙を以てするのみでなく伊藤博文の暴略を攻撃して世界に広布し、列強の同感を得て、国権を回復すべきである。これがいわゆる弱小な力でよく強大な敵を除き、仁を以て悪に敵するの法である。諸君らは、いろいろと言うことはないと。いろいろ論じてみたが、しかし、議論が沸騰して容易に承服せず、将軍のなかには中隊を分けて遠く去る者もあった。

 その後、日本兵の襲撃をこうむり、衝突4,5時間におよび、日が暮れて霧雨が降りそそぎ近い所も見えなくなった。将卒みな分散し、生死の判断もつけ難く、どうすることもできず、数十人と林間に野営した。その翌日、6、70名の兵隊に逢ったが、各隊を分け、ちりぢりに逃げ去ったという。そのとき、いずれも2日間にわたって食事をすることができず、皆飢えこごえていた。そこで、みなの者を慰め諭した後、村落に身を寄せて麦飯を求めて食べ、僅かに飢えと寒さをしのいだ。しかし、多数の者は承知せず、紀律に従わなかった。このような烏合の衆は、孫子、呉子、諸葛孔明がまた生まれて来たとしてもどうすることもできない。さらにその他の兵を探しているうちに伏兵に逢い、狙撃され、散り散りになった兵卒をまた集合させることもむずかしくなった。自分はひとり山上に坐し、自ら笑って誰を怨みだれを仇とすることもないと自分に言った。さらに発憤して四方を捜探した末、幸い2,3人に逢い、これからどうすればよいのかを相談したが、4人の意見は同じではなかった。或る者は生きのびることを図ろうとし、或る者は自刃して死のうといい、或る者はみずから日本軍に投降しようという。自分は熟慮ののち、たちまち一首の詩を作った。「男児有志出洋外、事不入謀難処身、望須同胞誓流血、莫作旦間無義神」(男児志を持って国外に出たのである。大事がうまくいかず身の処し方に難渋している。ただ君たちに望むことは、同胞の流血に誓って大義のない行動をとることをしないようにしてほしい)と吟じ終えて、みなの者は思い思いにしたらよい。自分は山を下りて日本兵に決戦をいどみ、大韓国2千万人の中の一人として義務を果たした後に死ぬつもりである。こう言って、武器を携帯し、賊陣を探して立ち去ろうとした。そのうち、一人が身を乗り出して来て慟哭しながらあなたの意見はきわめて間違っている。あなたはただ一個人の義務を考えているが、幾多の生霊ならびに後日の多大な事業を顧みないのか、今日の情勢では死んでも全く益がない。責任の重い身体であるのに、どうして草や塵芥のように棄てていいものだろうか。現在は江東(露国領の地名である)に渡って、後日の好機会を待ってさらに大事を図るべきである。これは十分合理性がある。どうして諒解してもらえないのだろうかと言う。自分はさらに考えをめぐらしたのち、あなたの言うことは確かにそのとおりである。……

 ・・・(以下略)


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