2014/10/22

南京大虐殺 パナイ号(バネー号)事件 レディーバード号事件

1937年12月13日の南京陥落前日、日本海軍機が揚子江上において、米国アジア艦隊揚子江警備船「パナイ号」を爆撃し沈没させた。日本軍の砲弾 を避けるため南京上流に移動中のパナイ号(バネー号)には、艦長のジェームズ・J・ヒューズ少佐以下将校・乗組員59名、南京アメリカ大使館員4名、アメ リカ人ジャーナリスト5名、アメリカ商社員2名、イギリス人ジャーナリスト1名、イタリア人ジャーナリスト2名、他1名が乗船していたという。

  アメリカでは、事件後主要紙がパナイ号生存者の目撃・証言報道を連日写真入りで展開し、パナイ号艦長ヒューズ少佐の報告書や南京アメリカ大使館二等書記官 ジョージ・アチソン・ジュニアの報告書、日本海軍機による故意爆撃説を公式見解としたアメリカ海軍当局査問委員会の報告書等を、次々に全文掲載したとい う。また、あわせて様々な情報に基づく南京大虐殺の報道も加わったため、アメリカ全土で、日本商品ボイコット運動が広がっていったという。 

  また、同日、橋本欣五郎大佐の指揮する第10軍野戦重砲兵第13連帯が、英国砲艦のレディーバード号及び同型艦のビー号に砲撃を加え、レディーバード号旗 艦艦長と領事館付陸軍武官およびビー号に乗艦の参謀長から抗議を受けている。そのとき、橋本欣五郎大佐が長江上にあるすべての船を砲撃するように命令され ていることを認めた、とビー号に乗艦の参謀長が英国代理大使ホーウィに打電しているという。その命令に関して、『日中前面戦争と海軍 パナイ号事件の真相』笠原十九司(青木書店)に次のようにある。
ーーー
 橋本が長江上のすべての船を砲撃せよとの命令を受けていたというのは、前日12月11日午後6時に、南京より退却する中国軍を撃滅するために第10軍が発した丁集団命令(丁集団司令官・柳川平助中将)であった。それは、
1、敵は十数隻の汽船に依り午後4時30分南京を発し上流に退却中なり、尚今後引続き退却するものと判断せらる
2、第18師団(久留米)は蕪湖付近を通過する船は国籍の如何を問わず撃滅すべし
というものであった。
 
 これは、中国軍が外国国旗を掲揚して外国船に偽装した中国船に乗船したり、あるいは外国船を借用したり、さらには中国軍に味方した外国船に護送されて、南京からの脱出を図っているという情報が日本側に流布されていたことによる。

 漢口のアメリカ大使館には、12日の朝のレディーバード号事件に続いて、午後に発生した海軍機による英国砲艦クリケット号とスカラブ号に対する爆撃事件の経緯も伝えられた。

 ・・・

 両艦は3度の空襲をうけたが、反撃が素早く行われたため、爆弾は至近に落とされたものの直撃弾をうけなかったので、船体には目に見える被害はなかった。そのため、日本軍機の空襲は無線通信によりすぐに漢口の英国大使館にも報告されたのである。

 なお、英国汽船黄浦号には、南京から最後の脱出をしたローゼン書記官ら数人のドイツ大使館員が乗船していて、日本軍機に爆撃されるという運命に遭遇した。このため、ドイツ外務省は、駐日ドイツ陸軍武官に訓令して日本政府に抗議させている。
ーーー
 同じ12月12日 米国アジア艦隊揚子江警備船「パナイ号」の安否をめぐって、南京─漢口─ワシントン─東京の間を電波があわただしく行き交った。再び同書より抜粋する。
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 まず、揚子江警備隊司令官から中国駐留米軍総司令官への作戦情報として以下の電報が発信された。

 ” パナイ号は再び砲火の危険にさらされ、上流への移動を余儀なくされた。ジャップはパナイ号の周辺にいるジャンク船や小舟を狙って砲撃しているものと信じら れる。午前9時に、イギリス艦レディバード号が蕪湖のアジア石油施設の近くでジャップの砲列の攻撃を受け、4発の砲弾が命中し、水兵一人が死亡、数名が負 傷した。イギリス砲艦ビー号も直接の砲火にさらされているが、まだ被弾していない。”

  漢口のジョンソン・アメリカ大使はそれまで何度か日本政府・軍部に対して、パナイ号への攻撃を避ける措置をとるよう要請してきた。これを受けて駐日アメリ カ大使のジョセフ・C・グルーは、広田引毅外相を訪問して、ジョンソン大使の電報の抜粋を手渡し、「日本の砲兵部隊は、長江上のあらゆる船を国籍を問わず 砲撃するようにと命令されているというが、もしも無差別にアメリカ船を攻撃することを阻止しるよう手段を講じなければ、アメリカ市民も被害に巻き込む深刻 で悲しむべき事件が起こるであろう」と警告した。そのときの広田の対応は事務的で、「すべての外国人は南京の戦闘区域から避難するように警告されているは ずだ。それでも、あなたの報告は軍当局に伝えておきましょう」と述べただけだった。

  長江上のイギリス砲艦が砲撃を受けたという情報に接して、不安にかられていたジョンソン大使は、この日午前11時、パナイ号のアチソンから「日本軍にパナ イ号の位置を報せたし」と同号の投錨地を知らせる電報を受信し、ひとまず安堵の胸をなでおろした。しかし、その電報を最後に、午後1時をすぎてもアチソン からの報告が入らなくなり、漢口のアメリカ大使館に焦慮の雰囲気がただよった。そして、ついに揚子江警備隊司令官よりパナイ号からの通信が途絶えたという 連絡が入ったのである。ジョンソン大使はただちに、ワシントンの国務長官宛に次のように打電した。

 ” 揚子江警備隊司令官は、本日、13時35分以後、パナイ号との交信が不能となっています。日本陸軍が江上の船舶すべてに対する砲撃命令を発したとの情報が あります。本日、南京付近および蕪湖にてイギリス艦に砲撃があったことに鑑み、直ちに東京に連絡し、日本外務省に緊急申し入れを行うこと、また、アメリカ 人避難民を乗せているパナイ号、およびスタンダード石油の船舶の所在についても通告するよう願います。呉松上流221マイル地点に投錨、がパナイ号からの 最新の報告でした。”

 パナイ号との通信が途絶え、焦慮感ただよう漢口のアメリカ大使館に、不吉な思いをつのらせる以下の電報が、揚子江警備隊司令官から届いた。

 ”護衛船をともなった英国砲艦クルケット号とスカラブ号は、南京上流12マイル(約19.2キロ)の地点で午後3回にわたって空襲される。18発の爆弾が落とされる。1発が商船に命中したほかは命中弾なし。2隻の砲艦とも攻撃してくる飛行機に対して発砲した。”

 こうした情報に接した漢口のジョンソンアメリカ大使は、パナイ号やアメリカの商船にも同様な攻撃が行われ、恐るべき惨事が発生する可能性を察知し、国務省から日本政府に対して、緊急に予防措置をとるよう要請してほしい旨の電報を打たせた。

 ” 本日午後、英国砲艦スカラブ号とクリケット号は、外国人避難者を乗せたジャーディン倉庫船と商船黄浦号と一緒のところを故意に爆撃された。死傷者はなかっ た、と報告されているが、倉庫船には南京を避難したアメリカ人が乗っているので、国務省は緊急に東京に訓令して、日本政府が今後このようなことが起こるの を阻止するための命令を出すよう、圧力を加えられたし。
 本日、蕪 湖の日本軍は、イギリス人に対して、日本軍守備隊は長江のすべての船に発砲するよう命令を受けていると言っている。もしも日本軍が、これらの船は友好国の ものであり、アメリカ人と他の外国人の避難のために用意されたものにすぎないことを理解しなければ、恐るべき惨事が起こるように思われる。”
ーーー
 ジョンソン・アメリカ大使が、通信の途絶えたパナイ号が災難に遭遇する予感に襲われ、懸命に防止措置をとろうと外交努力をしていたとき、すでに惨事は進行していたという。 

  東京の駐日アメリカ大使ジョセフ・C・グルーが、広田弘毅外相に対し、中支那方面軍当局にアメリカ人の生命・財産を攻撃しないように厳重措置をとるよう要 請したのみならず、上海のガウス米国総領事も同地の岡本季正総領事にパナイ号の位置を知らせ、関係方面への通報を要請したという。にもかかわらずパナイ号 は撃沈された。  そのパナイ号は、煙突は純黄色、船体は白塗りで、アメリカ艦であることを明確にするために、上甲板の前と後の屋上に水平に大きな星条旗を新しく描 き、上空のどの角度からも識別できるようになっていたとのことである。また、後尾のポールには、緊急事態に備えて最大の軍艦旗が常時掲げられいたという。 そして、当日は晴天であった。

 また、長江を遡っていたパナイ号のヒューズ艦長は、第10軍国崎支隊キ下の永山部隊主隊に発見され、手旗信号で停船を命じらて、乗り込んできた大隊副官の村上繁中尉とやり取りをしている。村上中尉らは、パナイ号が「日支交戦区域より避難せるものにして他意なし」 ということが確認できたとして握手をしたのち、またボートに乗って艦を離れたというが、その後、砲撃を受けたために沈没しつつあったパナイ号から脱出して 北岸に向かった2隻の救命ボートに機関銃掃射を加えたのは、午前中にパナイ号に乗り込んだ村上繁中尉の指揮する大発(大型発動艇)であったという。さら に、沈みつつあったパナイ号に接近し、機関銃掃射を加えた日本軍の哨戒艇が、同じ第10軍国崎支隊所属の永山部隊の支隊であったというのである。

 そうした事実を踏まえると、その時パナイ号に乗船していた南京アメリカ大使館二等書記官アチソンの、

 我々が隠れている湿地から脱出する道を探しているときでした。爆撃機3機からなる日本の飛行隊が、長江上流の空からやってきて我々の上を飛びました。そのうちの一機が我々が負傷者を隠し、我々も隠れている湿地の葦原の上を旋回しました。
 この飛行機の行為とさきの日本軍哨戒艇の行為をパナイ号爆撃という信じがたい事実と結びつければ、日本軍が爆撃の証言者を抹殺するために、我々を探していたということは疑問の余地がありません。

  という主張が理解できる。繰り返しての抗議や要請、また当日は晴天で、視界は良好であったという事実、さらには爆撃や砲撃の状況を考慮すると、日本側の 「誤爆の弁明と陳謝」は不可解である。パナイ号事件もレディーバード号事件も、他国の事情や国際法を考慮しない日本軍の強引な軍事行動で、南京無差別爆撃 ともいえる南京空襲や南京大虐殺と同質のものではないかと疑わざるを得ない。日本軍は多くの市民が住む南京の市街地を空襲し、逃げ延びようとする中国兵の みならず、「殲滅掃討作戦」で戦意を喪失し武器を放棄した投降兵や敗残兵、さらには避難民をも殺害した事実があるからである。

”http://hide20.web.fc2.com” および ”http://www15.ocn.ne.jp/~hide20/"(こちらは近々削除される予定です)に、投稿記事一覧表および一覧表とリンクさせた記事全文があります。青字が書名や抜粋部分です。

2014/10/19

南京大虐殺と外交官 石射猪太郎

 10月16日の朝日新聞夕刊に「慰安婦巡るクマラスワミ報告 政府が一部修正を要請 本人は拒否」という記事が掲載された。日本政府の報告書修正の要請は、クマラスワミ報告が吉田清治氏(故人)の著作を一部引用しているからであり、朝日新聞が先だって吉田氏の証言を虚偽と判断し、証言を報じた過去の記事を取り消したことに対応したものであろう。

 クマラスワミ氏は「証拠の一つに過ぎない」として修正を拒んだというが、その詳細はわからない。私は、クマラスワミ氏が「日本政府が国家的に行うべきである」とした「勧告」 の下記6項目に誠実に取り組むことなく、報告書の修正を要請することに違和感を感じると同時に、元「慰安婦」の証言を最も重視したというクマラスワミ氏 が、中国や韓国の政府と同様、日本政府の姿勢に歴史修正の動きを感じ、報告書修正の要請に応じなかったのではないか、と想像する。

クマラスワミ6項目の勧告ーーー
A 国家レベルで
137. 日本政府は、以下を行うべきである。
 (a)第2次大戦中に日本帝国軍によって設置された慰安所制度が国際法の下で その義務に違反したことを承認し、かつその違反の法的責任を受諾すること
  (b)日本軍性奴隷制の被害者個々人に対し、人権および基本的自由の重大侵害被害者の原状回復、賠償および更正への権利に関する差別防止少数者保護小委員 会の特別報告者によって示された原則に従って、賠償を支払うこと。多くの被害者がきわめて高齢なので、この目的のために特別の行政的審査会を短期間内に設 置すること。
 (c)第2次大戦中の日本帝国軍の慰安所および他の関連する活動に関し、日本政府が所持するすべての文書および資料の完全な開示を確実なものにすること。
 (d)名乗り出た女性で、日本軍性奴隷制の女性被害者であることが立証される女性個々人に対し、書面による公的謝罪ををなすこと。
 (e)歴史的現実を反映するように教育課程を改めることによって、これらの問題についての意識を高めること。
 (f)第2次大戦中に、慰安所への募集および収容に関与した犯行者をできる限り特定し、かつ処罰すること。
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 また、私たちはクマラスワミ報告書の一部をたとえ修正したとしても、元慰安婦の「問題」はかわらずにあることを忘れてはならないと思う。元慰安婦の証言だけではなく、1993年(平成5年)8月4日、日本政府が「慰安婦関係調査結果」として発表した『政府調査「従軍慰安婦」関係資料集成』に多くの日本の関係資料が入っている(河野談話はその発表にあたって語られたものである)。「慰安婦」の問題は、吉田証言や朝日新聞の報道によって作り出されたものではないということである。

 「慰安婦」の問題と同じように、もうひとつ気になる問題がある。「南京大虐殺」の問題である。日本の一部学者や研究者とその支持者が、国際社会ではとても受け入れられないであろうと思う主張を繰り返しているのである。

 たとえば、「南京大虐殺は中国の作り話」とか、「南京大虐殺は連合国の創作」とか、「南京の軍事法廷もデタラメの復讐劇」というような主張があり、また、「東京裁判でアメリカが原爆の被害を小さく見せるために、それを上まわる虐殺数30万人説を突然持ち出した」というような主張である。そして、「平和甦る南京《皇軍を迎えて歓喜沸く》」などという、当時の軍が作成し提供したのではないかと思われるような新聞の記事や写真も活用され、「南京戦で日本軍は非常に人道的で、攻撃前に南京市内にいた民間人全員に戦火が及ばないように、南京市内に設けられた「安全区」に集めた為に日本軍の攻撃で、安全区の民間人は誰一人死にませんでした」などというのである。「中国兵たちの悪行に辟易していた南京市民たちは、日本軍の入城を歓声をもって迎えた」という文章も目にした。私は、それらは歴史の修正ではないかと思う。ここでは「外交官の一生」石射猪太郎(中公文庫)から、そうした主張に疑問を感じさせる「南京大虐殺」に関わる記述を抜粋した。当時東亜局長という立場にあった外交官の文章である。

 また、「バネー号、レディー・バード号事件」と題された部分の文章も抜粋したが、「海軍機の過失によって、撃沈された」というのは、どうも疑わしいようなのである。
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                           東亜局長時代──中日事変

 南京アトロシティーズ

  南京は暮れの13日に陥落した。わが軍のあとを追って南京に帰復した福井領事からの電信報告、続いて上海総領事からの書面報告がわれわれを慨嘆させた。南 京入城の日本軍の中国人に対する掠奪、強姦、放火、虐殺の情報である。憲兵はいても少数で、取締りの用をなさない。制止を試みたがために、福井領事の身辺 が危ないとさえ報ぜられた。1938年(昭和13年)1月3日の日記にいう。

 上海から来信、南京におけるわが軍の暴状を詳報し来る。掠奪、強姦、目もあてられぬ惨状とある。嗚呼これが皇軍か。日本国民民心の頽廃であろう。大きな社会問題だ。
 南京、上海からの報告の中で、最も目立った暴虐の首魁の一人は、元弁護士の某応召中尉であった。部下を使って宿営所に女を拉し来っては暴行を加え、悪鬼のごとくふるまった。何か言えばすぐ銃剣をがちゃつかせるので、危険で近よれないらしかった。

  私は三省事務局長会議でたびたび陸軍側に警告し、広田大臣からも陸軍大臣に軍紀の粛正を要望した。軍中央部は無論現地軍を戒めたに相違なかったが、あまり にも大量な暴行なので、手のつけようがなかったのだろう、暴行者が、処分されたという話を耳にしなかった。当時南京在留の外国人達の組織した国際安全委員 会なるものから日本側に提出された報告書には、昭和13年1月末、数日間の出来事として、70余件の暴虐行為が詳細に記録されていた。最も多いのは強姦、 60余歳の老婆が犯され、臨月の女も容赦されなかったという記述は、ほとんど読むに耐えないものであった。その頃、参謀本部第二部長本間少将が、軍紀粛正 のため現地に派遣されたと伝えられ、それが功を奏したのか、暴虐事件はやがて下火になっていった。

 これが聖戦と呼ばれ、皇軍と呼ばれるものの姿であった。私はその当時からこの事件を南京アトロシティーズと呼びならわしていた。暴虐という漢字よりも適切な語感が出るからであった。

  日本の新聞は、記事差し止めのために、この同胞の鬼畜の行為に沈黙を守ったが、悪事は直ちに千里を走って海外に大センセーションを引き起こし、あらゆる非 難が日本軍に向けられた。わが民族史上、千子の汚点、知らぬは日本国民ばかり、大衆はいわゆる赫々たる戦果を礼讃するのみであった。

 バネー号、レディー・バード号事件

  わが軍の南京攻略に際して、揚子江停泊中のアメリカ艦バネー号と、イギリス艦レディー・バード号がそば杖を食った。バネー号はわが海軍機の過失によって、 撃沈されたのである。アメリカからの厳重な抗議に対して、日本政府は平あやまりにあやまり、海軍はすぐ責任者を処分した。この時の海軍の処置ぶりはあざや かであった。一時沸騰したアメリカの世論がそれで納まった。

  日本の子供までが事件を心配して、在京のアメリカ大使館に同情の手紙を寄せたり、救恤のたしにとお金を送ったりしたことが新聞に見えた。本当に童心から出 た誠意なのであろうか。私はちょっと不純さを感じた。その頃、日本国民の頭には米主英従とでもいうか、イギリスはどうでもよいが、アメリカのご機嫌は損じ ないようにとの空気がしみこんでいた。それが童心にも反映したのかもしれなかった。

  レディー・バード号は、蕪湖沖で橋本欣五郎大佐の砲兵隊から撃たれたのである。イギリスからやはり厳重な抗議が来たが、陸軍は素直に非を認めようとしな い。イギリス艦の方で煙幕を張って、敗残中国兵を収容したのが悪いのだ、などと虚構の説を言いふらして頑張ろうとしたが、結局陸軍も、イギリスに対する謝 罪には反対しきれなくなった。ただ明らかにこの事件の責任者である橋本大佐を、どうにもし得ないのだ。12月末、私がイギリス謝罪文の案を確定するために 陸軍省に行った時、橋本大佐を処分しきれない手ぬるさをなじると、町尻軍務局長は、軍の内部状勢上、彼を処分し得ない事情を諒察されたい、と逃げるので あった。
 一予備大佐ながら、軍も憚らねばならぬ橋本大佐の威力は、英雄的であるというべきであった。

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2014/10/09

殺戮を拒んだ日本兵”渡部良三”の歌集から

 いかがなる理にことよせて演習に罪明らかならぬ捕虜殺すとや
 捕虜五人突き刺す新兵(ヘイ)ら四十八人天皇の垂れしみちなりやこれ

 
 この歌は、中国人捕虜を銃剣で突くという「刺突訓練」(捕虜殺戮)を拒否した渡部良三(学徒出陣によって中国河北省の駐屯部隊に陸軍二等兵とて配属された)の歌集「小さな抵抗」の中の2首である。

 「刺突訓練」については、すでに別のところでも抜粋しているが、第59師団師団長・陸軍中将「藤田茂」の自筆供述調書に
 「兵を戦場に慣れしむる為には殺人が早い方法である。即ち度胸試しである。之には俘虜を使用すればよい。4月には初年兵が補充される予定であるからなるべく早く此機会を作って初年兵を戦場に慣れしめ強くしなければならない」「此には銃殺より刺殺が効果的である」
などと、俘虜殺害の教育指示をしたという記述があった。

 また、日本軍による儘滅作戦(ジンメツサクセン)(一般的には「三光作戦」として知られている)で、多くの中国一般住民が殺されたことも、下記のような歌から想像される。

 古兵らは深傷(フカデ)の老婆やたら撃ちなお足らぬげに井戸に投げ入る

 「刺突訓練」のための捕虜殺害を拒否し、リンチを受けながらも人間的な視点を失わなかった渡部良三というひとりの日本人を通して、日本の戦争が何であったのかをあらためて考えさせられる。

 渡部良三は復員時に約700首におよぶ戦地での歌を持ち帰ったという。それを復員後39年以上が経過してから整理し、「歌集 小さな抵抗」として出した。下記は、その中から目次の内容にそって、私が個人的に記憶に残したい「歌」を選び出したものである(ただし、漢字につけられた読み仮名は、都合上漢字の後ろのカッコ内にカタカナ表記で示した)。
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捕虜虐殺
 ・朝飯(アサイイ)を食(ハ)みつつ助教(ジョキョウ)は諭したり「捕虜突殺し肝玉をもて」
 ・刺し殺す捕虜の数など案ずるな言葉みじかし「ましくらに突け」
 ・人殺し胸張る将は天皇(スメロギ)の稜威(イツ)を説きたるわれの教官
 ・殺人演習(サツジン)の先手(サキテ)になえる戦友(センユウ)も人なればかも
  気合かするる
 ・いのち乞わず八路(ハチロ)の捕虜は塚穴のふちに立ちたりすくと無言に
 ・虐殺(コロ)されし八路(ハチロ)と共にこの穴に果つるともよし殺すものかや 
 ・驚きも侮りもありて戦友(トモ)らの目われに集まる殺し拒めば
 ・「捕虜ひとり殺せぬ奴(ヤツ)に何ができる」むなぐら掴むののしり激し
 ・縛らるる捕虜も殺せぬ意気地なし国賊なりとつばをあびさる
 ・「次」「次」のうながし続き新兵の手をうつりゆく刺突銃はも

拷問をみる
 ・水責めに腫れたる腹を足に蹴る古兵の面のこともなげなり 
 ・ひとり冷め拷問する兵の面を見る人形(ヒトガタ)なせる獣とも見ゆ
 ・拷問とう禍事(マガゴト)に果つる密偵になすすべもてぬ著(シル)きわが罪
 ・きわやかに国のゆく末ことほぎて女スパイの首ついに垂る

戦友逃亡
 ・戦友の「岡部」をみざり黄塵の朝の点呼に逃亡と決まる
 ・「戦友(センユウ)よ、しっかりと逃げよ」さがすべく隊列組みつつ祈る兵あり
 ・天皇(スメラギ)の兵を捨てしは逃亡ならず自由への船出と言いてやりたし
 ・逃亡兵岡部も農の子なりしか麦畝(ムギウネ)踏まぬ心残せり
 
殺人演習と拷問見学終わる  
 ・むごたらしき殺しを強いし教官に衛兵捧ぐる礼(イヤ)のむなしさ
 ・しろしめす御旨を恃(タノ)み殺さざり驕(オゴ)れる者に抵抗(アラガイ)てわれ
 ・ましくしの寝床(ネド)に息吐き怯えいる捕虜殺さざる安さあるとも          ・捕虜なみのさばき覚悟し酷(ムゴ)き殺しこばめる後の落ち着かぬなり

リンチ
 ・血を吐くも呑むもならざり殴られて口に溜(タマ)るを耐えて直立不動
 ・かほどまで激しき痛みを知らざりき巻きゲートルに打たれつづけて
 ・私刑うけゆがむわが面(モ)にしらじらし今朝の教官理由(ワケ)を問いたり
 ・後の日のそしりを恐れ戦友らみな虐殺拒みしわれに素気なし
 ・眼(マナコ)とじ一突きすれば済むものを汝の愚直さよとう衛生兵なり
 ・「不忠者の二等兵」われに課せらるる任務(ツトメ)は常に戦友よりきびし
 ・分りいて戦友(トモ)らに詫るすべもなし自が責なる対向ビンタに

 東魏家橋鎮(トウギカキョウチン)の村人
 ・むごき殺し拒める新兵(ヘイ)の知れたるや「渡部(トウベエ)」を呼ぶ声のふえつつ
 ・小さな村の辻をし行けばもの言わず梨さしだす老にめぐりぬ
 ・柔らかにもえ立つ春の陽だまりの村人の微笑(エミ)に救い覚えつ

逃亡兵逮捕さる
 ・幾夜々を野に伏し怯え寝ねたるや運命(サダメ)の女神戦友にたたざり
 ・穏(オダ)しくて言葉少なき戦友(トモ)なりき「営倉」なれば逢うもならざり
 ・逃げのびよにげおおせよのわが祈り戦友にみのらず逮捕(トラワレ)はてぬ

教練と生活
 ・肉刺(マメ)破れまめの中の肉刺も形なし六粁(キロ)行軍三日つづきて
 ・夜間行軍にむさぼり眠る小休止新兵互(カタミ)にからだつなぎて
   <註>新兵の夜間行軍の際は、「脱落、落伍、逃亡防止のため、ロープで          新兵の体を互いにつながせた。
 ・戦友ひとり半身(ハンミ)のむくろになり果てぬまわりは血肉に染る驚き
    ─ 擲弾筒爆発事故死─
 ・事実(コト)を曲げ戦死謳(ウタ)うも諾(ウベナ)わぬ兵らは黙す理(ワリ)もただせず
 ・隊長に教官はかるでつぞうの戦死いくたり勲記も添えて
   <註>「でつぞう」は捏造のこと
 ・擲弾筒炸裂事故死の補充要員虐殺(コロシ)こばみしわれの名指さる
 ・かすめうばい女(オミナ)を犯し焼き払うおごる古兵も「赤子」とうかや
 ・「尽忠奉公慰安婦来たる」の貼紙を見つつ戦友等にならわぬひとり
 ・兵等みな階級順に列をなす浅ましきかな慰安婦を求(ト)め
 ・弾丸(タマ)の雨あぶるよりなお心冷ゆ慰安婦来たりうごつく群れに
 ・「特高犯スパイの親族(ウカラ)」に米麦の差別さるるを母書ききたる

湖水戦
 ・儘滅(ジンメツ)は夜半におよべり見返れば地平火の海これも戦(イクサ)か
 ・儘滅作戦(ジンメツ)に潰えたる村に抵抗(アラガイ)なし月のみさびし冴えとおりつつ
 ・村は燃ゆ火の海(ミ)のさまに際涯(ハタテ)なしいずくに眠る支那の農らは
 ・家焼かれ住処(スミカ)のありや広き国支那とはいえど貧しき農等
 ・三光の余(マ)りに凄(サム)しきしわざなり叫び呻きの耳朶(ミミ)より消えず
    <註>「三光」。中国で「殺す(殺光)、掠奪(槍光)、焼く(焼光)」をいう。
 ・楽し気に強姦(オカシ)を語る古兵いま八路(パロ)の狙撃に両脚(アシ)うち貫かる
 ・にらみ合う三日二夜は長かりき物原(モノハラ)のさまに屍(カバネ)ふえつつ
 ・火ふきいし銃眼に砲は命中(アタリ)たり一瞬八路(ハチロ)の姿(カゲ)空(クウ)に浮く ・弾丸(タマ)の音ひたと絶えたるたまゆらの静寂(シジマ)に戦友の呻き重かり
 ・小さき村ひとつを攻略(トリ)て戦闘(タタカイ)は漸く終えぬ戦死二百五十名
 ・弾丸(タマ)はきれ米すでになし傍らの戦友がくれたる乾パンの屑
 ・「死」に怯え思想も信仰(シン)もあとかたなしひと日のいのち延びし安らぎ
 ・戦場(イクサバ)に生命惜しむは蔑(ナミ)さるる在り処(ド)と知れど生きて還りたし

 ・大塚の思想を説きし古兵(ヘイ)も死す朝毎おもう今日はわれかと
     <註>「大塚の思想」。大塚久雄東京帝国大学(現東京大学)助教授の、          経済史に関する学説。この古兵も反戦だった。 
 ・貫通も盲貫もあり相つぎて戦友死にゆくに覆い足らざり
 ・細りゆく脈みるわれに衛生兵よしなき理(ワリ)を言う面暗し
 ・瞼垂り脈弱まり来おもむろに冷ゆる生命にかす手だてなし
 ・これほどの数多若きを死なしむる権力(チカラ)とはなに国家とはなに
 ・戦友の死を日日(ニチニチ)みつつわがこころ誰を呪うべき天皇か大臣か部隊長か

 ・傷つきて喘ぎつつなお吐く息に抗日叫ぶ若き八路(ハチロ)よ 
 ・無造作に屍(カバネ)積みつつ兵の声戦友(トモ)の死にしを日常(ツネ)の如言う
 ・生きのびよ獣にならず生きて帰れこの酷きこと言い伝うべく
 ・人をして獣にするは軍(イクサ)という智慧なきやからうごめける世ぞ
 ・若きらを数多死なしめ戦闘(タタカイ)に勝利をのぶる言(コト)の空しさ
 ・背のうはすでに軽かり討伐に補給されずて六日すぐれば
 ・死にし戦友(トモ)「天皇陛下万歳」は叫ばざり今野も小原も水を欲(ホ)りしのみ
 ・酒保に来しわれの目裏(マウラ)に亡き戦友のたてばためらい
  飲食(オンジキ)を止む
 ・飢え死か凍て死か知らね天津のやちまたゆけば軀(ムクロ)ころがる

 動員はじまる
 ・いつわりて暴虐(あらび)を強いて傲り果て「聖戦」という新語つくれり
 ・大臣の東條英機は自(オノ)が子ろを軍に置けども征旅(タビ)はとらせず
 ・ますらおの賞め言いらぬねがわくば人を籬(マガキ)の戦争(イクサ)を止めよ

 学徒動員
 ・雨しまく神宮広場を学徒兵声ひとつなく歩を揃えゆく
  ・天皇(スメロギ)の命令(メイ)と強いらる筆折りて出征(イユ)くにがさを
  誰につぐべき
  ・いつの日か戦争(イクサ)の終えて気ままにももの言うことの叶う世も来む
  ・学友らいま校門を出行くもの言わず目にて互(カタミ)に頷き交し
  ・かけがえの無きものいまし捨てんとす滅亡(ホロビ)の道と知りつつもなお
  ・征くのみに帰還(カエル)ものなき戦争時代(イクサドキ)われはもついに
   兵ならましか
  ・荒声に「長髪を切れ!」軍刀にわれをしこづく配属将校
  ・「神在(マ)さば征旅(タビ)にも守りありぬべし」宣(ノタモ)う母は目見(マミ)伏しまま
  ・他の兵に変わることなき姿して冷めしものもつわが口重し
  ・死してなお帰り来るなの強い受けし兵等激しき船酔いになく

 馬頭鎮下車
  ・新しき軍靴は土に塗(マブ)されて新兵(ヘイ)等の小さきかなしみを増す
  ・駅舎(ウマヤ)なく見涯(ミハテ)の限り家も見ず踏む大地(ツチ)固し思いのほかに

 東魏家橋鎮駐屯部隊に配属さる
  ・一挺の銃すら持たぬ新兵(ヘイ)の群れ河北に立ちぬ幼顔して
  ・新兵(シンペイ)の鈍き足音地に吸われ薄日の中に民衆(ヒト)の姿(カゲ)なし

 徐州市にて
  ・転属は度重なるも恨むべき戦友(トモ)ひとりなく黄河こえたり
  ・夏近く徐州の町は涯も見ぬ麦の黄金(クガネ)の中に浮べり
  ・父に受く祖母(ババ)がかたみの小さき時計ネジまくつどに面影のたつ
  ・足早やに去る工作員の背を見つつ日本の敗(ヤブ)れしのちを気にやむ 
  ・目のひかり厳しかりけり粗末なる衣袴まとえども工作員は
  ・山積みの弾薬列車火を吹くもかかわりなげなる徐州の人ら
  ・なに故に見分け叶うや日本兵の吾(ア)を狙いうつP51
  ・弾(タマ)をあび野犬(イヌ)に食(ハ)まれて果てし馬(マ)のくにはいずくぞ
   われもかなしよ
  ・徐州市の東より帰る爆撃機麦穂なびかせゆきし数にて
   <註>重慶、成都等の米軍基地から、日本本土空襲を行い、帰還時には、
       日本軍を揶揄するかのように、超低空ともいうべき高度で飛び、麦やそ       の他の作物がいっせいになびく程であった。
  ・寝転べる日本兵にめぐり逢い支那の母子(オヤコ)は息呑みて立つ
  ・飲食(オンジキ)も遊興(アソビ)のことも「特攻」は身分あかさば足ると知りたり
  ・戦争(タタカイ)は日日傾くか頬紅き十六歳も河南にきたる

 敗戦す
  ・「聖戦」の旗印(シルシ)かかげて罪もなき人死なしめし報いきたりぬ
  ・国破れ生命の保証(アカシ)あるならねされど僅(ハヅ)かに安らぎおぼゆ
  ・戦友(トモ)らより疾(ト)く敗戦知りし通信兵(ヘイ)安さかこもつ口に出ださず
  ・電文は敗戦のうつつ否むがに「終戦」という新語につづる
  ・復員の見込みを問いし士官いま戦犯指名にひかれゆきたり
  ・戦犯指名を恐るるならむ強姦(オカ)せしを誇りいし古兵(ヘイ)は口を閉ざしつ
  ・敗残の日匪(ニッピ)おとなう郷長の心ひろきに額(ヌカ)深く垂る
  
       復員列車とは名ばかりの、貨物列車に乗る日がきた。徐州駅に向かう
       途次、かつて耳漏(ミミダレ)をなおしてやった子等が通りに端に立ち、「再
       見(ツァイチェン)」「渡部(トウベエ)」を連呼し、しばらく添い走った。
  ・徐州市ゆ復員列車に乗る日来ぬ子等の走り出で「再見(ツァイチェン)!」
   「渡部(トウベエ)!」
  ・再見(ツァイチェン)の続けさまなる声きけばわけの分らぬ涙あふれ来
  ・わが乗れる復員列車襲われぬ土匪(ドヒ)ぞ物みな奪い去りたり
  ・南方(ミンナミ)の鉄道敷設に使役とうデマ飛びかいて兵等ふためく
  ・駅ごとにとまる列車にあびさるるののしりさげすむ言のきびしき

 揚子江(長江、江)左岸にテントを張る
  ・河南より江の左岸に立つひとり敗残なるもこころ誇りて
  ・チフスいずる噂流れぬ北風に肌曝(サラ)しつつ虱とりする
  ・口ぶりはいささ変わるも士官等の面に傲りはなお著(シル)く見ゆ
  ・江岸にののしりあぶる生霊(イキリョウ)の恨みの声を天皇(スメラギ)よ聞け
  ・医薬(クスリ)なく糧(カテ)さえ足らぬ幾万の兵の朝夕(アサヨ)を
   大臣(オトド)来て見よ
  ・北支派遣の総大将はとうのはて逃げ帰りしか噂広まる
  ・軍衣袴にメモを縫込めリバティーに乗ればほとするわが青春の記
  ・復員(カエリ)なば積み置きたりし書(フミ)の山手当たり次第読まむたかぶり

復員し故山へ
  ・権力(チカラ)もて時代(トキ)の青春剥ぎとりしこの祖国みよ焼野原なり
  ・復員に疑うべくもなきうつつ民族(タミ)を見下ろす占領軍あり
  ・戦野(イクサノ)に傷みし心犒(ネ)ぎ給う師のやさし多摩の川辺に
  ・垂る涙のごわず母は息子(コ)に語る物資配給に受けし八分を
  ・復員しいま古里に斑雪(ハダレ)みる平和とうもののなんと尊し
  ・「検事等はかわたれすでに家(ヤ)を囲み父を逮捕す」母の言(コトト)鋭し
  ・釈放(トキハナツ)時期(トキ)を質して検事等に母迫りしを妹等(コラ)は告げたり
  ・「スパイの子」われ復員すむら人等息をしつめてかいまみるがに
  ・楽し気に童子(ワラシ)の頃の吾(ア)を語る女(メ)を癒したし叶わざれども
  ・「案ずるな」偽りめくを抑えつつ臨終(イマワ)の近き子守女(コモリメ)に言う
        
極東軍事裁判始まる
  ・戦陣訓垂れたる将の肥え太りその腹切れず囚われにけり
  ・囚われの将等は責任(セメ)を否みつつ戦陣訓に背き縊らる
  ・戦犯の絞首をつぐる新聞もラジオニュースももの足らぬなり
  ・戦争(タタカイ)の敗れ幾年すぐるとも民族(タミ)が負うべき責任(セメ)は変らず
  ・戦争の責任ぼかされて歪みゆく時代(トキ)の流れを正すすべなし
  ・天皇(スメロギ)の戦争責任なしとうはアジアの民族(タミ)の容れぬことわり
  ・強いられし傷み残れど侵略をなしたる民族(タミ)のひとりぞわれは
  ・国内(クナウチ)を廻りて止まぬ天皇(スメロギ)に開戦責任国民(タミ)は問わざり



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2014/10/03

日本人戦犯自筆供述書 満州国憲兵訓練処処長少将 斎藤美夫

 下記は、「侵略の証言 中国における日本人戦犯自筆供述書」新井利男・藤原彰編(岩波書店)から、満州国の治安維持工作や中国人弾圧に直接関わった中心的人物、斎藤美夫の自筆供述書の一部を抜粋したものである。斎藤美夫は、憲兵畑を歩み、新京憲兵隊長や関東憲兵隊司令部警務部長、憲兵訓練所長などを歴任した人物で、関東憲兵隊が行った治安維持工作や中国人弾圧関する記述は具体的かつ詳細である。「討伐検挙」をくり返し、多くの中国人を「厳重処分」とした事実は、「五族協和」「王道楽土」の満州国が、実は、憲兵と警察による統治国家であったということを物語っている。

 斎藤美夫の供述書に頻繁に出てくる「厳重処分」という言葉が、法的手続きに基づかない「処刑」を意味しているということにも驚かされる。そして、『共産党関係者は仮借なく「厳 重処分」を以って臨むこと』としていたのである。さらには、官吏公職員等の身分を有する者や学生知識分子等は「軍事行動による厳重処分」が憚られるため、一応裁判所の審理にかけ合法化を装う、としていたのである。

 また、彼は国際法規に違反し、「細菌化学試験に充つる中国人を憲兵隊が石井部隊に引渡したこと」を認めている。
 さらには、ノモンハン事件の俘虜交換交渉の成立により戻ってきた日本側の俘虜の処遇に関する記述も見逃せない。「俘虜の大部分は戦傷により人事不省に陥り、俘虜となったものが大 部分になることは日本帝国軍人の恥辱と考え、之れを理由なく卑む風潮がありました」ということで、処刑したり、自決を強要したりしたという事実も明らかにしているのである。

 注:文中の”ママ”とある漢字の「吉米」は「粁」に、「横打」は「殴打」に、「見致」は「見地」に、「通諜」は「通牒」に、「所刑」は「処刑」、「すこと」は「すること」に、「労動者」は「労働者」に、「人事不正」は「人事不省」に改めた。
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               第3章 憲兵に支配された国

 筆供自述                               
                         満州国憲兵訓練処処長少将 斎藤美夫
自己罪行

新京憲兵隊長当時

  [抗日聯軍・朝鮮遊撃隊への工作]
(二)1937年11月初旬、新京北・南憲兵分隊、又偽首都警察庁の「厳重処分」附すべき中国人約30名を隊附き西田憲兵少佐に指揮せしめ、偽首都警察庁押送用バス2台に分乗せしめ、憲兵偽警察官約40名を以て護衛し、偽新京東北方約20粁の刑場に押送途中、被護送遊撃隊員1名が手錠を装したるまゝ警察官拳銃を奪い、警察官を即座に射撃し、其場に斃し離脱を計りました西田少佐は後部車輌にありましたが、急遽全車を停止せしめ、憲兵警察官を指揮し、又最寄部落より自警団を集めて遂にこの勇敢なる遊撃隊員其他全員約30名を射殺し、引揚の上其顛末を報告しました。私は西田少佐が臨機応変の処置を講じたことに対し賞詞を与えました。本件被押送者が受刑の直前、必死の最終的反抗闘争を敢行し、成功すると否とに拘ず日帝に対する憎しみを以て死の直前迄完闘したその精神は、誠に尊きものでありました。而して指導官西田少佐は反抗を鎮圧することを理由として、無武装の被押送者を全部射撃屠殺(ママ)致しました。私は隊長として西田以下を指揮し、この屠殺を実行せしめたのであります。しかも当時西田に対し賞詞を与えて居ります。私の罪行は最も厳重であります。茲に衷心認罪致します。


[石井部隊・討伐検挙・「厳重処分」]
(四)1938年1月26日、関憲警第58号をもって石井細菌化学部隊と関係ある憲兵司令部命令を受領しました。私は、石井部隊が憲兵隊より引渡す人員を其細菌化学試験に充当するものなるを察知しました。私は右命令に基き処置を取りましたが、当時如何なる手続きを経て何名の人員を石井部隊に引渡したるや等、其具体的情況を記憶致しませんため、こゝに其供述をなし得ませぬことは誠に申訳なき次第であります。細菌化学試験に充つる中国人を憲兵隊が石井部隊に引渡したことについては、1938年新京憲兵隊附きとして在職した憲兵少佐橘武夫が、1948年ハバロフスク国際裁判所法廷に証人として証言したることにより、之れを確認する次第であります。細菌化学試験に関する前記命令に基いて、私は新京憲兵隊長として之に対する措置を実行したのに相違なく、従って私は石井細菌化学部隊の試験工作に封帛助協力して国際法規に違反し、非人道極まる罪行を犯したることにつき、茲に謹んで認罪する次第であります。


(五)1938年2月中旬春季「討伐検挙工作」につき、吉林分隊に於て憲・警機関の会議を施行し、私は会議に臨んで対策指示を致しました。其要旨は左の如くであります。
 「前冬季工作により相当の成果を揚げ、第一路軍楊司令直轄部隊に其五分の一の損耗を与えたるも該部隊を金川方面に逸したり。就ては来る春季工作に入る前に同軍と連絡ある人民の一斉検挙を実行し、一面吉林、及各農村に潜入せる隊員を索出検挙すること。

 春季工作に於て吉林地区は依然第一路軍に対する工作を実行す。之れがため通化独立憲兵分隊との連繋協定を遂げ、彼此相呼応して工作を実行すること。(之れがため吉林分隊長及吉林省警備課長を通化に派遣し協議せしめました。)
 第一路軍に対する情報蒐集を適確にし、同軍の移動方向を予め把握して、捕捉殲滅を期すること。」

 春季工作は1938年3月中旬より開始しました。之れに先行して聯軍に連絡ある人民を「一斉検挙」し、又都市農村潜入の遊撃隊員を「逮捕」し、「討伐検挙工作」により聯軍隊員に又人民に多大の犠牲を出しました。この春季工作を通じて憲・警の総「検挙」数は約700名に達しました。私は隊長として各工作を画策し、指揮し、且つ「被検挙者」の処理につき之れを指揮して、多数の「厳重処分者、法院送致者」を出しました。

(一五)1938年7月下旬、新京駅貨物倉庫に謀略放火と認むる火災事件が発生しました。私は隊下を指揮して厳重なる捜査を実行せしめました。火災現場検証により放火材料(マッチを加工したもの)を指定されたる位置に装置したる中国人労働者1名を「逮捕」し、続いて倉庫に働く労働者多数を新京北憲兵分隊、偽警察機関にて取調を行はしめ、工作中心人物を発見せんとしましたが目的を達成しませんでした。私の捜査命令により多数の人民に対し凡百ゆる拷問を行い、迫害を加えました。

(一六)私の新京憲兵隊長在任期間を通じて各憲兵分隊は所管地区内軍倉庫、官舎等より警察法令違反事件被害届を多数受理しました。憲兵は之等事件の中、重大事件を除く外は、微罪不検挙の方針の下に刑事訴追手続を省略し、被逮捕者に対し将来を戒むる理由によって殴打暴行等凡ゆる帝国主義的野蛮手段を加え、然る後釈放する処理法を採りました。私は部下が人民に与えた不法行為に対し、深く其責を負う次第であります。


関東憲兵隊司令部警務部長当時

[治安粛正工作]
3、人民鎮圧に関する具体的事項。
(二)1939年初頭頃より海拉爾(ハイラル)日本軍陣地構築に関し、労働作業、生活管理不良の為め、中国人労働者に多数の病死者を出しました。この陣地構築労働者は、防諜の見地より現地住民を避け、遠く熱河省方面より募集し来たりしものであります。地下構築作業が主であったため、温度湿度が身体に合はず、且つ給与管理が不適当であった為、爆発的に呼吸器疾患、或は伝染病が多発したのであります。海拉爾憲兵隊は防諜警備上現場に出動服務し、労働者に酷烈なる監視を加え、病者の外、健康者に対しては更に苛酷なる取扱を実施しました。私は警務部長として現地憲兵の陣地構築警戒監視に関する命令指示を致しました。其関係に於てこの事件に対する重大なる責任を負う次第であります。

[細菌部隊への引渡業務]
(六)1939年7月中旬、大連埠頭に於て日本軍戦闘機焼却事件が発生しました。之れは謀略放火と認めましたので、警務部長通牒を以て大連憲兵に対し捜査指示を致しました。其工作援助のため八六部隊より一部を大連憲兵隊に配属致しました。


 大連に於ては鋭意捜査に当りましたが、未だ検挙に至りません。其後も被害は頻々として続出し、遂に1940年2月、大連郊外関東軍防寒被服倉庫一棟を放火によりて焼却せられました。私は関東軍司令部第2課長磯村大佐と共に急遽大連に出張し、直接大連憲兵隊及大連警務機関の捜査工作を指揮しました。遂に大連警察署に於て謀略関係地下工作員約20名(天津方面より派遣せらる)を検挙しました。

 本捜査のため事件発生の都度埠頭其他の現場から中国人労働者を憲兵隊偽警察に拉致し、厳密なる取調を行い、自供を強いる等人民に対し甚しき脅迫迫害を加えました。

(七)1939年8月8日、関憲作命第224号を以て河北より石井細菌化学部隊に引渡すべき中国人90名を哈爾浜、及孫呉に押送すべき関東憲兵隊司令官命令を下達しました。この命令は関東軍作戦命令によるものでありまして、私は警務部長として第3課に命じて命令案を起案せしめ、司令官命令として下達したものであります。命令内容の要旨は左の如くであります。

「憲兵教習隊平野中佐は、附属人員憲兵約30名、及看護下士官1を指揮し、河北より押送し来る中国人90名を山海関に於て河北押送者より受領し、之れを孫呉に押送し中、哈爾浜にて30名を残余を孫呉に於て夫々石井部隊受領員に引渡すべし。」


 私は、当時被押送中国人は石井細菌化学部隊に於て実験用に供すべき事を承知の上、押送引渡業務を事実上指揮して、石井細菌部隊の化学実験の下に中国人民を虐殺する工作に協力致
しました。

 又、1940年4、5月の候、日本陸軍技術本部並習志野瓦斯(ガス)学校合同試験班が毒瓦斯砲弾効力試験を北黒線地区に於て実施しました。此際関東軍作戦命令に基き、私は警務部長として右試験場特別警戒の為、憲兵将校以下60名を差出し、又憲兵隊留置中の厳重処分に該当する中国人約30名を該試験団に引渡すべき工作を司令官命令を以て示達しました。 

 右2件は何れも生人を化学実験に供したものでありまして、私は警務部長として其目的を承知しつゝ、人員引渡を為さしめたのであります。誠に非人道非人間性の惨虐を絶する行為であり、且つ又細菌毒瓦斯兵器は国際法に於て厳に禁止する事項でありまして、右行為は国際法違反行為たることを確認致します。今当時之等悪虐非道の日本軍事ファシストの毒牙に斃れた人びとの身の上に想到致しますると、自責の念に堪へぬ次第であります。私は言語に尽ぬ滔天の罪行を犯しました。唯々謹んで認罪致します。


[ノモンハン事件俘虜の処刑]
(二)1939年9月上旬、ノモンハン事件につき哈爾浜市に於て其善後処置につき、日・偽満・蘇間の談判会議が開かれました。軍司令部の意図により哈爾浜憲兵隊をして会議の警戒及ソ側談判員の身辺警護を名として談判員の言動を内査せしめました。

 又同時頃、綏芬河──哈爾浜──満州里間列車に於けるソ聯伝書使に対し、軍の指示に基き伝書盗取の目的を以て催眠性瓦斯を列車寝室に放射し、睡眠に陥れんとする工作を憲兵をして実施せしめました。結果は獲る所がありませんでしたが、この2件は軍事ファシストの手先として陋劣陰険極まる性質の罪行でありまして、私は警務部長として之れを憲兵に命じ、強制的に敢行せしめた指揮官として責を負い認罪いたします。

(三)1939年10月下旬、ノモンハン事件日・ソ俘虜交換問題の交渉成立し、日本側俘虜受領委員により日本側俘虜は受領せられました。其人員は約300名であったと記憶します。この人員は軍に於て俘虜管理委員を組織し、管理することゝなりました。私は其委員に任命せられました。俘虜は吉林の軍病院に収容せられました。憲兵を看護兵に偽装せしめ、監視と看護とを兼ねて勤務せしめました。軍特設軍法会議により俘虜を取調べ処刑しました。死刑処分に附せられた者は約30名と記憶致します。尚中隊長として戦場に於て俘虜となった大尉1名は、癩病に罹り居り、且つ戦場にあって尽くすべきを尽くさずして俘虜となった故を以て、本人に対し死刑を判決されましたが、管理委員に於て、本人に自決を勧告し、秘かに憲兵(看護兼務)をして拳銃を渡さしめ、遂に自殺せしめた由、後に委員、憲兵隊司令部西田中佐より之れを聞知しました。又俘虜の大部分は戦傷により人事不省に陥り、俘虜となったものが大部分になることは日本帝国軍人の恥辱と考え、之れを理由なく卑む風潮がありました。因って判決処理が過当であったことは勿論、非人道的なる方法(例えば自決を強要するが如き)が秘密に行はれたることも想像に難くありません。(前記中隊長の事例もその一例であります。)私は管理委員として俘虜に対する非法取扱の責任を負う次第であります。


http://hide20.web.fc2.com/http://www15.ocn.ne.jp/~hide20/"に投稿記事一覧表および一覧表とリンクさせた記事全文があります。一部漢数字をアラビア数字に変えたり、読点を省略または追加したりしています。また、ところどころに空行を挿入しています。青字が書名や抜粋部分です

2014/09/21

日本人戦犯自筆供述書 第39師団師団長 佐々眞之介

 「日本人戦犯自筆供述書」は、当初反抗的であった戦犯容疑者たちが、強制や強迫によることなく、戦犯管理所の人道的な処遇や忍耐強い教育に心を動かされて自己変革を成し遂げ、自発的にその罪行を綴ったものである。
 下記は、「侵略の証言 中国における日本人戦犯自筆供述書」新井利男・藤原彰編(岩波書店)から、佐々眞之介(さっさしんのすけ)が、師団長の立場にあった期間の罪行の一部分を抜粋したものであるが、彼も、中国における様々な第39師団の「罪行(中国人民に対する殴打、虐待、殺害や掠奪、民家焼却、毒瓦斯使用攻撃、慰安婦強制等)」が、自分の師団長としての命令の結果であることを一件一件丁寧に記述し認めている(認罪)。

 撫順の日本人戦犯管理所で書かれた自筆供述書は、事件の日時や場所、人名、民家焼却数、掠奪物質、人民殺害の方法と人数、強姦、誘拐人数など、きわめて具体的で詳細であるが、それは、日本人戦犯がそれぞれ所属した師団、部隊、憲兵、警察、司法などでグループをつくり、繰り返し当時を思い出し、時に批判しあいながら、事実をつき合わせ、認罪を深めていった結果であるといわれていることには、すでに「日本人戦犯自筆供述書 第117師団師団長 鈴木啓久」(425)で触れた。

 『中国侵略の証言者たち──「認罪」の記録を読む』岡部牧夫 荻野富士夫 吉田裕(岩波新書)によって、つけ加えれば、そうして得られた自供内容を、被害者の告訴状と照らし合わせ、また、検察官等が被害地で犯罪調査をして、詳細な裏づけをとる手続きもなされたという。被害者からの告訴状も複数の裏づけをとる念の入れようであったとのことである。その上で、日本人戦犯ひとりひとりに対峙し、時にその罪行の修正を求め、異議があれば申し出が許されたというのである。もちろん、異議に対しては再調査が行われ、ミスがあれば訂正されたのである。したがって、日本側で、日本人戦犯の自筆供述書の内容を、「事実に反する」ということは、ほとんど不可能ではないかと思う。
 だから、日本の戦争が侵略戦争であったことを認めたくない人や、中国における日本軍の戦争犯罪を認めたくない人たちは、「日本人戦犯自筆供述書」を、頭から全て否定するしかないのだと思う。「洗脳」しか語れないのである。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
              第1章 日本軍は何をしたか
 筆供自述                               陸軍第39師団師団長・陸軍中将 佐々眞之介

 第13、前日本陸軍中国派遣軍第6方面軍第34軍第39師団陸軍中将師団長任期間罪行

1、状況説明 ・・・ 略

2、罪行
   〔1~14は略〕
15以下19迄襄樊作戦に関する行動及罪行
 1945年2月上旬、師団は第34軍司令官より襄陽樊城(ジョウヨウハンジョウ)方面への作戦参加の内命を受け、各部隊長を当陽師団司令部に集めて師団作戦計画案を示し、且作戦参加部隊の編成を内示しました。1945年3月上旬、師団は第34軍司令官より襄樊作戦参加の命令を受領し、各部隊長を当陽師団司令部に集めて命令を下しました。沙市の歩兵旅団長村上少将には印刷の命令を送附しました。師団命令の要旨は次ぎの如くでありました

 
(1)「師団は軍命令に基き第12軍の老河口作戦に協力する為、3月20日頃、荊門附近より行動を開始し襄陽樊城に向ひ作戦を行ふこと、

(2)之が為作戦参加部隊は3月18日迄に兵力を荊門東北方地区に集結し準備を 行ふこと、

(3)師団作戦参加部隊の編成は師団司令部、歩兵第231聯隊、歩兵第232聯隊、(2大隊)、歩兵第233聯隊(2大隊)野砲兵第39聯隊、(1大隊、山砲、野砲、1中隊、重砲1中隊編成)、工兵第39聯隊(2中隊)、(註:工兵聯隊主力は、是より先2月下旬、桂林方面第11軍より帰還)、輜重兵第39聯隊(自動車2中隊、車輌1中隊)。野戦病院、野戦病馬廠、師団通信隊、他兵団より配属の独立歩兵4大隊より成ること。歩兵第232、第233聯隊は協力部隊を以て担架隊を編成すること。歩兵第233聯隊は、第1挺進隊(歩兵約1小隊、之には協力部隊より所要の俘虜を参加せしめ又重慶軍の兵器及服装を用ふること)を編成し師団司令部は歩兵第232聯隊の曹長(第11軍桂林作戦に挺進隊として参加しました)及師団通信無線1分隊を以て第2挺進隊(服装は変装すること)を編成すること、挺進隊は総て精強の者を以て充当すること。尚任務達成の為には所要に応じ人民を監禁し殺害し、家屋等を破壊し焼却し、毒瓦斯(ガス)を使用し、人民の食糧を掠奪することを得、

(4)各部隊長は其責任に於て之を確認の上重慶軍の兵営、倉庫、使用家屋を焼却すべきこと。尚重慶軍の軍用塩、木材を鹵獲し漢口に後送を準備すること。

(5)各部隊の作戦間の給養は徴発証明書に依り人民の糧秣を徴発したものを以て行ふこと、

(6)各部隊は作戦開始前準備訓練を行ひ、夜間行動殊に方向維持を訓練すること。各歩兵聯隊は3月11日より、抗日団に対する弾圧行動と欺瞞宣伝しつつ沙潭鎮附近に至ること。

(7)師団作戦出動間沙市の独立歩兵旅団長村上少将は、師団長に代り師団留守部隊を併せ指揮し守備及警備に任ずること。又部隊を以て活発に陽動を行ひて当面の重慶軍を欺瞞牽制して師団の作戦企図を秘匿し、師団の作戦行動を容易にすること。
(8)歩兵第231聯隊長梶浦大佐は師団出動間師団留守部隊を指揮し、村上少将の指揮を受け師団地区の守備、警備に任ずること。」


 右師団命令に基き各部隊は夫々任務に従ひて作戦を準備し、且行動を開始しました。作戦参加歩兵聯隊は3月中旬始め沙潭鎮に向ひ夜間訓練を行ひつゝ前進しました。此行動は夜間訓練なれば夜間に於て睡眠中の部落人民を脅威し、又夜間演習を終りて不意に睡眠中の人民を起して家屋を奪取し、糧秣を掠奪して宿営し中国婦人に対する強姦事件や正義行動に出づる中国人民に対し殴打、虐待等の事件を諸所に起して重大な罪悪を犯しました。是れ私の命令に基く罪行でありまして、私の責任重大な事を認罪します。

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 1945年3月16日、私は沙潭鎮に於て各部隊長及他兵団より師団に配属の独立歩兵大隊長を集めて所要の指示を為し、且3月18日迄に夜間行動を以て行動を秘して荊門東北方地区に兵力を集結することを命じました。3月19日師団参加部隊長全員を荊門北方8粁の部落に集めて作戦指導計画を指示し、作戦発起の命令を下しました。

 作戦計画の要旨。師団は3月21日夜より作戦行動を起し、先づ主力を以て当面の重慶軍に対して急襲し爾後急追して武安堰東西の線に進出し、重慶軍の状況を見る、其主力武安堰北方になければ速に南漳を占領し、之を保持しつつ主力は反転して襄陽樊城を攻略す。此間一部を以て常に襄陽方面に対して警戒し師団の右側を掩護せしめ、又挺進隊を以て武安堰北方地区を擾乱せしむ。

 作戦命令の要旨。第1挺進隊は3月20日夜出発行動を秘匿しつゝ武安堰北方地区に挺進し、重慶軍の後方を擾乱すること。第2挺進隊は3月20日出発武安堰北方襄陽─南漳道附近に挺進し其方面に於ける重慶軍の兵力及行動を偵察し、報告すること。其他の部隊は、3月21日夕行動を起し、独立歩兵1大隊は襄陽方向に前進し、師団の右側を警戒すること。師団主力は当面の重慶軍陣地を其左翼より包囲する如く、翌22日仏暁より攻撃を開始すること。但し歩兵第232聯隊は、石橋駅方面より陣地の正面を攻撃すること。砲兵隊は、石橋駅北方及東北方に陣地を占領して第1線の攻撃に協力すること、但し野砲1中隊と重砲1中隊は本陣地攻撃に協力した後は作戦参加を中止し、駐屯地に帰還せしむること。工兵は砲兵の陣地進入援助及朱家埠─襄陽道、朱家埠─武安堰道を自動車を通ずる如く、補修すること。輜重隊は弾薬等の補給輸送及患者、鹵獲品の後方輸送を行ふこと。師団司令部其他部隊は概ね歩兵第232聯隊右翼後方を前進すること。尚師団の作戦企図秘匿の為、歩兵233聯隊は21日夕迄第1線守備陣地線に於ける警戒を厳にし、一般人民の交通を遮断すること。


 右交通遮断の師団命令に基き、各部隊は一般人民の交通を遮断しました。之に依て一般人民は不意打的大兵力の進入投宿と交通遮断に伴ひ、大きな脅威を受けました。他所に避難逃走を企つるもの、正義行動に出づるものあり、侵略日本軍隊は之に対し弾圧を加へ殴打、虐待、殺害又掠奪等の罪悪を犯しました。石橋駅東方約8粁の道路附近に於て約3名の人民の通行を阻止し、殺害した外、その他の部落、道路等に於て人民を逮捕虐待し、十数名を殺害しました。是れは日本帝国軍隊が侵略戦争の為不意に交通遮断を強行し何も知らぬ無辜の中国人民に加へた罪悪であります。此罪行は師団命令に基づくものであり、私は重大な責任あることを認罪します。

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(1)重慶軍戦士殺害約3500名、(此内には俘虜殺害若干を含みます)
 歩兵第232聯隊の兵某は聯隊が南漳方面作戦中、中国人民4名が負傷した重慶軍戦士12名を担架にて運搬中なるを発見し、其負傷戦士12名を殺害し、且逃げる運搬中なりし人民4名を射殺しました。

 第1挺進隊は3月25日仏暁武安堰北側に於て重慶軍隊を奇襲し約20名を殺害しました。師団が武安堰占領直後某歩兵聯隊の下士官が重慶軍俘虜2名を師団司令部に連行交付せんとした所、師団司令部情報係将校が殺せと指示したので同下士官は此俘虜2名を殺害しました。

 各歩兵部隊は攻撃戦闘間毒瓦斯(ガス)を用い、砲兵は瓦斯弾を発射し重慶軍隊に損害を与へました。歩兵第231聯隊の大隊は3月29日襄陽攻撃に於て漢水右岸堤防上を退却する重慶軍歩兵約1大隊を急追し、其の逃場を失て武装の儘漢水に跳び込み、逃走せんとするを射撃し、全滅しました。溺死したもの多かったようであります。右罪行は私の発した師団命令に依るものであることを認罪します。


(2)歩兵第232、第233聯隊は各々其協力部隊の俘虜約50名を以て担架隊を編成し、本作戦間酷使しました。歩兵第233聯隊の俘虜2名は茨河子に於て重慶軍飛行機の爆撃に依り死亡しました。之は日本軍が作戦に使用したことに起因する殺害であります。歩兵第233聯隊は第1挺進隊に協力部隊の俘虜数名を編入酷使しました。師団司令部は楽園部隊の俘虜約20名をを作戦間連行し通訳として酷使しました。右罪行は私の発した師団命令に基くものであることを認罪します。

(3)中国人民殺害約200名(推定)。第2挺進隊は襄陽─南漳道方面行動中、其行動を秘匿する為人民約13名殺害しました。第1挺進隊に於ても同様の目的の為に無辜の人民を殺害しました。各部隊に於ては密偵容疑者として、人民を逮捕し調査し殺害しました。又戦闘に依る人民の蒙った死傷の損害も若干ありましす。

 人民の酷使は約1万名(推定)、工兵隊は道路補修の為連日多数の人民を酷使しました。各部隊は患者輸送、掠奪物運搬等に人民を酷使しました。
 中国婦人の強姦を受けた数約50名(推定)襄陽西方及南方部落、南漳及武安堰附近部落等に於て作戦間、作戦第2、第3日の戦場附近部落、武安堰、南漳、襄陽、茨河子附近にては住民避難逃走して殆ど其姿を認めませんでした。襄陽占領直後師団は命令を出して一般軍隊の入城及宿営を禁じ不祥事の発生を予防しました。「キリスト」教会に於て婦人数十名を収容保護して居ました。(憲兵報告)。其他の諸部落に於ては大概大部の人民が居りました。平常通り営業をやって居た所も見受けました。以上の罪行は私の発した命令に基くものにて私の責任なることを認罪します。


(4)略

(5)

(6)師団は人民の多量の糧秣を掠奪しました。即ち米約500屯。肉類約55屯。野菜約550屯、食油約6屯、塩約6屯、高粱(馬糧)約750屯、藁約900屯、薪約2200屯(推定)。此内作戦地域に於て掠奪量は其約五分の三を占めて居ます(約30日間)。其中襄陽附近に於けるもの最多く、南漳、武安堰、茨河子に於けるものは之に次ぎます。右、剰余の約五分の二(約20日間)は、作戦準備及作戦終了後の解放期間に於ける所要であります。其中最多き地区は荊門附近であります。本作戦期間所要糧秣徴発は微発証明書を位て行ひました。然れども作戦地域に於ては殊に住民の避難に依り、徴発は多くは其留守の間に行はれ、従て証明書を交付することは不可能であり、又縦(タト)ひ交付し得る状況にありても果たして確実に各部隊に於て此規定を実行したか否や疑問であり、又縦ひ証明書を渡したとしても受領した人民が遠距離危険地を通過して日本軍隊の所に行って代金を請求することは恐らく不可能であり、又縦ひ証明書を以て請求に行ったとしても当事者たる当師団は作戦終了後移動したので他兵団としては当師団に代りて支払ふや否や、軍より之等兵団に支払の処置を為したか否か、恐らく出来て居ないと思ひます。然らば此徴発行為は全く掠奪であります。証明書(後日代金支払の)を以て徴発するものであると云ふ仮面を装ふた掠奪でありました。私は作戦師団各部隊をして此悪質な掠奪を行はしめた罪悪を犯したことを認罪します。

(7)3月30日、師団が命令して歩兵第232聯隊をして漢水を渡河し、樊城を占領せしめた時、同聯隊は其附近にありし人民の船約6艘を肆(ホシイママ)に奪取使用しました。本渡河以後に於ても諸種の用途に継続使用したと思はれます。従て旧位置に之等の船を返還せしや疑はしくあります。4月始、師団が茨河子附近前進した時患者及鹵獲品を襄陽に後送する為民船約4艘を奪取使用しました。元より之が返還は不可能でありました。船は此の持主に取りては全財産であり住居でもあります。唯一の営業機関でもあります。之を奪取された人民は、爾後職を失ひ生活に非常な苦難を蒙ったこと明らかであります。此罪行は私の発した師団命令に基くものであります。私は其責任者たることを認罪します。

(8)

(9)

10)

21
 1945年1月下旬頃、師団の某歩兵聯隊尉官1名は聯隊命令に依り抗日団弾圧行動中、某部落に於て50歳位の中国婦人1名を強姦したのでありました。又同5月上旬、第132師団編成要因として師団に増加配属せられた他兵団の歩兵大隊が宜昌に向ひ十里堡(当陽東南方約40粁)附近を行軍中、同隊の兵1名が其附近部落に於て中国婦人1名強姦しました。私は5月11日、此事件を師団副官より報告を受けましたが、既に其の兵は私の指揮下を離れ、第132師団長の隷下に入て居ましたので同師団に之が処理を依頼しました。

 師団湖北省駐屯間当陽には、日本人経営の慰安所が従前より設けられ、日本軍隊の慰安に供せられて居ました。師団は之が経営を支援しました。当慰安所には中国婦人十数名が日本帝国主義の侵略戦争に依り生活苦に陥り、強制的に収容せられ賤業に服して居たのでありました。宜昌、荊門にも同様の慰安所があったと思われます。之等は侵略日本軍隊が強制的に中国婦人を陵辱した重大な罪悪であります。之等罪行は私の発した命令に基くものにて私の重大な責任であることを認罪します。


22
 師団が湖北省駐屯間、当陽に春屋と称する日本人経営の料理屋がありました。春屋は1942年頃、荊門にて料理屋を経営中に第39師団司令部が荊門より当陽に移駐した時随行し、当陽に開店したものであります。師団の支援の下に経営し日本将兵の慰安に併用して居たものでありました。春屋の主人は師団御用商人であったので、各部隊需要に応じ野菜等を師団の威力を背景に利用して、中国人民より安価収買して各部隊に供給し、中国人民より利益を搾取し、又阿片商人なりし由なるを以て入手した阿片を其吸飲者なる中国人其悪癖を利用して高価に密売して莫大な利益を奪取して居た悪徳商人であったと思われるが、師団は此行為を黙認して居た訳であります。之等莫大な収益の分前として、春屋は日本軍将兵の慰安費を低廉ならしめて居たと認められます。即ち師団将兵は春屋を通じて中国人民より搾取した利益に依り慰安しつつ中国侵略戦争を実行して居たのであります。此等罪行は私が認可したことであり私の責任であることを認罪します。


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(24)


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2014/09/12

日本人戦犯自筆供述書 第59師団師団長 藤田茂 NO2

 このところ新聞に掲載される週刊誌の広告には、ヘイトスピーチに通じるような表現の見出しがしばしば見られる。最近も、”南京大虐殺、靖国参拝批判… 中国共産党に魂を売った朝日新聞7人の「大罪」”というのがあった。「売国奴」や「非国民」というような、戦前・戦中に使われたという言葉も、しばしば目にするようになった。理解の仕方や考え方の違いを、議論によって乗り越えようとすることなく、勢いでつぶそうとする感じがして怖い。「特定秘密保護法」が昨年末に成立したこともあり、次にくるのは、権力による言論の圧殺ではないかと心配になる。

 下記は、師団長藤田茂の供述調書の中の「自分の罪行に対する認識」の部分を「侵略の証言 中国における日本人戦犯自筆供述書」新井利男・藤原彰編(岩波書店)から抜粋したものである。彼の「私は中国人民に対し物質的精神的にも多大の罪行を犯しているものであります。無辜の人民を何等の理由もなく殺害し、平和なる家庭を紊し、幾代か住み慣れし住家を破壊放火して人民を雨露に晒し、血汗を流せる糧穀を掠奪し、耕作地を荒廃せしめ、国際公法に違反して毒瓦斯、細菌戦を使用せる等の悪虐なる罪行を実行せしめたものであります」という言葉は、師団長ともあろう立場の人間が、わが身かわいさに言わされて言えるものとは思えない。彼は「中国帰還者連絡会」の初代会長として活躍したのである。

 但し、”ママ”とある漢字の「惨忍性」は「残忍性」に、「感念」は「観念」に、「懺愧」は「慙愧」に、「上級揮官」「上級指揮官」に改めた。
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              第1章 日本軍は何をしたか

 筆供自述                  第59師団師団長・陸軍中将 藤田 茂

 第3 自分の罪行に対する認識

1、私は幼少の頃から上級指揮官である師団長の地位に在る正味40年間、日本帝国主義軍隊の機構内に在りて教育され、又教育指導し命令し領導して来て、日本帝国主義のため終始奮斗し尽力したものであります。

 終戦後私は戦争の罪悪特に日本帝国主義の罪悪に対し之れを認識せず、従て私の中国で犯した数多の厳重なる罪行に対しては私は道徳的責任はあるが、実行的責任はないと考へていました。然るに蘇聯在留中種々なる文献と特に郷里広島からの通信に依り多くの肉親の惨死と市街の惨状を知りまして、戦争は凡てを破壊する行為であり特に侵略戦争の残忍性と罪悪性とを認識して反戦的観念を持つ様になりましたが、未だ帝国主義の本質を深く検討せず之を擁護する立場を持つていました。此の認識の状態で私は4年前中国に参りまして以来、尚認識も思想も変化せず過ごしました。然るに本年に到り管理所長殿、李先生の講和と映画に依り強く刺激されまして初めて夢から醒めたる様な気持ちとなり、茲に深く私の過去を悔い中国人民の前に凡てを認罪せんと決意しました。


 然し初期の決意と勇気は極めて浅く、尚帝国主義の観念の観点からせる認罪は表面的なるものでありまして、調査官殿の懇切なる指導に依り漸く現在の認罪を得たる程度であります。而も此調査に於て幾度となく根拠のなき不誠実なる供述をなし、狡猾なる責任回避の態度を表はしましたのみならず、未だ日々其欠陥を指摘され尚重大なる罪行に対し認罪し得ないことは真に慙愧の至りであります。私は今後真剣に自己の罪行を反省検討しまして、1日も早く認罪の完成を実践しなければならないと自覚し決意するものであります。

2、私の罪行の過去を省まするに私は少尉に任官した翌々年から中尉を除いた各階級に於て中国を侵略し、特に7・7侵略に於きましては上級指揮官として又帝国主義の領導者である立場の下に之に従事し、私は命令して多くの将兵を手足の如く動かし厳重なる罪行を犯して居ります。特に中国人民を殺害した数は参加を合計いたしますと約1万に達します。人の命は生存上最も貴重なるものであります。此貴重なる生命を私は実に1万名も何の顧慮もなく躊躇することなく日常の茶飯事と心得て奪つたもので、之に依り私は奨励され栄達を希願したものであります。此罪行こそ真に帝国主義の本質であります。

 私は最近毎晩米国兵の日本に於ける暴行の放送を聞きます。又数回映画に依り米帝国主義の罪行の日本に於ける現状を見まして、米帝国主義に対する絶大なる増恨を感じ憤怒に堪へません。然し此の状況は曾てわたしが中国で犯したる罪行と同様でありまして、特に1万名の生命を奪ひました肉親の私に対する増恨と憤怒は私が抱いた感じと等しいものがあります。今日私が如何にしても此生命を蘇生することは不可能であります。唯私が過去に犯した罪行の一切を告白し認罪を全ふすることのみが唯一の陳謝の途であることを思ひ、一層勇気と熱意以て認罪の遂行に邁進しなければならないと誓ふものであります。

3、私の過去犯した厳重なる罪行の一は私の本質の表現である精兵主義であります。之れは俘虜を刺殺して教育訓練を実施し兵の精神的訓練の向上を企図するもので、之れに依り侵略行動を強化せんとするものであります。之は私の強き民族優越感に起因するもので重大なる罪悪の範例であります。私は各級指揮官として在職中この精兵主義たる俘虜の刺殺を教育に使用することを励行せしめ、第59師団在任中済南に於て600名以上の俘虜を虐殺せしめ教育に利用せしめました。重大なる罪行を犯したものであります。之れは特に新に補充せられたる初年兵に対し其良心を一層麻痺せしめ以て侵略行動を強化する帝国主義の極悪なる罪悪であります。私は一切の帝国主義罪行を私の認罪の上に曝露し、世界より帝国主義を消滅し、平和なる社会建設の一端を負担する責務のあることを自覚し、私の認罪達成に邁進することを決意し実践いたします。

4、私は7・7侵略に従事中徹頭徹尾共産党軍の弾圧を実行したものであります。之の行為は新中国に対する私の二重の罪行であります。之の共産党軍の弾圧行為に依り多くの有為なる戦士を殺害しました。此の進歩的なる人民が今日現存しあらば新中国発展の支柱として多大の貢献を齎らして居られることゝ確信するものであります。此点重大なる損失を与へたものであります。然るに私の此等厳重なる罪行を犯しました戦犯者に対し中国人民並に人民政府は吾々に対し更正の道を教へ其真理を説き思想認識を向上すべく所有手段を以て懇切に指導せらるる配慮に対しは衷心感謝しなければなりません。然るに私は此の温き配慮に慣れ其深き期待に報ゆることが出来ず、尚認罪の上に於て基本的重大なる罪行が残つている状態であり思想の改善、認識向上も亦其実践浅く帝国主義悪質を曝露して居る現況であります。真に不甲斐なき次第であります。爾後更に堅き決意と真剣なる努力を以て認罪を遂行し中国人民の温き期待と配慮に報ひなければなりません。

5、私は中国人民に対し物質的精神的にも多大の罪行を犯しているものであります。無辜の人民を何等の理由もなく殺害し、平和なる家庭を紊し、幾代か住み慣れし住家を破壊放火して人民を雨露に晒し、血汗を流せる糧穀を掠奪し、耕作地を荒廃せしめ、国際公法に違反して毒瓦斯、細菌戦を使用せる等の悪虐なる罪行を実行せしめたものであります。之等の罪行は凡て日本帝国主義の侵略行為に依り行はれたるものでありまして、侵略戦争の残虐性と破壊性とを如実に表示するものであります。私は深く此の罪行の厳重なることゝ私の領導的立場の責任の重大なることを認識するものであります。私は自己の罪行の厳重性と責任の重大性なることに思いを致し、更に認識の向上と思想改善に努力し、其実践たる認罪を徹底的に実行すると共に一歩進め他人の検挙にも邁進し、以て帝国主義の罪行の凡てを世界に曝露し、戦争に反対し平和を守る人民運動に対する一助とし且つは日本民族独立運動を支援する一端と希ふものであります。之は又中国人民に曾ての私の罪行に対する陳謝の誠意でもあります。

 最後に私は私に斯かる罪行を犯さしめたる裕仁に対し、心よりの増恨と斗争を宣言せんとするものであります。


                                         藤 田  茂
                                 1954年8月1日 於撫順


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2014/09/10

日本人戦犯自筆供述書 第59師団師団長 藤田茂 N01

 先だって、中国は日本人戦犯裁判における旧日本軍軍人や旧満州国官吏たちの供述書をネット上に公開したことが伝えられた。その後、さらに「抗日戦勝記念日」を制定し、盧溝橋の「中国人民抗日戦争記念館」で献花式典を開いたという事実も報道された。習近平国家主席以下、中国共産党最高指導部の全メンバーが参列し、全国各地の政府や軍、学校などでも関連の集まりがあったという。日中関係の今後を考えると、大変なことであると思う。

 中国は、日本で勢いを増しつつある安倍自民党政権を中心とする歴史修正主義的な人たちの言動が受け入れがたいのだろうと思う。ここでは、「軍の関与と命令-戦犯の供述」(34)ですでに取り上げたことのある「第59師団師団長 藤田茂」の供述調書を、再度、その内容を追加して取り上げることにした。同じ「侵略の証言 中国における日本人戦犯自筆供述書」新井利男・藤原彰編(岩波書店)からの抜粋である。下記のような自筆供述書の記述を、中国関係者の「洗脳」や「マインドコントロール」によるものであり、事実ではないとして否定したり、無視してよいとは思えないからである。

 中国の指摘が全て正しいわけではないであろうが、「自虐史観から脱皮する教育を進める」という安倍自民党政権やその支持者の「歴史認識」には、明らかに問題があると思う。不都合な事実をなかったことにしようとする側面を見逃すことはできない。

 藤田茂師団長も、抗日軍兵士のみならず、多数の住民の殺害や情報収集のための拷問、住民を追い出しての住宅の占拠、糧食の掠奪を認めている。また、「兵を戦場に慣れしむる為には殺人が早い方法である。即ち度胸試しである。之には俘虜を使用すればよい。4月には初年兵が補充される予定であるからなるべく早く此機会を作って初年兵を戦場に慣れしめ強くしなければならない」」「此には銃殺より刺殺が効果的である」と捕虜の「刺突訓練」を指示したという。

 師団長のこうした供述が、中国による「洗脳」の結果であるとは思えない。「罪を認めれば寛大な処置が受けられ、罪を認めなければ厳しい処置を受けなければならない」というような中国の主張に屈服し、生きて日本に帰りたい一心で、軍のエリートである師団長が、やってもいない事実を認め、恥を晒して、罪のない配下の多数の日本の兵を残虐非道行為の実行者にするとは考えられない。師団長ともなれば、自らが事実を偽ると、配下の日本の兵のみならず、日本という国にも多大の影響があることを知らないわけはないであろう。そんなことまでして、師団長が敗戦国日本に生きて帰りたかったのかどうか…。

 また、藤田茂師団長のこうした供述を否定するのであれば、それなりの検証可能な文書資料を示したり、供述と矛盾する事実や証言を具体的に示す必要がある。気持ちは分からではないが、日本に不都合な事実を否定するため、中国による「洗脳」を持ち出す議論は、世界に通用しない。住民殺害や「刺突訓練」などについては、中国人はもちろん、中国には拘留されていない日本人の証言もある。  

 但し、文中の”ママ”と注のある「水迫め」は「水責め」に、「感念」は「観念」に、「強迫」は「脅迫」に、「所調」は「所謂」に改めた。また、「犯罪事実 (注1)」は、いずれも第20師団の騎兵第28聯隊長時代のもので、1938年末から1939年にかけてのものであるという。
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             第1章 日本軍は何をしたか
筆供自述                               第59師団師団長・陸軍中将 藤田茂

  犯罪事実(注1)

 (一)三路李村攻撃 私は11月5日史村に於て牛島師団長より次の命令をうけました。「騎兵第28聯隊は明11月6日三路李村(運城東北40K)附近にある抗日軍を攻撃すべし。砲兵2中隊を配属す」。私は此の命令に依り11月5日午後8時史村を出発し11月6日午前5時三路李村南方3K畑道を前進中射撃をうけました。私は全部徒歩展開三路李村中央南入口に向て攻撃し午前7時其北端に進出した時北方3Kの高地を北方に移動中の抗日軍約10を発見し直ちに砲兵中隊射撃を命じました。午前8時頃私は第1、第2中隊長に対し「第1中隊は三路李村の西半部、第2中隊は東半部の抗日軍を徹底的に捜索すべし」と命令しました。此命令に依り両中隊は午前10時に至る間捜索を実施しました。私は午前9時頃其東部に放火一件を三路李村に於て目撃しました。

 此の捜索に於て三路李村住民を多数屠殺しました。之の事実は11月6日史村に帰り入浴中私の当番兵南岡上等兵の「今日三路李村で随分人民を殺したそうです」の談話を聞きました。この談話と放火とに依り証明されます。
 
 之は私が午前8時の捜査命令で屠殺を実行したものであります。


 (二)~ (三) 略

 (四)情報の蒐集。私は12月中旬張良村に於て情報係森戸中尉に対して「三路李村附近にある八路軍の兵力及行動状況を偵知すべし」と命令しました。森戸中尉は12月中旬より1月下旬に亘り将校斥候の逮捕せる中国人民16(後記)自ら逮捕せる人民14、以上を尋問して情報を蒐集し1月30日私に次の報告をしました。「三路李村附近にある八路軍の根拠地は三路李村北方約10Kの高地帯で其兵力は約200名。又行動地域は張良村北方20K東西に流るる小流以北の地域であります」此情報は森戸中尉が12月中旬私から受けた命令に依り逮捕人民を尋問するに方り拷問し殺害して得たものであります。

 之の事実は私が1月中旬の昼食後張良村聯隊本部裏庭の小部屋で森戸中尉が逮捕人民1名を水責めの拷問実施中を目撃し又同日夕食事「今日水責めにした人民はどうしたか」と私は森戸中尉に対し問ひましたら森戸中尉は「殺して裏門外の古井戸に投げ入れました」と報告しましたことに依り逮捕人民1名以上を拷問殺害しことを証明するものであります。之は私が8月3日河津に於て森戸中尉に与えし指示及12月中旬私が森戸中尉に対する命令で拷問殺害をしたものであります。

 被害状況、中国人民30の逮捕、拷問及1名以上の殺人。


 (五)鉄道警戒間の射殺。私は12月29日張良村に於て岡中尉に対し「岡中尉は部下小隊を指揮し12月30日より1月5日迄張良村駅に位置し張良村駅東方3K鉄道橋より張良村駅西方12K鉄道橋に至る間の鉄道を警戒すべし」岡中尉は任務服務中1月3日午前2時頃約20名の抗日軍の張良村駅東方3K鉄道橋破壊中なるを発見し直に之を攻撃し南方に退避せしむ。
 被害状況、抗日軍戦士2戦場射殺。押収兵器、小銃2、爆薬80㎏、
        電気発火器1、十字鍬1


 (六)俘虜殺害の教育指示。私は1月中旬将校全員昼食後張良村で次の如く談話し教育しました。「兵を戦場に慣れしむる為には殺人が早い方法である。即ち度胸試しである。之には俘虜を使用すればよい。4月には初年兵が補充される予定であるからなるべく早く此機会を作って初年兵を戦場に慣れしめ強くしなければならない」「此には銃殺より刺殺が効果的である」此の教育は私の当時最も大なる誤れる観念で此観念が終始私が厳重なる中国人民に対する罪行を犯した基因の一をなしたものであります。

 (七)~(十一)略  

 (十二)住宅の侵佔。10月13日及11月22日の第20師団長の蟠居命令に依り史村に於て40日間張良村に於て181日間の宿営の為私は住宅各各20棟を侵佔しました。
 (十三)糧食の掠奪。10月13日の第20師団長の命令「糧食は主食は師団貨物廠より補給を受くべし其他は現地調果に依るべし」此命令に依り私は偽村長を脅迫し糧食を供出せしめ所謂「軍票」に依り不等価支払いをしました。之は掠奪と同様のものであります。
 史村張良村蟠居間の掠奪せる糧食は次の通りであります。(日数221日。人420。馬420として最低量をもって計算す)
 肉類18.6噸。野菜55.7噸。薪123.8噸。馬糧185.6噸。


 (十四)人民の使役。炊事、水汲み、入浴場雑役として史村及張良村蟠居間中国人民を1日15名延3515名を使役しました。

 (十五)掠奪・強姦。張良村蟠居間糧食の受領のため大行李を使用す。大行李の特務兵(50名)は運城─張良村の往復間に於て家財掠奪、強姦の行為あることは特務兵の年齢35才以上なること、大部素質不良なる大阪附近の出身なること、常時賭博を実施しあることは之を証明します。之は私の糧食運搬の日々命令に依り実行せしめたものであります。

 ・・・以下略


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2014/09/02

日本人戦犯自筆供述書 第117師団師団長 鈴木啓久

 下記は、「侵略の証言 中国における日本人戦犯自筆供述書」新井利男・藤原彰編(岩波書店)から、第117師団師団長・陸軍中将鈴木啓久の供述調書のごく一部、毒瓦斯攻撃や慰安所 設置の命令、「三光政策」に関わる命令などの記述が含まれている部分を抜粋したものである。

 第117師団師団長・陸軍中将鈴木啓久が拘留された中国の撫順戦犯管理所で、日本人戦犯が厚遇されたことはよく知られている。それは、周恩来を中心とする中国の、将来を見据えた戦犯政策によるものである。食糧不足にもかかわらず、食事内容では、主食は全員白米と小麦粉とし、日本民族の風俗習慣を尊重した献立にすることが指示された。さらに、戦犯の管理は厳重にするが、ひとりひとりの人格を尊重し、決して殴ったり罵ったり侮蔑したりしないことなどが職員に徹底されたという。そういう戦犯政策を、被害者である中国人職員に納得させることは容易ではなかったようである。

 厚遇され続けた撫順戦犯管理所の日本人戦犯たちに変化があらわれるのは、およそ半年ほど後である。どんな侮蔑的言葉を投げかけても、平然とした態度で、献身的に世話を続ける職員たちに、日本人戦犯たちは次第に心を動かされ、尊敬の念さえ抱くようになっていったというのである。そして、日中戦争中の自分たちの行為、中国人を差別し、侮蔑し、殴り、拷問を加え、殺した行為と重ね合わせ、胸が痛んだで自分たちの過ちを認め、心から謝罪する気持ちに変わっていったというのである。

 しかし、過ちを認め謝罪する気持ちになっても、ひとりひとりが自らの残虐行為や陵辱行為を、具体的に告白することは簡単なことではない。大変な勇気を必要とする。その罪行告白の突破口になったのが、全戦犯が集められた管理所の中庭で壇上に立った、元第39師団第232聯隊第1大隊中隊長・宮崎弘の「担白(タンパイ)(すべての罪をさらけ出し告白すること)」であったという。それは、

 「天皇を崇拝し、優秀な大和民族が大東亜共栄圏を建設して東洋の盟主となり、アジアを主導統治するのは当然のこと」、「三光政策を積極的に進めることが、忠君愛国の道、戦争勝利の道」だと信じて行動してきたが 振り返ってみると、自分は「初年兵教育の教官だったとき、模範を示すために十数名を刺突し」、「部落襲撃時には老人や子どもを銃剣で突き刺し」、「逃げ遅れた妊婦を裸にして殺し」、「村中に放火する」という残虐行為を繰り返してきたに過ぎなかった、と涙ながらに「担白」し、「わたしは人間の皮をかぶった鬼でした。今ここに中国人民に心からおわびし、このうえはいかなる処罰も受ける覚悟です」というような内容であった。

 その「担白」が戦犯の罪行告白の流れをつくり、それが次第に佐官や将官級にも及んでいったという。 

 そして、54年1月から、中国政府の戦犯に対する本格的な罪状調査が始まるのである。審問は決して強制せず、自白を尊重し、罪行は事実のみを正確に、拡大せず縮小もしないで記録することが重視されたとのことである。調査団は、中国各地の被害者や遺族の告訴状などをもとにした証拠を揃えながらも、戦犯自ら告白するまで、それらを突きつけて自白を迫ることは極力避けたという。
 尉官以下級の罪行が固められると、それをもとに佐官、将官級の罪行が追及されたので、それは網羅的で詳細である。

 また、供述書は、事件の日時や場所、人名、民家焼却数、掠奪物質、人民殺害の方法と人数、強姦、誘拐人数など、きわめて具体的で詳細であるが、それは、日本人戦犯がそれぞれ所属した師団、部隊、憲兵、警察、司法などでグループをつくり、繰り返し当時を思い出しながら語り合って、事実をつき合わせた結果であるという。

 1956年6~7月、瀋陽と太原で「最高人民法院特別軍事法廷」が開かれた。起訴されたのは45名。その判決に、死刑や無期刑の者はひとりもいなかった。最高が禁固20年で、それにはソ連での抑留5年と中国で戦犯として拘留された6年が算入され、ほとんどが満期前に釈放され帰国したのである(鈴木啓久も満期前の63年6月に釈放されている)。他の1016名は、不起訴即時釈放で帰国している。
 
 撫順と太原の戦犯管理所で、自らの罪行と向き合った多くの人びとは、帰国後、中国帰還者連絡会(略称:中帰連)を結成し、自分たちの罪行を語り伝えるとともに、「戦争反対」「日中友好」を訴え続けたが、そういう意味では、周恩来の戦犯政策に基づき、戦犯管理所が行ったことは、天皇制軍国主義に染まった日本人戦犯の再教育であり、人間性を呼び覚ます実践であったといえると思う。

 但し、中帰連の名簿に「鈴木啓久」の名前が見当たらず、後に、彼は”審問には不本意ながら同意せざるを得なかった部分がある”というような内容のことを言ったとされていることが、気になるところである。
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             第1章 日本軍は何をしたか
筆供自述
              第117師団師団長・陸軍中将 鈴木啓久

 第2 罪行


 4 歩兵第67聯隊長の時の罪行

 1940年8月、私は第15師団歩兵第67聯隊長として南京に侵入し、南京市及其の附近の警備並に南京蕪湖間鉄道一部の警備の任務を受けました。
 之れが為め私は一般方針として部下に指示しました。即ち「南京市は日本の中国侵略の中枢地であるからよく治安を保持し、警戒心を高め管内に於ける抗日勢力を徹底的に掃滅せねばならぬ。之れが為め常に積極的に行動し荀(イヤシ)くも間隙を与ふるが如きことあってはならぬ」
 (1)1940年8月下旬、南京北方六合附近の侵略作戦に参加し、同地北方約40粁(キロ)に於て某村落を占領して居った解放軍百余名を攻撃し、解放軍約20名を殺害し、又砲撃に依り中国人民家屋約10戸を破壊しました。又六合北方約30粁に在る中国人民村約200戸を、私は焼却を命令しました。

 (2)9月、私は師団長熊谷中将の実施せる宣城侵略作戦に参加しました時、宣城西方約40粁附近に於て、抗日国民党軍の旁系軍50名家屋内に退避せるを発見致しまして、私は第1大隊長角田少佐に毒瓦斯攻撃を命じ其の全員を惨殺致しました。

 (3)9月下旬、当塗東方約40粁に在る高淳に私が蟠居を命じた中隊が、抗日紅槍会団の反撃を受けましたとき、此の中隊が紅槍会員20名を殺害しました。

 (4) 1941年1月─2月間私は第11軍第17師団に臨時配属せられ軍司令官園部中将の指導せる漢口北方遂平、泌陽附近の侵略作戦に於てだ17師団長平林中将指揮の下に此の作戦に参加しました。
 本侵略作戦中、私は1月下旬、駐馬店西側に於て、抗日国民党旁系軍約100名が村落を占領しあるに対して包囲攻撃を行ひ、其の20名を殺害し、中国人民の家屋2戸を焼却しました。
 次で私は遂平を占領しありし抗日国民党軍を攻撃し、其の10名を殺害し、又私は西平に於て同地を占領しありし抗日国民党軍に対し一部を以て其の正面より、私自身は主力を以てその側面より包囲する如く攻撃し、抗日国民党軍30名を、又抗日国民党軍に属する愛国工作員1名を殺害し、重機関銃1を掠奪しました。此際砲撃等に依り中国人民の家屋5戸を焼却し10戸を破壊しました。

 2月上旬、泌陽平地東北角に於て、抗日国民党軍に属する後方部隊を発見し、私は、其の後方より攻撃を行ひ、機関砲弾薬十数箱、医療薬品数箱を掠奪しました。

 (5) 4月、私は第15歩兵団長赤鹿少将の実施せる襄安、盛家橋附近の侵略作戦に参加し、襄安に於ては抗日国民党軍の同地周辺を防御しあるを包囲攻撃し、抗日国民党軍10名を殺害し、軽機関銃2挺を掠奪し、盛家橋附近に於ては同地附近に在る抗日国民党に対し私は先づ第1大隊長角田少佐をしてその側面より攻撃せしめ、私自身は聯隊主力を指揮して第1大隊と連繋して包囲殲滅せんことを期しましたが、抗日国民党軍の大部は後退せる為め其の一部を攻撃し抗日国民党軍20名を殺害し、迫撃砲2門を掠奪しました。
 此の侵略作戦に於て中国人民の家畜、家禽数百を掠奪した。


 (6) 次で、抗日国民党軍の反撃に備へ、私は大隊長松尾少佐をして2中隊を指揮せしめ、盛家橋に蟠居(注1)せしめたるに対し5月下旬抗日国民党軍約500名反撃し来りしとき、同軍約10名を殺害しました。
 而して私は師団命令により主力を巣県に集結し淮南鉄道一部の警備に任ぜしめられました。

(7) 5月下旬、私は巣県東方和県附近に侵略行軍を実施しました時、抗日紅槍会団約300名を攻撃し、その40名を殺害しました。

 (8) 7月中旬、私に対し抗日国民党旁系軍劉工作を某は機関銃4を有する約1000名と共に帰順を申し出でて来ましたので私は之を許可し其の軍の原駐地たる巣県西方地区に於て反共工作を行ふ様命令しました。

 (9) 私は巣県に於て慰安所を設置することを副官堀尾少佐に命令して之を設置せしめ、中国人及朝鮮人婦女20名を誘拐して慰安婦となさしめました。

 (10) 7月下旬、日本財閥三井と南京に蟠居せる日本侵略軍司令官西尾大将の直接隷下に在る陸軍貨物廠とが結合して、巣県附近に於ける米を掠奪の為来りしとき、私は之を援助し集荷に助力し約100噸の米を掠奪せしめました。


 5 第27歩兵団長の時の罪行

 1941年10月、私は第27歩兵団長として天津に侵入し、間もなく滄県に蟠居し該地区の鉄道、交通路等の警備及同地区内の、治安維持をの任務を受けました。依って私は部下に対し次の如き指示を与へたのであります。
「治安維持とは当方面に於ては剿共を以って根元とするものである。剿共なくしては治安維持は達せられないのである故に、八路軍の情報を迅速確実に獲得する如くし、創意工夫を廻らし、積極的に討伐を実施すべきである」此の指示の意とする所は積極的に且つ凡有方法手段を竭(ツク)して八路軍及其の関係員を剿滅すべきことを示したのであります。

 当時私の指揮下に在るものは、天津に蟠居せる第2聯隊と、滄県に蟠居せる第3聯隊とを指揮しました。而して第2聯隊の2大隊は天津に、1大隊は其北方4粁の地点に蟠居せしめ、第3聯隊の1ヶ大隊は河間に、1ヶ大隊は滄県に、他の1ヶ大隊を棗強に蟠居せしめ各々地域を与えて八路軍の剿滅に努力せしめたのであります。
 (1)1941年11月下旬より12月上旬に亘り、私は第3聯隊の大部分と第2聯隊の一部とを指揮し、献県附近の八路軍に対し侵略討伐を実施し致しました。
 此の間私は各部隊をして密偵を使用せしめ、八路軍の工作員を逮捕する如く命じたる為、多くの村落に於て中国人民を逮捕し数十名拷問致しました。又此の行動間に於て家畜約百頭、野菜多量を掠奪しました。


 (2)11月下旬頃、私の平時の命令に基づき、棗強に蟠居せる第3聯隊第3大隊長小川少佐は、棗強南方地区に八路軍が活動中なりとの情報の下に直ちに出動、八路軍を攻撃して八路軍約10名をを殺害し、且つ約600戸ある村落を2個焼却し、此の時中国人民の農民100名を屠殺致しました。

 (3)12月中旬、私は第3聯隊の約1大隊半を直接指揮し、滄県東方戟門附近侵略作戦を行ひました。此の際行軍途上に於て八路軍の情報を得る為、中国人民を捕へ八路軍の情報を尋ねしときに情報を提供せざるの故を以て中国人民十数名を殴打拷問しました。

 (4)12月中旬頃、滄県に蟠居中の第3聯隊の一中隊は滄県西方地区に於て八路軍約100名が活動中なりとの情報を得、私の平素の命令により此の八路軍を攻撃し自転車を利用せる追撃戦を戦い行ひ、八路軍約10名を殺害し、小銃十数挺を掠奪しました。

 私は1941年12月下旬頃、第27師団長冨永中将の命令に依り唐山に移り第1聯隊と次いで増加し来たりし第3聯隊とを合わせ指揮し、兵力を2倍となし、唐山地区に於ける鉄道、交通路の警備及び治安維持の命令の下に華北侵略拠点の侵略の任務に服したのであります。


 本地区は八路軍の活動極めて活発であるのと、日本帝国主義者の華北侵略の為めの重要なる拠点であるので、私は部下に対し内容次の如き命令を下し、平素に於ける政策となしたのであります。即ち
「此の地区は日本の中国を侵略する基点となるのであるから、我々は此の地区を確保し得ると否とは日本の中国侵略を実現する為めに重大なる重大なる関係を持つのであるから、我々は凡有方法と手段を尽して此の仕事を完遂せねばならぬ。故に若し日本軍の意図に背くものあらば徹底的に覆滅し、又物資の如きはなし得る限り日本軍の掌握下に置かねばならぬ」
 右の命令によりて、最も惨酷なる「三光」政策を採用せるものでありまして、総てが此の命令を基礎とし、又其の目的を達成する為めには如何なる手段をも選ぶことがないのであります。

 又八路軍に対しましても、右の政策を根基として、大要次の如き方策を実行する様命令したのでああります。

(イ)八路軍は徹底的に殲滅すべし
(ロ)八路軍に属する愛国工作員、通信員、又は八路軍との通謀者は悉(コトゴト)く剿
  滅すべし
(ハ)反共自衛団は極力支援すべし
(ニ)反共教育を行ふものあらば極力支援すべし
(ホ)前記愛国工作員等を剿滅する為め必要に応じて徹底的に剔抉(テツケツ)粛清を
  実施すべし
(ヘ)八路軍を消滅する為め、又はその活動を阻害する為め、遮断壕及附属望楼を
  構築すべし
(ト)長城線附近2粁以内に於て八路軍の根拠地となり、又は八路軍の利用し得る
  所の住民を悉く追い払ひ、無住地帯となすべしとの北支方面軍司令官岡村寧
  次の命令を厳に実行すべし
(チ)日本侵略軍の蟠居地附近一帯の中国人民をして極力八路軍に反対せしめ、且
  つ八路軍の情報は自発的に日本侵略軍に提供せしむる如く指導すべし
(リ)偽軍、偽県警備隊を指導支援し、又督励して八路軍の活動を妨害せしむべし
 
 私は唐山に侵入するや直ちに各隊を巡視して、此の政策の実施を督励し、且つ聯隊本部の蟠居地を指定し、且つ各聯隊の警備担任地域を示したのであります。

 ・・・(以下略)

蟠居:(バンキョ)占拠のこと。広い土地を占領し勢力を張るという意味で、中国共産党側が日本軍に対して使用した。 
剿共:(ソウキョウ)共産党や共産軍の勢力を滅ぼしつくすこと。日本軍側の用語
 


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2014/08/27

日本人戦犯自筆供述書 元満州国総務庁次長 古海忠之

 もうすでに、戦後69年が経過したのに、中国が日本人戦犯裁判における旧日本軍軍人や旧満州国官吏たちの供述書をネット上に公開した。(http://61.135.203.68/rbzf/index.htm)
  1950年代半ばに、中国戦犯管理所において、日本の軍人や官吏たちが自らの罪を認め記したものである。今頃その供述書を公開するのは、最近の日本の動きに対応するものであろうと思う。
      
  先ごろ日本は、領有権をめぐって議論のある尖閣諸島を、日中の「棚上げ合意」を無視するかたちで国有化した。
  また、近隣諸国が問題視し、国連事務総長さえ
「過去に関する緊張が、今も(北東アジアの)地域を苦悩させていることは非常に遺憾だ」との声明を発表しているにもかかわらず、A級戦犯が合祀された靖国神社に首相や閣僚、国会議員などが公然と参拝を繰り返している。
  さらに、日米同盟強化を掲げるのみならず、集団的自衛権行使容認の閣議決定をした。
  中国は、こうした日本の動きが受け入れ難いのであろうと思う。
  それにしても、供述書のネット上への公開は、考えさせられる。なぜなら、戦時中の数々の事実が、単なる過去の歴史としてではなく、恐怖や憎しみを伴った 体験として、追体験するかたちで、再び広く認識されることになれば、日中の溝はますます深まり、埋めることが一層難しくなると思うからである。また、ネッ ト上に公開されたことで、国際社会における日本の評価にも影響するのではないか思う。
      
  日本が近隣諸国はもちろん、国際社会に平和主義の国家として受け入れられるためには、戦時中の加害の事実を含めた正しい歴史認識が欠かせないと思う。過去との向き合い方では、ドイツを見習うべきであろう。
       
  日本が、秘かに国際法に違反する阿片政策を進めていたことは、すでに、
「日本の阿片戦略-隠された国家犯罪」倉橋正直(共栄書房)や「証言 日中アヘン戦争」江口圭一(編)及川勝三/丹羽郁也(岩波ブックレットNO.215)「続・現代史資料(12)阿片問題」(みすず書房)な どの文章の一部抜粋で紹介した(それらは、次のように題している。「戦争期の日本の国家犯罪”阿片政策”」「日本の麻薬取扱業者とモルヒネ蔓延の状況」 「朝鮮における巧妙な阿片・モルヒネ政策」「海南島でアヘン生産-日本の密かな国策」「「阿片王」里見甫(里見機関)と関東軍軍事機密費」「日本の阿片政 策と日本非難の国際世論」「日中戦争の秘密兵器=麻薬」「日中戦争の秘密兵器=麻薬 NO2」「田中隆吉尋問調書-阿片・麻薬売買と軍事機密費」「田中隆 吉尋問調書と阿片・麻薬問題 NO2」)。
      
 
「日本軍閥暗闘史」(中公文庫)では、関東軍参謀や陸軍省兵務課長・同局長など、長く軍の要職にあり、自身様々な謀略工作に直接関わった軍人「田中隆吉」が、自ら多額の機密費が阿片・麻薬売買から生み出されたことを指摘し、かつ「私はこの機密費の撒布が極めて大なる効果を挙げたことを拒み得ない。東条内閣に至っては半ば公然とこの機密費をバラ撒いた 。…」などと、軍の機密費が、「日本の針路を左右」するものであったと記していることも紹介した。
      
  そうしたことが単なる憶測ではないことは、下記の供述書の抜粋からも分かる。ここでは、
「侵略の証言 中国における日本人戦犯自筆供述書」新井利男・藤原彰編(岩波書店)から、今回供述書がネット上に公開された中のひとりである元満州国総務庁次長「古海忠之」の、満州国における「阿片政策」に関する文章の一部を抜粋した。出だしの文章が衝撃的であるが、様々な情報を総合的に考えると、否定し難い事実の証言であろう。
      
  なお、「阿片」が「亜片」という表記になっているが、そのまま「亜片」で通した。また、漢字のすぐ後にある( )内の片仮名は、同書でつけられている読み仮名である。
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            満州国亜片(阿片)政策に関する陳述
                                                  古海忠之
      
       阿片専売制の概要
      
  人類乃至(ナイシ)民族の身心弱廃より、延(ヒ)いてはその衰亡を齎(モタラ)す以外の何物にも非ざる亜片吸飲を許容、維持、又は助長するは、其の本質 に於て既に犯罪である。然れども、帝国主義的侵略に於ては、亜片政策の採用は最も必要なる常套手段にして、法律、制度などに依りて粉飾合理化せられ、被侵 略者の衰亡を培ひて自己の目的を確保すると共に、有力なる財政収入を挙ぐる副目的をさえ達し得るのである。
      
  満州国に於ては、1933年2月、関東軍が亜片産地たる熱河省を侵攻すると同時に、亜片政策は財政収入確保の緊急必要を理由として、早くも採用せられる ことになった。斯くて中国人民に対する犯罪が開始されることになったのである。小生も、満州国官吏として各職務に応じて之に関係し、一役を演ずる人物とな つたことは当然であつて、其の顛末の概要は次の如くである。
      
  1933年2月、関東軍が熱河に対し軍事行動を開始する以前に於て、既に関東軍に於て亜片政策に関する研究に着手し、関東軍主(首)脳者参謀長小磯国 昭、参謀副長岡村寧次、第3課長原田熊吉と総務長官代理阪谷希一、及び財務部総務司長星野直樹の間に於て、亜片政策に関する根本方針が確定され居たること は明瞭である。2月初旬、星野直樹は、主計処長松田令輔、特別会計科長毛利英菸兎(ヒデオト)、及一般会計科長たりし小生に対し「亜片専売を実施するの だが、専売の日系主(ママ)脳者としては誰が良からうか?」との相談を受けた事実がある。帝国主義的意識の持ち主であつた我々は、無論亜片専売に異議があ る筈もなく、結局現地には適任者見当たらず、難波経一(当時神戸税務署長)を招致することに決し、難波経一は2月下旬、新京に赴任し、亜片専売の疇備 (チュウビ:準備)に当たることになった。当時一番問題となったのは、専売の対照(ママ)たる亜片であった。熱河亜片は未だ入手の由なく、国内他地域参 品も唐突の際、入手極めて困難であって、結局厳密裡に難波経一を天津に派遣して北支方面の亜片を買集めしめ、一方外国亜片の輸入に依るの非道なる処置を取 つたのである。国外より亜片を輸入すれば、少なくとも其限度に於て亜片吸飲者を増加し、害毒を助長することは自明の理であるが、斯ることは固より意に介し なかった。

      
   
(此問題は、絶対厳秘に附せられてゐた。私は難波経一より亜片専売開設の苦心談として内証で聞 かされたものであり、其時期は当時私が錦州出張中(3月中旬──6月中旬迄)であつたのだから、3月末熱河民食問題で新京に帰った時か、6月中旬以降であ るか不明確である。難波は月余に亘り天津に在りて、約50万両の亜片を入手し、国内集荷の約20万両と合し、70万両の手持ちを以て亜片専売を開始した。 外国輸入亜片は「ペルシャ亜片であって、三井物産の手を経、約200万両(記憶明確ならず)であつて、其の価格は運賃込1両4元見当であつた。之等の事は 星野直樹、難波経一の責任に属する。外国亜片は爾後購入したことはなく、専ら熱河省を中心とする国内亜片に依つて専売は運営された)
      
  3月中旬、全満の亜片栽培を禁止し、亜片の栽培は熱河省に限定する方針を決定し、亜片栽培の許可制、販売許可制、国家の完全収買等を内容とする専売法が 実施せられた。亜片の栽培を熱河省に限定したのは、主として治安維持、及び取締上の関係であつたと言ふ。尚一方、熱河省に於ける亜片栽培助長の措置が講ぜ られた。此時以来、熱河省の亜片中心産業経済といふ其の畸形と罪悪性、従って思想的及肉体的堕落の維持乃至は助長が約束され、運命づけられる不幸に陥っ た。
      

   
(3月下旬、小生錦州在勤中、財政部税務司長源田松三が「全満他地域の亜片栽培を禁止し、熱河 省のみに之を許すことに政府で決定したから栽培に努めよ。但し亜片は全部政府に売渡し、之に違反するものは処罰さるべし」と言ふ趣旨の財政部名の伝単を提 へて錦州に来たり飛行機にて之を熱河省に撒布した事実あり)
      
  専売法に基き財政的処置が採られ、専売特別会計設置を見、専売特別会計予算(1933年4月──6月末迄)が成立し、専売所官制が発布になつたのは4月 と思惟す。機構は署長(満)副署長(難波経一)の下に総務科、収納科、販売科、製造科、緝私(チュウシ:取締)科を本署とし、地方に専売支所(奉天、吉 林、哈爾浜(ハルピン)、斉々哈爾(チチハル)、承徳)及び煙膏製造所(奉天)等が設置された。多数の緝私員(密売取締員)を置いたことは固よりであ る。

      
 
最初3ヶ月、予算は金額等全然承知しないが、1933年7月──1934年6月に到る専売特別会計予算は、大約700万円、専売益金の一般会計の繰入は370万円見当、其の当時の総予算の3分見当である。
   (この予算は、主計処長松田令輔、特別会計科長毛里英菸兎に依つて編成せられ、私も一般会計科長として相談に与り、署内会議には列席した)
      
  斯くして専売制度の下に満州国の亜片政策は推進された。専売当時は栽培許可制を採ってゐたとは言へ、それは単に取締上の事に過ぎず、作付け面積の指定の 如きは勿論なく、多多益々弁ずる状態であつた。専売署の収買量は逐年増加し、250万両程度から始まつて600万両を越すに到つた。それに比例して専売益 金は次第に増加し、300余万円が4千万円を越すに到つた。亜片の栽培面積が増加して、産量が上がつた事は言ふ迄もない。亜片に附物の密売買を含めば、莫 大な量に上つた。之に応じ、国民身心の弱廃虚脱を通じて反日本帝国主義的勢力の弱化を、財政収入の増加と言ふ商品附きで亜片専売は遺憾なくは収得していた のである。

      
 
此の制度には、尚見下し得ない他の一面を持つて居る。満州国専売署に於ては、亜片の収買に就 て官庁が直接収買に当たる制度を採らず、収買人制度を採用した。即ち地域を分かち、各地区毎に若干名の元受収買人を置き、其責任の下に多数の収買人を使用 して、直接農民から亜片を収買すると云ふ制度である。そして元受収買人は、一定資格を有する者から専売署が指定するのである。専売署は年毎に品質に基づく 等級別価格(上中下三階級と記憶す)を元受収買人に示して収買せしめ、主として承徳の専売支所に納入せしめる。この元受収買人は、一度専売本署から指定を 受けるや否や、特権者となり、農民に当たるわけであつて、茲に農民より搾取、又は欺瞞其他その種々の不正が叢生し、又は私腹を肥やして巨富を致す余地が多 分に存在する。官吏又は緝私員との間に発生した不正も相当件数に上ることは、難波副署長が「警察へ行くのも俺の仕事の一つだよ」と私に嘆じたことが、之を 証明してゐる。
      
   (亜片の収買価格は初期の頃は平均価格(予算に掲(ママ)上した)は1円50銭であり、中期には8円であり、売下価格は初期3円程度、中期には平均15円であった。後数次に亘り共に引き上げた記憶あり。特に売下価格に於いて其比率は多かつた。)

      
 
販売制度に就て之を見れば、全満を地区に分ち、各地区毎に元売捌人(モトウリサバキニン) が居り、此の元売捌人から区内の各零売所に売下げ小売するといふ制度で、元売捌人は、専売本署が一定条件具有者中から指定し、一定金額(取扱数量に応じ た)の担保を取つて営業せしめ、零売署は、専売支所が申請に基き許可する仕組である。之こそ一度指定又は許可を得れば、忽ち不労所得にありつく確実な特権 者たるを得るのであつて、此等収買及び販売組織を巡つて帝国主義者の手先どもが暗躍し、不浄の金で肥え太つたことは想像に難からずである。
      
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2014/08/16

ベトナム 200万人「餓死」とキムソン村襲撃事件

 1945年3月9日、日本軍はそれまで共同支配者であったフランスを排除し、インドシナ全域を日本の単独支配下においた(仏印処理)。そして日本軍は親日団体である大越(ダイヴェト)に村長や地主など村の上層部を組織し、米の供出などの対日協力を要請した。しかしながら、農村地帯にはこうした親日組織と対立するベトミン系の組織があった。そして、米の供出などを拒否する運動をした。時には、日本軍の米倉庫を襲い、米を分配したり、供出米を輸送している船を襲撃したりもしたという。キムソン村襲撃事件は、日本の軍政に抵抗するそうした組織を潰すために計画されたのである。
 
 「ベトナムの日本軍 ─キムソン村襲撃事件─」吉沢 南(岩波ブックレットNO.310)によると、キムソン村の亭(デイン)〔村落共同体の真ん中にある重要な建物で集会場などとして使われる〕の一部は、キムソン村襲撃事件の展示室になっており、そこには、「日本軍の進撃コースを示す地図、日本兵を迎え撃ったキムソン村の活動をキャンパスに描いた絵(8点)、爆撃による村の人的・物的被害の一覧、抗日烈士名簿、反日武装・経済闘争に関する日誌、村人が使った武器(銃、刀剣など)」が展示されているという。キムソン村の人びと以外ほとんど見ることのないこの展示は、日本兵の襲撃事件がこの村にきわめて大きな事件であったことを示しているというわけである。

 また、日本軍政下の1944年11月から45年4月までの期間に、キムソン村近隣一帯で、村自警団の集会やデモが6件、米供出拒否など経済闘争が17件があったという。さらに、村自警団が連合して日本軍の米倉庫を襲ったり、供出米を輸送している船を襲撃したりもしたというのである。現ドーソン県庁近くのクニャン河で、運搬船を襲撃して米を没収した出来事は、今でもこの地方の誇りとして伝えられ、絵にも残されているという(その絵の写真が、同書30ページに掲載されている)。

 それは、ベトナム200万人餓死問題に日本の軍政が深く関わっていることを示しているといえる。日本軍政下におけるベトナム200万人餓死の問題で「当時ベトナムにいた1万人の日本兵が、200万人分の米を食べらるわけがない、ベトミンンの政治的な宣伝である」とか「…日本軍が配置したのは一個師団、約2万5千人です。2万5千人増加した為、200万人の人々が餓死するということはありません」というような主張が、どのような根拠に基づくものか、と気になって、いろいろ調べていたら、「教科書が教えない歴史 自由主義史観研究会(代表 藤岡信勝)公式サイト」「特集 ベトナム独立宣言文」と題さ れたページ
(http://www.jiyuushikan.org/tokushu/tokushu_e_9.html)に

ベトナム独立宣言文の中に、「日本軍が北ベトナムに進駐したことにより、200万人の餓死者を出した」と日本を非難しています。そのような事実があったのですか?

という質問に答えるかたちで、

我々は200万人の死者が真実か否かは分かりません。しかし日本軍が配置したのは一個師団、約2万5千人です。2万5千人増加した為、200万人の人々が餓死するということはありません。200万人の餓死者は台風や洪水、米軍の交通手段の破壊によるものです。

と、日本の責任を回避しつつ、むしろ米軍に責任を転嫁するかのような記述があった。当時ベトナムで米などを作っていた農民が多数餓死しているのに、日本兵が餓死したという話は聞かない。日本軍は、決戦に備えて2年分の米を備蓄していたという話がある。また、当時の仏印は、南方領域に対する割当20万人の兵站補給基地として、他の戦線への「補給用」も求められていたという。さらに、大戦末期にはほとんど輸送できなかったようであるが、日本への輸出用も確保されていたともいう。著名な研究者が、この問題で仏印駐留部隊用の米以外を考慮することなく、「米軍の交通手段の破壊によるものです」などと主張されることは、なんとも不思議である。

 上記の、村自警団が連合して日本軍の米倉庫を襲い、打ち壊して「米を分配した」という話や、「供出米を輸送している船を襲撃して米を没収した」という話が伝えられている事実をどのように考えるのだろうか、と思うのである。
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              キムソン村襲撃事件の真相

 1945年8月4日にキムソン村とその周辺で起こった事件の概要は、ほぼ以上のようなものである。
 襲撃された側の被害について、まとめておこう。まず人的被害であるが、キムソン村の集落内で戦って死んだ者2名、焼死させられた老人1人(70歳)、待伏せ・追撃戦で死んだ他村の自警団員12人、ミンタン村の行方不明者6人、を数える。物的被害については、キムソン村の亭(デイン)〔村落共同体の真ん中にある重要な建物で集会場などとして使われる〕のパネルに具体的な数字が挙げられている。焼かれた家42戸、焼かれた籾40カゴ(1カゴにはだいたい20~25キログラムの籾が入る)、殺された水牛2頭、その他の物的被害総額は2万ピアストル。2万ピアストルがインフレの激しい当時どのくらいの価値に相当するのか適切な事例を示せないが、参考のために記しておく。

 5,60人の兵力による計画的な襲撃事件であることを考えると、この被害が大きいとは言えないだろう。特に、300人以上の村人が留まっていたキムソン村の被害については、最小限に食いとめられたと言ってよい。常時の村人口の約半数に当たる子どもや年寄りを他村に避難させたのは、適切な措置であったろう。その上、村内に残った者たちが、武器弾薬の面できわめて劣悪な状態にありながら、村自警団とその援助隊に組織され、訓練されていたことが、日本軍の長時間にわたる作戦を許さなかった大きな要因であった。
 したがってキムソン村の人びとは、日本軍によって襲撃され、被害をこうむったという側面だけでなく、その襲撃に抵抗して撃退したという側面についても、展示や話の中で強調したのである。

 日本軍のキムソン村襲撃で特徴的なのは、ベトナム独立同盟(ベトミン)系の農民運動を軍事行動の直接の対象とした点である。日本はインドシナの民衆
を基地や道路の建設に狩出したり、農民から米などの食糧を取り上げるなど、戦争遂行のために搾取と収奪を強化した。インドシナは一般的に、他の東南ア
ジア地域や太平洋諸島のように、兵士の死体が累積する戦場にはならず、比較的静かな状態を維持していた。ところが、1945年3月9日の「仏印処理」の前後
になると、日本・フランス間の武力抗争は激しくなり、また連合国の航空機による都市部への空襲も頻発した。また、共同支配者であったフランスを蹴落と
して唯一の支配者となった日本は、ベトミンを中心とする反日的な民族独立運動との対立を決定的なものとした。

 日本は、一方では、保大(パオダイ)皇帝を担ぎ出して、「独立」を付与し、知識人チャン・チョン・キム(Tran Trong Kim)に親日的な「傀儡内閣」を組織させた。こうすることによって、ベトナム・ナショナリズムの高まるうねりを分裂させようとしたのである。他方で日本は、独立運動の中核として民衆の支持を獲得しつつあったベトミンに対して軍事的弾圧で臨んだのである。しかも、ベトミン系の運動を弾圧するために、日本は、「傀儡政府」の武装部隊を育成し、その組織を弾圧の実行部隊として使ったのである。キムソン村襲撃事件は、インドシナ支配の末期段階における日本が、弱体化したがゆえに編み出した手の込んだ支配のからくりをよく示してくれているのである。


 すでに述べたように、キムソン村襲劇では、その実行部隊となったのが5,60名の保安(パオアン)兵で、数名の日本軍人が彼らを指揮していた。こうした編成の部隊を何というべきであろうか。「傀儡軍」と片付けられないのはもちろんであるが、日本兵と「傀儡兵」との混成部隊とするのも、日本軍の決定的な役割をあまりにも軽視していて適切な表現ではない。この武装組織は、日本が組織した一種の「植民地軍」ないしは「準植民地軍」というべきものであろう。
天皇の軍隊として「日本人」純血主義を頑固に守っていた日本軍は、兵員不足という現実によって、戦争の末期にいたってはじめてその原則に手をつけざるをえなかった。植民地に対する徴兵令の施行による朝鮮系・台湾系の「日本軍人」の誕生がその典型であるが、東南アジアの各地で急遽組織された「兵補」や「義勇兵」「保安(パオアン)兵」などもそうした政策の一つであった。

 本稿ではこうした歴史的意味を踏まえた上で「日本軍」「日本兵」と表現した。しかしなお微妙な問題が落ちてしまう危険性があるので、補足しておきたい。キムソン村の人びとは、日本軍の襲来の情報を事前に掴んでいた。その情報源は実はキエンアンに組織されていた保安兵からであったという。保安兵の徴募方法については分からないことが多いが、キムソン村で聞いた限りでは、日本軍が地主や村長など村の有力者たち(多くの場合、親日団体である大越(ダイヴェ゙ト)組織にされていた)に保安兵の人数を割り当てると、地主や村長たちが時には強制的に、時には温情主義的な勧誘によって、村の若者たちを選んで差出すシステムになっていたという。ドンさんたちは「兵士狩り」という表現を使っていたが、これが実態であったろう。


 こうしてかき集められた保安兵が簡単に「日本兵」化されなかったのは当然で、彼らから情報がベトミン側に流れても不思議はなかった。すでに詳しく見たように、キムソン村襲撃はやや中途半端に終わったが、日本軍の、こうした編成上の特徴に、一つの原因があったかもしれない。5,60人の保安兵に対して、数人の日本人軍人(高田さんの記憶によれば、指揮官は20歳代の少尉だった)、配属された一人の憲兵(つまり高田さん)という編成からすると、正門に据えられた機関銃はキムソン村の内部に向けられていたのだが、同時に、保安兵に背後から睨みをきかしていたとも考えられるのである。


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