2014/07/22

日本軍政下 ベトナム"200万人"餓死 5

 日本軍政下におけるベトナムで、”200万人”の餓死者が出たという話は、ベトナム独立同盟(ベトミン)が、8月の一斉蜂起で独立を果たし、ベトナム民主共和国を成立させたその日(1945年9月2日)、独立式典でホー・チ・ミンが読み上げた「独立宣言」の中に出てくる。下記の一節である。

・・・1940年秋、日本ファシストが連合国攻撃のための基地を拡大しようとインドシナに侵略すると、フランス植民地主義者は膝を屈して降伏し、わが国の門戸を開いて日本を引き入れた。このときから、わが人民はフランスと日本の二重のくびきのもとに置かれた。このときから、わが人民はますます苦しくなり、貧窮化した。その結果、昨年末から今年はじめにかけて、クアンチからバックボにいたるまで200万人以上の同胞が餓死した。・・・”

この「独立宣言」の内容に関して、

ハノイ人民幹部が「政治宣伝だった」と認めた

として、当時の日本軍に責任はないとしたり、またその責任を過小評価したりするような主張が、いろいろなところでなされている。しかし、「日本軍政下ベトナム"200万人"餓死」の1~4ですでに取り上げたように、日本人自身による多くの餓死者の目撃証言や、日本軍のコメ(モミ)の強制買い付けの問題、黄麻強制栽培の問題その他を具体的に検証すれば、それほど簡単に責任逃れができる問題ではないことがわかる。

「ベトナム”200万人”餓死の記録 1945年日本軍政下で」早乙女勝元(大月書店)にも、一部が引用されているが、「証言する民 十年後のベトナム戦争」大石芳野(講談社)の、下記のような、地元住民に対する聞き取りによって集められた証言も無視することはできない。”ハノイ人民幹部が「政治宣伝だった」と認めた”として、名前も役職名も経歴も分からない「ハノイ人民幹部」の一言で、数々の証言をすべてをひっくり返せるものかどうか、冷静に考える必要があると思う。
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                第8章 「北」の人々

           ── 旧日本軍・抗仏・北爆の四十年 ──

恐怖の旧日本軍「麻作戦」

 東南アジアの国々を旅すると、どこでも人なつこい笑顔で歓迎される。だが、親しくなるにつれて「日本軍に父が……親類が……故郷の人が……」、といった話になる。
 ハノイの南東にあるタイビン省へ行った時に、人民委員会の副議長ブバン・ハンさんに日本軍の話をぶつけてみた。彼は初めいささか驚いたような表情をして私をじっと見つめていたが、深く吸い込んだ息をゆっくりと吐いて、40年前のことを思い出すように話し始めた。


「当時、省の人口は約100万人のほぼ三分の一弱にあたる28万人が日本軍の『作戦』によって命を落としました。最大の理由は、収穫寸前の稲を引き抜かせて麻を植えさせられたことにあったのです。小作農はもちろんのこと、地主にとっても、収穫直前の米蔵は空っぽでした。10日待ってくれれば、収穫を終え、田を耕し直して麻を植えることもできたのです。私たち農民は日本軍に懇願しました。けれど、聞き入れてもらえず、強制的に刈り取らされたのです。その結果、貯えのなかった小作農たちから先に飢えて倒れていきました。水害も加わり、弱った体に伝染病がみるみる広がっていったのです。全滅した家族もたくさんありました。亡くなった家族、友人の遺体を埋めながら、次は自分だ、自分は誰が埋めてくれるのだろうか……そんな想いでした。まだ元気のあった人が、馬車で遺体を集めてはまとめて空き地に埋めました。小さな家に子どもたちが飢えて泣いていたけれど、その子たちも翌朝には息たえていました。冷たくなった母親の乳房に吸いついたきりの赤ん坊……。着る物、調度品は次々に売って食べ物に換えていったのでとうとう裸同然で歩いていました。私の長女は5歳だったけれど、米ヌカでやっと生き残りました。でも、赤ん坊は死んでしまいました」

 タンホー村へ行ったとき、農婦ブー・ティ・クイットさん(59歳)の家を訪ねた。彼女の家はレンガ建てだ。きれいに掃除された庭の隅に井戸が掘ってあり、炊事場のレンガの小屋には食器、鍋などがきちんと並べられてあった。73年に草葺屋根の家から立て直した。クイットさんのこの庭を囲むようにして、すぐ横に3人の息子がそれぞれの家を建てた。彼女は若い人たちに農業技術の指導をしている。最近では1ヘクタールにつき11トンの米が収穫できるようになったという。
 彼女に日本軍のことを尋ねると、やはり少しとまどっていたが、こう話した。
「日本軍は村人の倉庫から残り少ない米を港に集めて出荷したんですよ。何でも南方の仲間に送るんだそうでした。一度に運び切れないで残った米から芽が出はじめて。飢えた子供が、手づかみでとろうとしてひどく殴られましたね。
 痩せた土地が多い北部では収穫もぎりぎりなんですよ。生きるための米をとりあげられ、実る前の稲穂を刈られて、これじゃ死ね、ということですよ」


 同じタンホー村の農夫グエン・ヒ・トゥさん(69歳)は、貧しい農民だった。そこに突如「麻作戦」がとられてトゥさん一家はどん底へ追いやられた。
 「『共産主義者はどこだといって乱暴しましたよ。私は違いましたがこの村にいて救われる道はないと思い、弟を連れてハノイから70キロの高地バクヤンに働きに出ました。その直後、飢えた家族が次々に死んで全滅したことを知りました。が、私と弟は帰るに帰れませんでした。46年にフランスとの戦いが勃発したので急いで村へ帰り、民兵となったのです』
 彼は44歳でやっと結婚ができるゆとりができた。だが、一人息子が4歳の時、妻に病死されてしまい、そのまま再婚もしないで今日に至っている。
「妻のことが忘れられなかったのと、息子のことを考えても母親を覚えさせておきたかった。幼かったから、生みの親より育ての親の記憶がはっきりしてしまうと思いましたから」
と、トゥさんはいった。ベトナムでは、男性も女性も再婚しない人が多い。そのことを表したことわざがある。
「雄の鶏が雛を育てる」
それほど男ヤモメは多いのだという。


 日本軍に、「共産主義者」と名指しされて捜索されたという一人ドーバン・クーさん(72歳)に会うことができた。クーさんはベトナム人としてはやや大柄で、健康そうに見える。穏やかな笑顔を浮かべながら、部屋に案内してくれた。2つのベッドにはゴザが敷いてあり、テーブルと椅子がきちんと置いてあった。ベッドの後ろの壁には竹製スダレに描かれた花柄の絵が飾ってあった。
「村人の知らせですぐ逃げました。しばらくして戻ってみると、村長の家に日本兵がいて彼らは大声でどなっていました。日本軍には通訳がいなかったため、手まねで『豚を食べたい』とか、共産主義のマークを示して『連れて来い』とか、『麻を植えろ』などと命令してました。思うようにならないと『家に火をつけるぞ』と脅迫し乱暴を加えていました。郡長は日本軍に○○ドノといって、ペコペコでしたね。
『決められた面積に麻を植えなければ、村全体を焼き打ちにする』、といわれたので、仕方なく稲を抜いて全体の三分の一を麻畑にしました。でもその結果、タンホー村だけでも飢えで少なくとも1300人が亡くなりました」
と、クーさんは話した。そこへ妻のリンさん(73歳)が茹でたての黄色いトウモロコシを大ざるに盛って持ってきてくれた。香ばしさに誘われて1本とって丸かじりした。クーさんはニコニコしながら
「あなたは横笛を吹きましたね」
といった。トウモロコシを横にして食べる姿は、ちょうど笛を吹いているようだ、と人びとは詩的に表現している。
 別れ際にクーさんは私の手をとりながら、
「この村にきた日本軍の兵士も、普通の平民だったのでしょう。それが兵士としてベトナムに送り込まれて野蛮な行動をとらされた。これは日本軍国主義者がそうさせたので、一般の人びとはお互いに兄弟です。これが私たちの本当の気持ちですよ」
と、柔らかい眼差しでいった。


 ベンフン村のグエン・ティ・メンさん(60歳)は幼い孫の相手をしながら、
「あのころのことは忘れましたよ」
といって、話そうとしなかった。けれど、
「この前、村に養蚕のことで数人の日本男性が来ました。その時、子供たちは『日本軍と同じようにひどいことをするかもしれないね』と、話していたんですよ。夫は驚いて、子供たちに『あれは日本の軍国主義者のしたことで、一般の日本人はそんなことはしないよ』と教えていましたね」
とだけいった。

 ベトナムが日本軍に占領されたのは45年の5ヶ月間だったが、駐留は5年間にも及んでいた。日本軍はほかの東南アジアや南洋諸島の地域にいる仲間の食糧を補うために、ベトナムが収穫した米を運び出した。そのため村人は飢えた。しかも、日本軍を狙った連合軍の攻撃が激しくなり、南部からの米が北部へ送れなくなっていった。そこに悪天候による不作。さらに追い打ちをかけたのが、「麻作戦」だった。



http://www15.ocn.ne.jp/~hide20/"に投稿記事一覧表および一覧表とリンクさせた記事全文があります。一部漢数字をアラビア数字に変えたり、読点を省略または追加したりしています。また、ところどころに空行を挿入しています。青字が書名や抜粋部分です。「・・・」は省略をあらわします。

2014/07/18

日本軍政下 ベトナム「200万人」餓死 4

 安倍首相の独裁的ともいえる集団的自衛権の閣議決定その他を受け、内外で、その背景にある歴史修正主義的な考え方を含めて、今まで以上に、日本の政権に対する批判の声が高まっている。周辺国の政権関係者も日本に対して「歴史修正主義」と言う言葉を公然と使うようになった。
 そして、私自信も、戦争体験者の減少に合わせるように、「歴史修正主義」的な考え方が、日本国内で広がり、深まっていることを、いろいろな場面で感じるようになった。

 日本軍政下におけるベトナムの200万人餓死をめぐる問題でも、事実を正しく検証することなく、日本の軍政を正当化しようとする主張が目立つ。確かに”200万”という数字は概数で、正確なものではない。また、それが日本軍だけの責任でないということも事実であろう。
 しかし、、「当時ベトナムにいた1万人の日本兵が、200万人分の米を食べらわけがない、ベトミンンの政治的な宣伝である」とか「日本軍が配置したのは一個師団、約2万5000人です。2万5000人増加した為、200万人の人々が餓死するということはありません」などといって、責任逃れのできるような問題でないことも確かであると思う。

 タイビン省では、1944年におよそ103万人だった人口が、独立後には75万人に減っていたということや、下記に抜粋したような個別の事実を、総合的に考えると、日本軍政下で、200万人近い餓死者が出たことを否定することは難しい。

 「ベトナム”200万人”餓死の記録 1945年日本軍政下で」(大月書店)の著者、早乙女勝元氏も、200万人餓死の原因として、①天候不順による凶作 ②南からのコメの輸送停止、③ジュートなどへの転作の強要、④日本とフランスによるコメの強制買い付け、の4つをあげ、それらが複合的に影響しあったため、多数の餓死者を出すことになったといっているのである。

 さらに言えば、当時ベトナム北部に駐留していた元日本兵の「その頃、師団は決戦に備えて2年分の食糧を確保していたそうです」というような証言があり、また、ベトナム女性の「日本軍は村人の倉庫から残り少ない米を港に集めて出荷したんですよ。何でも南方の仲間に送るんだそうでした。… 痩せた土地が多い北部では収穫もぎりぎりなんですよ。生きるための米をとりあげられ、実る前の稲穂を刈られて、これじゃ死ね、ということですよ」との証言もある。これらの証言を無視したり”虚言”として切って捨てるのではなく、下記のような事実やその他の資料と合わせて考える必要があると思う。
 
 まず、日本とベトナム(南ベトナム・ゴ・ディン・ジェム政権)との間の賠償協定締結(1959年5月13日)に関わって、国会に提出された政府提案理由の中に「……ヴェトナム領域における特殊な様相は、常時8万前後のわが軍の存在及び南方地域に対する割当20万人の兵站補給基地としての役割から生じた。すなわち、交通輸送機関の全面的徴発、主として米軍の爆撃による鉄道路線の寸断等の原因から国内経済流通が極度に乱れ、加うるに、諸物資の大量徴発のため昭和20年に入ってからは餓死者のみで推定30万が出た」とある。早乙女勝元氏も取り上げているが(『私たちの中のアジアの戦争 仏領インドシナの「日本人」』吉沢 南(朝日選書314)に取り上げられていることはすでに紹介した)、「餓死者のみで推定30万」はさておいて、「常時8万前後のわが軍の存在及び南方地域に対する割当20万人の兵站補給基地」という指摘を見逃してはならないと思う。

 また、早乙女勝元氏は『日本戦争経済の崩壊─戦略爆撃の日本戦争経済に及ぼせる諸効果』(正木千冬訳)に、当時日本は大量のトウモロコシやコメ(モミ)をインドシナから輸入していた事実が記録されている、と明らかにしている。下記にはベトミンによる日本軍のモミ貯蔵庫やコメ倉庫襲撃の話もでてくるが、日本の企業(三井物産)が確保したにもかかわらず、輸送の見通しが立たず、日本国内へ搬入できなかったコメ(モミ)がベトナム現地に大量に残されていたという事実も明らかにされている。

 したがって、ベトナムの200万人餓死をめぐる問題は、当時ベトナムを軍政下においた第21師団の日本兵(兵員数約2万5000人)が、200万人分の米を食べられるかどうか、というような問題ではないのである。

 数え切れない餓死者が出た事実と、それに日本軍が深く関わった事実を真摯に受け止めるべきではないかと思う。

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               第5章 内外の証言記録から

餓死者の数

 大飢饉のリアルな実態から、支配管理者だった日本軍の姿をあきらかにしてきたが、次に飢餓についてのベトナム側の調査と研究のうちから、これはと思う統計を「日本とベトナム」紙より引用したい。
 ベトナム北部からやや南よりのゲアン省(現在のケディン省の一部)は、ホー・チ・ミン主席の故郷で知られる。当時は飛行場や鉄道車輌工場、港湾施設がととのっていたために、日本軍が最大時1万人もの軍を駐屯させたところである。軍事施設の拡張工事は、多くのベトナム人を苦力(クーリー)として動員し、食糧、物資の徴発もひどく、人びとの生活は極度に貧しく追い詰められていた。稲田をつぶしてジュートへの転作も、ラム河川敷で広くおこなわれたという。そこへ悪天候が重なったために、たちまちにして大飢饉となった。同省での飢饉関係調査は、1964年に実施されている。(表2-略)全県を網羅したものではなく、もっとも被害が大きかったとされる8県、263村を対象にして、調査対象期間を44年末より45年初頭の3ヶ月間とした。それ以後の被害は含まれていない。 
  

 したがって限られた範囲内の重点的な調査でしかないのだが、それでも全滅した家族は次頁の表(略)のとおり2250戸を数え、餓死者は4万2630人となる。この死亡者数は、その後ゲアン省での30年にもおよぶ抗仏・抗米戦争による犠牲者数よりも、あきらかに多い数字となろう。
 紅河デルタの南端にあるニンビン省でも、62年にやはり飢饉の被害調査が重点的に行われ、同省のなかでわりと豊かな地域のはずのキムソン・イエンカイ両県だけで、3万7936人の餓死者を出した。
 そのうちキムソン県の内訳を見ていくと、餓死者は6116家族の、2万2908人に達した。うち1571家族の7008人は、家族全滅というもっとも悲惨な結末となった。
 また、この時期に流民となって、村を離れていった行方不明者が3814人いる。かれらが、その後どのような運命をたどったかはわからないが、おそらく大半が行き倒れになったものと思われる。行方不明者も加えると、キムソン県の死亡者は2万7000人近くなる。

 紅河デルタのタイビン省となりの、ハノイ寄りにハイゾォン省がある。同省のフォンタイ村を1964年に訪れた作家の山岸一章氏の『ベトナム-詩と竹と英雄の国』によれば、同村は5部落620戸、人口3075人の村だが、大飢饉で「この村では2500人(当時の人口)のうち890人が餓死したというのです。アンザクという部落は、557人のうち411人が餓死したというのです」と記している。
 「いま、豊かな田園風景のなかで、広い水田に田植えがはじまっていました。それを目で見ながら、20年前に、同じ水田地帯のまんなかの農村で、10人に4人、アンザク部落では、10人に8人が餓死していったようすを、どうしても想像することができませんでした。わたしは子どものころ、義父が失業して、2日も3日も味噌汁と塩湯で過ごした記憶があって、飢えることの苦しさを知っています。日本の軍国主義者が、”大東亜共栄圏”の美しいことばで宣伝しながら、そのかげで、実際におこなった罪悪の大きさと恐ろしさに、からだがふるえてくるのを止められませんでした。」


 また、大石芳野さんの『証言する民──10年後のベトナム戦争』には、タイビン省で、日本軍が収穫寸前の稲を引き抜かせてジュートに替えさせられた例が出てくる。せめて10日待ってくれの農民たちの懇願さえも日本軍はききいれず、稲を強制的に刈り取られてしまった結果、貯えのなかった小作農たちから先に倒れて死んだ。亡くなった家族や、友人の遺体を埋めながら、次は自分の番だ、誰が自分を埋めてくれるだろうか……という人民委員会某氏のコメントがある。
 同省のタンホー村では、次のように語る人がいた。「『決められた面積に麻を植えなければ、村全体を焼き打ちにする』といわれたので、仕方なく稲を抜いて全体の三分の一を麻畑にしました。でもその結果、タンホー村だけでも飢えで少なくとも1300人が亡くなりました」


 そのタイビン省を1972年に取材した本多勝一氏の『北ベトナム』にも、同省のドンフン県ドンフォン村での餓死者の数が記されている。
 「かくて、ドンフォン村の餓死者は、1944年に137人、翌年に155人、計292人に達した。ほかに出稼ぎで離村したまま行方不明の137人も、どこか他郷で餓死したとみられているから、合計は429人になる。この村は当時より人口がふえたという現在でも約2600人だから、これはおそるべき高率だ。
 こうした中で、ベトミン(ベトナム独立同盟)は『敵のモミの倉庫を破壊して人民を救おう』という運動を展開した。日本軍が集めたモミが倉庫にある。ベトミンは死を賭した民衆を率いて、鎌や包丁をふりかざししてこれを襲った。警備のスキをついて急襲すると、倉庫を守る兵隊など2、3人だから、何千人という怒り狂った群衆にはほどこす術もなかったという。このときの群衆は、片手に包丁、片手にモミを入れるカゴという姿が普通だった。」


 それまでは、歩いていく道になにか落ちていないかと、いつもうつむいてとぼとぼと足を運んでいた人びとが、「片手に包丁、片手にモミを入れるカゴ」姿の大群衆と化したのである。ベトミンは、その先頭に立った。

 先のニンビン省における2つの村の餓死者の調査数を書いたが、同省のニュークアン県には、日本軍が支配者になると同時に、いちはやくベトミンによる大規模なモミ倉庫襲撃が組織されたクインリュー地区がある。同地区で、省初めての革命権力=人民委員会が成立したのは45年4月4日だったというから、日本軍の「明号作戦」から一ヶ月も経過していなかった。すぐに日本軍保安隊が弾圧に出動した。運動の中心だったルーフォン村で銃撃戦となり、省人民委員会の責任者だったチャン・キエン氏が、不幸にも日本軍の銃弾に倒れた。まさに命をかけてのたたかいだったのである。

 すでに前年12月末、ベトミン武装解放宣伝隊が、後の名将ボー・グエン・ザップの指揮のもと、北部カオバン省でたった36人の兵から組織されていたが、飢餓が深まるにつれて人びとの支持を得、爆発的に勢力を拡大していった。


 ベトミンはいたるところで、「日本ファシストから米を奪え」「汗と涙で育て上げたモミを取り返せ」と農民たちを組織していく。日本軍のモミ貯蔵庫や、コメ倉庫がつぎつぎと襲撃されていった。日本軍は、これを暴力で弾圧し、指導者たちを銃殺したり、負傷させたりしたが、深夜でもたいまつを手に手に殺到してくる何百人何千人という大群衆を前にしては、もはやどうすることもできなかった。

 1945年3月9日の直後、ベトミン戦線は、抗日救国運動を促進するよう、全国の同胞に呼びかける「アピール」を発した。アピールの中には次のような一節があった。


  ……国民同胞諸君
 わが民族の運命はか細い髪の毛にぶら下がっている。しかし、千歳一遇の機会
 が来つつある!
 十分な衣食を欲するならば
 家と国を守りたいならば
 兵役、夫役を免れたいならば
 被爆、被弾の難を逃れたいならば
 民族が世界に対して胸を張ることを願うならば
 さあ、立ちあがろう、富める者も貧しき者も
 男も女も、老いも若きも、幾百万人が一つになって!
 刀をとれ、銃を構えよ、
 賊を殺し、裏切り者を駆除せよ。
 強大で、自由な、そして独立した国ベトナムをうちたてよう。
 痛苦と怨恨を注ぎこみ、敵を流し去る滝としよう。国土を守り犠牲となった民族の英雄たちに背かぬよう断じて誓おう。
 同胞諸君!

 抗日救国の時は来た。急いでベトミンの金星紅旗に続け!

 ドク・ラップ(独立)の叫びは、こうしてなだれのように村や町から、民族の一大エネルギーとなって「八月革命」へと突き進んでいく。やっと飢餓神を振りきったやせ細って裸同然の人びとは、勇気以外になにも失うものはなかった。そうした飢えに苦しむ民族の心を心にした者のみが、ベトナムの新しい時代「自由と独立の国家」(ベトナム民主共和国独立宣言による)を築いたのだといえよう。


 
http://www15.ocn.ne.jp/~hide20/"に投稿記事一覧表および一覧表とリンクさせた記事全文があります。一部漢数字をアラビア数字に変えたり、読点を省略または追加したりしています。また、ところどころに空行を挿入しています。青字が書名や抜粋部分です。

2014/07/17

日本軍政下 ベトナム"200万人"餓死 3

 大戦末期の日本軍政下における、ベトナム"200万人"餓死に関しては、「当時ベトナムにいた1万人の日本兵が、200万人分の米を食べらわけがない、ベトミンンの政治的な宣伝である」、と200万人の餓死そのものに疑問を投げかけつつ、当時の日本軍の責任を否定する人たちがいる。現在ネット上では、そうした考え方をとる人たちが主流のようでさえある。

 しかし、「ベトナム”200万人”餓死の記録 1945年日本軍政下で」(大月書店)の著者、早乙女勝元氏によると、「1万人の日本兵」ということ自体が事実ではないようである。「仏印」駐屯日本軍は第38軍(司令官土橋勇逸中将)だが、「明号作戦」のために増強された兵力は、隷下部隊に第21師団、第37師団、独立混成第34旅団、独立混成第70師団、指揮下の部隊には第2師団、第22師団、第4師団の一部などが含まれ、その総兵力8万2000人のうち北部に2万5000人が配置されていたというのが、どうやらほんとうらしいというのである。また、すで「日本軍政下ベトナム"200万人"餓死 1」で紹介したが、戦後南ベトナム(ゴ・ディン・ジェム政権)との賠償協定に関わって、政府が国会に提出した賠償提案の理由の中に、「当時8万前後のわが軍」と明記されていて、それが45年に入っての通常兵力だったと解釈できるというのである。

 さらにいえば、「1万人が200万人分のコメを食えるはずがない」というのは確かであろうが、”そのとき貯めこんでいたコメの物量を忘れてはならない”という指摘も重要であると思う。また、同文書には「南方領域に対する割当20万人の兵站補給基地としての役割」などという言葉もあり、当時日本軍が確保していたコメと同時にベトナムから持ち出されたコメについても考慮する必要があると思う。軽々しく「当時ベトナムにいた1万人の日本兵が、200万人分の米を食べらわけがない」などということはできないと思うのである。下段の「飢餓四つの原因」も、忘れてはならない指摘であると思う。

 下記は「ベトナム”200万人”餓死の記録 1945年日本軍政下で」早乙女勝元(大月書店)からの抜粋である。
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                第6章 だれに責任が?

強制買い付け

 当時の食糧事情を、ベトナム側からあきらかにした資料がある。
『1945年の200万人餓死の真実』は、私も二度ほどお会いしたことのあるベトナム歴史研究所所長バン・タオ教授が監修し、ゲウン・カック・ダム氏が編集した一冊で、4年ほど前に日本ベトナム友好協会に送られてきた。その結論部分が『日本とベトナム』紙に3回にわたり分載されている。

 これは、書名からも察しがつくように、問題の「200万人餓死」を解明する上で、ベトナム側のもっとも権威のある、しかも新しい研究書とみることができる。また、こんにちの時点までに入手したベトナム側あるいはフランスなど西側の統計資料が豊富に引用されているのにも、特色がある。
 その内容を損なうことなく紹介するには、ちょっと力不足だが、できるだけわかりやすく次にまとめてみることにしよう。


 ──フランス側の資料によると、1942年にベトナム北部で161万7000トンのモミを生産したのに対して、食べるほうの人口は800万5000人だった。
 大人と子どもを平均して、一人の人間が一年間に消費するモミを210キロ(この量は少し多いように思えるが、モミ計算であるうえに、副食物が極端にとぼしく、味噌、塩、ニョクマム(魚醤)くらいしかなかったため、その分をコメで補う生活だったと考えられる)とすると、800万5000人に169万トンのモミが必要となる。すると、この年に生産したモミ総量は、8万トン前後の不足分があったということになる。
 1943年には、同じ北部で151万3000トンのモミを生産したのに対し、人口は1000万人に増えていた。したがって、この年の不足分は61万トンあまりとなる。その分はどうしていたのか。南部のコメを運んでくることで補っていた。南北の交通が正常だった41年には、18万6000トンの南部米が北部に搬入されている。


 ところが1944年~45年ともなると、重慶、桂林などからの連合軍の日本軍事目標爆撃により交通手段は悪化の一途をたどり、南部米の移送があちこちで分断されてしまう。44年には、わずか6800トンの南部米が運ばれたにすぎない。もはや南部米はアテにできないとあって、これを現地で解決すべく、フランスは農地を細分化し、1マウ(北部で3600平方メートル)単位で、モミの買い上げを強制した。農民は1マウあたり200~250キロものモミを売らねばならなくなったのである。

 強制買い付け制度によるモミは、こうして年毎に増加して、42年が1万9000トン、43年が13万トン、44年が18万6000トンとふくれ上がっていく。農民のなかには、規定量のモミを売ったら食用分がなくなってしまい、はるかに高い金でモミを買わねばならない者が続出してきた。
 その買い付け価格であるが、43年に100キロのコメが市場で57ドンだったのに対して、当局の買い上げ価格は26ドン。ざっと半値だった。ところが44年には市場価格は400ドンに達したにもかかわらず、買い上げ価格は53ドンだった。八分の一である。食用米が不足すれば、当局が支払ってくれる価格の8~10倍もの高いコメを逆に市場で入手しなければ生きていけなくなったのだ。
 こうして農村はたちまちにして窮乏化し、例年貯えていたところの非常用の保有米まで失うほどの、かつてない危機的事態となった。


 都市部はどうか。日本軍とその関係企業、フランス政庁(共同管理は45年3月9日までだが)と接触していた人々にだけ、コメは配給制になっていた。しかし、43年なかばまで一人あたり毎月15キロのコメが、44年には10キロ、45年には7キロになってしまった。不足分は買い足さなければならず、すさまじいインフレで、都市人民もまた急速に餓民なっていった。

 もう一つ、忘れてはならない大きな問題がある。たとえ自然災害によって食用米が不足しても、これまでの農民たちは、トウモロコシなどの雑穀にたよることができた。しかし、戦争が激化すると、日本とフランスはコメのみならずトウモロコシを買い占める一方で、繊維性・油性作物の栽培を奨励し、強要した。ジュート、チョマ、綿、ヒマ、落花生、胡麻などの栽培面積は、北部だけで44年に4万5000ヘクタールとなり、40年とくらべて9倍に達した。もしも40年度の5000へクタールのままだったとすれば、のこりの4000万ヘクタールで、モミ6万40000トンが、さつま芋かトウモロコシ9万トンを収穫できたはずである。


 北部の飢餓状態は、44年の末になると、いっそう深刻さを増してきた。同年10月と11月に台風と大雨が何度も重なり、やがて冷害も加わって、秋作米収穫に大きな被害が出た。これを統計によって、次にみていくことにする。

 38年から43年まで、北部における10月秋作米(春作米を除く)の平均収穫量は、モミで109万トンだった。しかし、44年の10月米収穫は、やっと100万トンに達しただけだった。このほかに、北部の人たちは8万トンあまりの雑穀を生産していたので、食糧生産量は合計108万トンになる。
 ところが、前述のように、この年フランスは18万6000トンのモミを強制的に買い付けた。その三分の二が秋作米で、12万5000トンである。このうちの一部をフランスは都市部のごく限られた人びとに配給した。その総量5万トンという数字は疑わしいが、仮にそうだとして7万5000トンがフランスと日本に残されたことになる。さらに農民が次の植え付けの種モミとして保有しておかなければならないモミが、5万5000トンあまりあった。これを差し引くと食用として残された分は95万トンになる。
 それが、北部人民に食用として残されたモミで、44年11月から45年5月の春作米収穫期まで、約7ヶ月分となる。


 北部の人口は、約1000万人。一人あたり年間210キロの穀物が必要だったとすれば、1ヶ月に18キロ。7ヶ月ならば126キロになる。しかし、総計95万トンのモミで7ヶ月を食いつなぐためには、750万人分しかない。残りの250万人がはみ出してしまう!

 以上は、非常に単純な計算によるものであって、95万トンからの食用分が、残されたすべての人たちに平等に配分されていたならばまだしも、実際は決してそうではなかった。フランスが買い付けを委ねていた大地主や権力者、ならびに各種商人たちが、インフレを見越していちはやくごっそりとおさえこんでしまった。買い占めと売り惜しみである。そのため、あるところにはあったが、実際に一般の手にまわった分は、もっとずっと少なかったのである。
 同書のまとめは、次のような文章で結ばれている。

 「数知れぬ人々が、このような籾・雑穀の不足状態の中で、バナナとか山イモとか木の葉、あるいは金持ちたちが捨てたゴミなどを食糧にして食いつながざるをえなくなった。しかし、このような物は飢餓の解消には、あまり大きな貢献にはなりえなかったのである。
 したがって、1945年初頭に北部で200万人の人が餓死したという、ベトナムの新聞が公表している数字は、けして誇張されたものではなく真実であり、これを誇張とするのは、日本帝国主義とフランス植民地主義の責任を故意に軽減しようとする人の議論なのである。」


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飢餓四つの原因

 パン・ダオ教授監修による『1945年の200万人餓死の真実』と、来日したタオ教授から直接細部のくわしい説明を受け、またさらに多くの資料を照合していくところ、深刻な飢餓の原因は決して単純なものではなく、大きく分けて次のような理由が考えられる。


①天候不順による凶作
②南からのコメの輸送停止
③ジュートなどへの転作の強要
④日本とフランスによるコメの強制買い付け

 というわけで、いくつものマイナス要因が、同時期に重なったことの複合汚染ならぬ複合飢餓だったと考えられなくもないが、しかし、以上の理由のうちの、もっとも主要な要因ははたしてどれなのか。

 ①の自然災害だったという指摘には、すでに同地域における歴史に残る飢饉を紹介したが、これまでどんなひどい不作でも、200人余りの犠牲者が出た例(1915年)があっただけである。
 1944年に超大型の台風と洪水とに襲われたトンキンデルタが、かなりの面積にわたって水没したのは事実だったとしても、秋作米は約100万トンの収穫があって、43年度の109万トンに比べ、約1割ほどの減収でしかない。もともと消費量の追いつかぬ収穫しかない人口密集地域だから、1割減っても影響は深刻だが、それが決定的な要因になったとは考えにくい。不作になったのはもちろんのことだが、しかし、冷害による被害もまた意外に大きかったのではあるまいか。
 ハノイの温度は夏に30度以上の酷暑になることもあるが、12月から1月の平均気温は17度前後である。それが、この年は4度以下までさがり、時には薄氷さえ張ることがあったという。日本兵士たちはすべて外套を着用したといわれる。すでに長期におよぶドン底生活で、衣食住すべてにわたりぎりぎり最低だった人びとには、耐え難い寒波だったことだろう。身のまわりのものはみな売りつくし、裸同然となって食物を求めてさまよう人たちは、もはや肉体的な抵抗力がなく、コレラ、チフスなどの疫病も広がり、さらに凍死も多かったのではないかと思われる。


 ②の南からのコメの移送が遮断されたのも、小さくない要因である。ベトナムのコメどころは、今も昔も圧倒的に南のメコンデルタで収穫される南部米(サイゴン米)である。
 1938年~39年度の統計によれば、インドシナ全域でのコメの収穫高は年間630万トンで、その内訳はベトナム北部で25%、中部で16%に対し、南部で40%を占めた。カンボジアは12%ラオスは7%にしか過ぎなかった。したがって、インドシナ全体のコメの収穫量の半分近くが南部で生産されるサイゴン米である。

 人口が多いわりに食糧生産に追いつかぬ北部は、南からのコメと引き替えに石炭などの地下資源を送っていたものだが、戦争が激化するにつれて、その均衡がくずれた。41年には18万6000トンの南部米が北部に運ばれてきたのに、44年はわずか6800トン。例年の二十分の一では、どうしようもない。
 南部では余ったモミを石炭がわりにして、機関車を走らせたというエピソードがあるくらいだが、コメの流通に当たっていた日本企業と華僑は、北へのコメ移送にきわめて消極的だった。この時期には、連合軍の爆撃によって、南北のルートは水路陸路ともに各所で分断されていた。大がかりな米の輸送は次の爆撃目標になりやすく、危険度と収入高からしてもリスクが大きすぎる。
 牛車や小型ギャンクなどでコメを運ぶのに努力したという日本企業員だった人の声もきくが、個人的な善意は認めるにしても、日本軍に北部の飢民を救おうという方針もなく、なんの措置もとらなかった。飢饉に苦しむ人びとは異国からの支配者に見捨てられたのである。


 ③日本とフランスによるジュート(黄麻)など繊維性・油性作物栽培の転作は、最初は奨励程度だったものが、やがて強要に近い圧力をともなってくる。コメとトウモロコシを除けば、インドシナの特用農産物の目玉はなんといってもジュートだった。農産物や鉱産物の麻袋としての利用度が高かったからである。
 先のベトナム側資料によれば、1941年に5000ヘクタールの栽培面積だったジュートは3年後には9倍の4万5000ヘクタールに拡大したとある。42年9月に、日本政府は三菱商事、三井物産、大同貿易、日本綿花の4社をトンキンデルタに送り込み、次いで台湾拓殖、又一商会、大南公司、江商、台南製麻、東洋綿花、三興、大丸興業などを加えて、大がかりなジュートの栽培と輸出にあてた。

 栽培の適地は主として河川敷だが、それでは足りずに水田をつぶし、コメの二期作のうちの一期作をジュートに変えたところもあった。そして、台湾人農業指導員を多くあてている。農民たちの不満や苦情が、直接日本軍や企業までは届かない巧妙な手口が、実は日本がねらったところの「仏印」支配機構だった。
 先の資料には、ジュートなどへの面積がもしも41年度の5000ヘクタールのままだったとすれば、残る4万ヘクタールでモミ6万4000トン、もしくはさつま芋かトウモロコシ9万トンが収穫できたはずだという。生きるか死ぬかのぎりぎりの瀬戸際に、6万トンのモミ、あるいは9万トンの農産物があるかないかでは、事態は大きく変化する。ジュートへの転作も又、決して見落とすことのできない飢餓の一要因といえるだろう。


 ④日本とフランスのモミの強制買い付けが最後に挙げられるが、これはどうか。
 問題の1944年の秋作米から、フランスは12万5000トンのモミを買い付けたとされている。そのうちのどれだけが日本軍ならびに日本企業へきたかは不明だが、45年3月10日以降は、フランス軍がいないのだから、その分も含め、日本の特別倉庫には相当量のモミとコメが蓄蔵されていたはずである。
 それは「少なくとも、現地軍が2カ年食べ得る備蓄量が目標だった」と小山内宏氏は『ヴェトナム戦争・このおそるべき真実』に書いている。ハノイの「第21師団は決戦に備えて2年分の食糧を確保していた」とは、第3章に紹介した元軍曹武田澄晴氏の手紙の一節である。
 北部駐屯日本軍が、2年分もの食糧を確保していたのだとすれば、フランスが買い付けた44年の秋作米12万5000トンのうち、せめて10万トンでも、北中部の一般人民に平等に放出することはできなかったのか。
 しかし、日本もフランスも、それをしなかった。ベトミン組織の予備軍ともいうべき農民や貧民が、飢えれば飢えるほどに体力も気力も失い、自分たちの支配に対する抵抗力が衰弱するとでも思ったのだろう。フランスは日本軍よりも、足元を揺すぶる地鳴りのようなベトミン運動の高揚を恐れていた。この点では、日本もフランスも支配者としての共通の危機感と連帯感があったようである。侵略国ならではのこの支配思想こそが、当然するべき救援活動も怠り他人事に終始したのであって、以上4つの原因のうちの最大の要因だった、と私には思えてならない。


 ・・・(以下略)

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2014/07/08

日本軍政下 ベトナム"200万人"餓死

 1945年3月10日は、「東京大空襲」のあった日である。その前日の1945年3月9日は、大本営の「仏印処理ニ伴フ声明」に基づいて、フランス軍を壊滅させるべく、日本軍の「明号作戦」が仏印全域にわたって発動された日である。

 「ベトナム”200万人”餓死の記録 1945年日本軍政下で」早乙女勝元(大月書店)に、「東京大空襲」が、この日本軍の「明号作戦」発動に対する報復であるという、当時、陸軍所属の学徒兵(金矢義雄氏)の証言が出ている。連合国は、日本軍が仏印全域を軍事支配化に置く準備に入ったときから、繰り返し警告していたという。”日本軍が仏印において武装行動に移る場合には、その報復として首都東京に対し、空前の大爆撃を加える”と。その事実関係を明らかにする確たる文書資料はないようであるが、”なるほど”と考えさせられる。

 その連合国の「報復」の話とともに、日本軍の「明号作戦」発動によってもたらされたといえる、「ベトナム”200万人”餓死」の話には、驚くほかない。同書の著者、早乙女勝元氏は、ベトナム戦争末期、アメリカ軍による北爆の被害状況を確認し記録するためベトナムに入り、そこで、日本軍政下の”200万人”餓死、に出会う。、それから、「ベトナム”200万人”餓死」の調査や聴き取りを始めたようである。下記は、同書に取り上げられている、元日本軍兵士のベトナムの”餓死”に関わる証言である。

 下記は「ベトナム”200万人”餓死の記録 1945年日本軍政下で」早乙女勝元(大月書店)からの抜粋である。
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           第3章 北爆の惨禍と飢餓の記憶

元兵士の勇気ある証言


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 しかし、そうした批難の手紙とは別に、同じ兵士として、自分の目撃した深刻な状況を克明に知らせてくださった方もいる。広島市在住の武田澄晴氏の手紙は、当時のベトナム北部の惨状を伝える貴重な一証言と見ることができよう。

 「私は昭和18年1月より21年3月までベトナム各地を転々として、20年3月9日夜”明”号作戦と称する戦闘で負傷し、入院しました。当時私は第21師団(師団長三国直福中将)の独立野戦高射砲第62中隊で、ハノイ市外のジャラム飛行場に対空陣地を敷いていました。私は軍曹で分隊長をしていました。
 ハノイ市内のフランス女学校を接収した陸軍病院に約1ヶ月入院している時、見舞いに来てくれる戦友たちが、『市内には餓死者がゴロゴロしているよ、おどろくなよ』と言うのです。
 退院の日、私はジャラムからルージュ河(紅河)畔に移動していた中隊に帰る時堤防の上にずらりと並んでいる餓死者を見たのです。愕かずには居れませんでした。迎えのトラックの上から果てしなく続くその、まるでイリコを干してあるような光景は、ショックでした。胸がしめつけられる思いでした。しかし同乗の友は平気になっているのです。もう見馴れたからでしょう。『早く収容するなりしてかたづければよいのに……』と言うと、『なに、毎晩かたづけられているのだが、次の日はまたこの状態だよ』とのことでした。


 やがて私は、外出できるようになりました。(高射砲隊は昼間防空任務につき、夕方から外出するのです。)いやでもその堤防を通らなければ市内に入れないのです。生まれて初めて見る餓死者、その寸前の者……地獄でした。ほとんどが子どもと、老人でした。
 ムシロがかぶせてあるので、死んでいるのかと思って見ると、大きな眼を開いたうつろな表情、ものを言う気力もすでになく、じっと見つめているガイ骨のような顔々々……。もうそうなっては食べものを与えても食べる力がないのです。

 むすびを持ったまま死んでいる者、幼い兄弟が抱き合ってミイラのようになっている者、(性別は全然わかりません。)いくらかの小銭を与えられ手にしたまま死んでいたり──私も初めのうちは食物や銭を与えたりしていましたが、キリがないのです。そして人間というものは、そんな地獄の環境にも見馴れてくると平気になるものでした。屍体をよけたりまたいだりして、市内の軍酒保に行くのです。そこにはあり余る山海のご馳走が、安く飲食できるようになっていました。(その頃、師団は決戦に備えて2年分の食糧を確保していたそうです。)


 酔ってふらふら賑やかな町の中を歩いていた時、私はハッとして立ち止まりました。街角の歩道の上に、たった今捨てられたと思われる色の白いかわいい、生後4、5ヶ月かと見える幼児がちょこんと坐っていて、キョロキョロめずらしそうに人の通りを見ているではありませんか。そしてその前には、たぶん子を捨てた親の最後の贈り物であろう白い御飯が、バナナの葉の上に盛られて置いてあるのです。
 私はその頃25歳、結婚もしていませんでしたが、捨てた親の気持ちを思うと、胸が熱くなってきました。3日か4日後には、もうムシロの下で、骨と皮なるのだと思うと、哀れで哀れでなりませんでした。許されるものなら、部隊につれて抱いて帰って育ててやりたい気持ちで一杯でした。


 それからやがて夏がきて、私たちはヅーメル橋(ロンビエン橋)の防空に当たっていました。野戦倉庫の兵隊が、現地人の曳く米の麻袋を満載した荷車につきそっていくと、家陰からナイフを持った少年がさっと飛び出してきて、麻袋を切り裂くのです。すると、そこから白い米がサラサラとこぼれ、アスファルトに白い細い帯を敷いたように落ちてゆく。それを、難民の女性がホウキとチリ取りとを持って奪っていくのです。私たちはこの少年を「斬り込み隊」と呼んでいましたが、警備についている兵隊の中には、大眼に見いていたものもおりました。

 やがて越南独立同盟=ベトミンの暗躍が活発になってきました。そして敗戦。独立を絶叫して泣く越盟の闘士たち、湧きにわくハノイの街、ホー・チ・ミン主席の独立宣言をとりまく大群衆──その中で、我々はヤケ酒でうさ晴らしをしていたのです。


 いつでしたか、新聞で日本がベトナムに与えた損害のことで『鶏3羽くらいだ』と元将官が語ったのを読み、私は唖然としました。あの頃でさえ餓死者の数は、ハノイ周辺でも50万人から100万人だということがささやかれていたのです。それらをすべて天災のせいにするのでしょうか!以上、実情を見たまま聞いたままを書いてみました。乱筆御容赦ください。」

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               第5章 内外の証言記録から

学者兵士と特派員の目

 ベトナム関係の文献には、かならずといっていいほど、1945年初めの大飢饉についての記述がある。それはほんの数行であったり、かなりのページを費やしているものなどさまざまだが、ベトナム現代史にとって、あまりにも苛酷な抵抗戦争を別にすれば、欠かすことのできない大惨事だったからだろう。
 飢餓問題について、それだけをテーマにして書かれた一冊は、残念ながら日本側ではまだ見当たらないが、ここでは数多くの資料のなかより、日本とベトナム双方の記述を見比べながら、その実態はどんなものであったのかをあきらかにしてみたいと思う。


 まず当時、ベトナム北部にいた日本人の記録である。”現場の人”といえば、もっとも多かったはずの該当者は日本軍兵士だが、私あてにきた元軍曹武田澄晴氏のヒューマンな証言は第3章で紹介した。しかし、兵士というなら、まだほかにもいる。
 陸軍二等兵だった小林昇氏である。氏は福島大学教授から召集された経済学者で、1945年4月、サイゴンからユエ(フエのこと)を経て、ハノイに到着した。『私のなかのヴェトナム』は、60年代後半に出たエッセーふうの本だが、ベトナム飢餓問題を私が最初に知った貴重な一冊である。氏は44年11月に南方へ送られる途中、南シナ海で遭難した。敵の魚雷攻撃で船を沈められたのである。
 かろうじて一命を取りとめて、ベトナムの地を踏み、南方軍司令部に配属されることになる。そして北部の第21師団第62連帯へと急ぐことになったが、もうその頃は連合軍の爆撃で、鉄道はかなりの被害を受けていた。中国を基地にした連合軍の爆撃は日本軍を目標にしたが、ベトナム人民は巻きぞえとなり、とんだ災難にあったわけである。サイゴンからハノイまで、汽車を乗り継ぎながらなんと10日を要したという。


 「ソンコイのデルタの南端にあるナムディンの町は、トンキンではハノイ、ハイフォンにつぐ都会である。わたしはサイゴンからここまでたどりついたとき、猛烈な飢饉の惨状にいきなり出くわした。四方から流れついた農民の家族たちが、文字どおり骨と皮だけになって、街路に斃死してゆくのである。それは栄養失調の死ではなくて絶食の死であった。息をとめた夫の躰にすがって妻や子の哭いている歩道を、幾時間かしてまたもどってくると、妻のほうももう生命のしるしがかすかになっているというような、やがていたるところで接しなければならなくなる光景に、わたしははじめて接したのであった。市の大八車が、路上のそういう死者たちを積み上げて、屍臭をふりまきながら焼場へ運んでゆく。その車には、まだたしかに息のかよっていると思われる躰も積み込まれていた。

 まだ息のある者さえ、死者といっしょくたにされて運ばれていく光景は凄惨そのものである。あまりにも多くの死体処理で、作業者たちは一体ずつ個別に尊重するゆとりがなかったのだろう。
 やがて雨が降りつづくようになり、水路はすべて濁流にまみれ、たまに霧の晴れた日に近くの山に登って見ると、ソンコイ川(紅河)は中流で決壊して、平野は一面水びたしになっている。洪水はトンキン平野のほとんどを覆いつくして、稲の収穫が重大な影響を受けたのはまちがいないと見られた。


 そして、気温が上昇していくにつれて、炎熱下の洪水がコレラを蔓延させた。疫病もまた、容易ならざる事態だったことがわかる。兵営には、ベトナムの母や娘たちが、莚一枚を抱えた身で近づいてきては、日本軍の残飯や小銭をめあてに体で取引きしようとする。なんともやりきれぬ事実である。日本軍は「金と食糧を持っていたために、ヴェトナムの民衆に対しては経済上の優越者であった」と記されている。

 戦後20年ほどしてから、小林氏は自分が生きのびたベトナムをもう一度確かめてみたいという思いから、横浜港より海路の旅に出た。その同じ船で、サイゴンの孤児院に籍を持つというカトリックの神父と親しくなる。
 神父はオランダ人だったが、1945年当時はハノイの孤児院にいたということで、たまたま大飢饉の話になった。一体どれだけの人が死んだと思うか、の問いかけに、「ほぼ200万人でしょう」と氏が答えると、「そのとおりです。ああ、当時のことを知っている人がいようとは……」と、神父は掌に顔を埋めて絶句した。おそらく神父にとっても、一生のうちの忘れがたい思い出だったのだろう。
 
 小林氏は当時の惨状を回想して、次のように書かざるをえなかった。
 「この大飢饉が太平洋戦争の間接の結果にほかならず、したがってこのときの200万という膨大な数の死者に対する責任を日本人が負うべきだということを、われわれのなかの幾人が知っているだろうか」



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2014/06/24

ベトナム 餓死者「200万」と 日本軍 黄麻栽培強制

 1945年9月2日、ハノイ中心部にある旧総督府前、バーディン広場でベトナム民主共和国の独立式典があった。その時、ホー・チ・ミンによって読み上げられた「独立宣言」の文章に、”200万人以上の同胞が餓死した”という驚くべき文言がある。1944年から45年にかけて、つまり日本軍がベトナムを含むインドシナを占領していた時期のことである。

 それは、1944年11月頃から始まる。もともとベトナム北部は人口過密で食糧不足に陥りがちであった。特にこの年は、収穫直後から食糧の強制供出でほとんど手元に米がない状態であったという。それまでは、食糧が不足するときはトウモロコシなどの雑穀で食いつないだり、南部からの供給に頼ったりして生き延びてきたのであるが、大戦末期には、南部も余裕がなかった上に、戦争によって交通網が寸断されたこともあって、南部からの供給は不可能であった。それに追い討ちをかけたのが、日本軍による黄麻(コウマ、別名ジュート、インド麻、麻袋などに使われた)の強制栽培であるという。黄麻の栽培を強制されたために、雑穀などの収穫もほとんどできなかったのである。

 仏印の黄麻開発のために動員された企業の一つである台南製麻の会計係(河合さん)は、自らが関わった黄麻の強制栽培が「200万」の餓死者を出したという主張に疑問を呈しつつも「多くの行き倒れを目にした」と証言している。また、下段はハイフォン憲兵分隊の司法班に所属していた高田さんが、当時のベトナムで目撃した餓死者に関するものである。下記は、『私たちの中のアジアの戦争 仏領インドシナの「日本人」』吉沢 南(朝日選書314)から、大戦末期のベトナムにおける餓死者の数に関わる部分を抜粋したものである。
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                 2 台南製麻の会計係

「200万」の餓死者

 8月一斉蜂起によって、1945年9月2日、ベトナム民主共和国が成立した。その日、ハノイ中心部にある旧総督府前のバーディン広場で開かれた独立式典で、ホー・チ・ミンが書いた「独立宣言」が、50万の群集を前に、ホー自身によって読み上げられた。それには、次の一節が含まれている。

”1940年秋、日本ファシストが連合国攻撃のための基地を拡大しようとインドシナに侵略すると、フランス植民地主義者は膝を屈して降伏し、わが国の門戸を開いて日本を引き入れた。このときから、わが人民はフランスと日本の二重のくびきのもとに置かれた。このときから、わが人民はますます苦しくなり、貧窮化した。その結果、昨年末から今年はじめにかけて、クアンチからバックボにいたるまで200万人以上の同胞が餓死した。”

 1944年から45年にかけて、つまり日本軍がインドシナを占領していた最後の時期において、ベトナム中部のクアンチ省から北部(バックボ)一帯にかけてきわめて多くの餓死者を出したが、「独立宣言」は、その数を「200万人以上」と算定した。「独立宣言」は、餓死者の数について具体的に言及した、最初の文献の一つであろう。

 
 その後、日本政府がこの数を問題にしたことがある。1959年日本政府が「南ベトナム政府」と賠償協定を結ぶ際、国会に提出した政府提案理由の中で、言及されている。やや長文になるが関係部分を引用しておこう。
「……ヴェトナム領域における特殊な様相は、常時8万前後のわが軍の存在及び南方領域に対する割当20万人の兵站補給基地としての役割から生じた。すなわち、交通輸送機関の全面的徴発、主として米軍の爆撃による鉄道線路の寸断等の原因から国内経済流通が極度に乱れ、加うるに、諸物資の大量徴発のため昭和20年に入ってからは餓死者のみで推定30万が出た。ヴェトナム政府[当時のゴ・ディン・ジェム政権]は、この数字を100万とし、日本で、この賠償協定に政治的理由で反対している一部の人々は、もっぱら北部地区における餓死者の数は200万としているが、いずれも誇張であろう。しかし、餓死寸前の栄養失調者をも導入すれば、このような数字に達したかもしれない。その他強制労働に従事せしめた数万の労務者の中からも、相当数の犠牲者が出たことは想像に難くない。」

 ここには、餓死者の数について3つの数字が出てくる。
 一つは日本政府自身の推定で、「30万」。上記の文面では、日本政府は「30万」という数に自信ありげだが、しかしながら、その根拠はまったく示されていない。この数字は、敗戦直後ベトナムにいた外交官の報告にもとづいているに違いない、と私は推測する。それがどの報告なのかは確かめられないが、例えば、先に引用した「終戦以後本年3月に至る北部仏印政情報告」には、次の一節がある。


 食糧問題に付いては昨年4、5月の候東京〔トンキン〕各方面を通して数十万の餓死者を出したること(越盟〔ベトミン〕の宣伝によれば其の数200万に上る由)……」
 この1946年の報告では、「数十万」と幅をもたせており、同時に、ベトミンの「宣伝」する「200万」という数字については、疑問視されている。しかしいずれにしろ、日本側は調査したわけでもなかったにもかかわらず、当初からその数を低く見積もる傾向が強かった。したがって、日本政府が「数十万」を「30万」に読み変えたとしても、それほど不思議ではない。

 第2は、「ヴェトナム政府」、つまり59年当時のゴ・ディン・ジェム政権の言う「100万」という数である。ゴ・ディン・ジェム政権が全ヴェトナム国民を代表するかどうかが、当時賠償に関連して国会の内外で議論された。同政権の根拠薄弱な正当性については、ひとまず視野の外に置いて、「100万」について検討すると、この数字についても特に根拠らしいものは示されていない。ゴ・ディン・ジェム政権としては、ベトナム民主共和国の主張する「200万」と日本政府が主張する「30万」との中間を取れば、ベトナム国民を納得させうるであろうし、また日本政府も受け入れやすいと踏んで、「100万」という数字を提出したのであろう。そして同政権は、餓死者に対する賠償として、1人1000アメリカ・ドルと換算し、合計10億ドルを日本に要求した(他の物質的損害に対する賠償と合わせて、総計20億ドルを要求した)。日本政府は「100万」についても「誇張があろう」とした。


 第3は「日本で、この賠償協定に政治的理由で反対している一部の人々」が言う「200万」である。明らかにこの「200万」は、「独立宣言」中の一文ならびにベトナム民主共和国政府のその後の主張を受けたものである。日本政府は、これも「誇張があろう」とかたづけている。
 しかしながら日本政府は、「30万」という数字にも確固とした根拠がなかったのであるから、「100万」ならびに「200万」の数字を虚偽架空として退けることもできなかった。したがって「餓死寸前の栄養失調者も導入すれば、このような数字に達したかもしれない。その他強制労働に従事せしめた数万人の労務者の中からも、相当数の犠牲者が出たことは想像に難くない」と言わざるを得なかったのである。


 それにもかかわらず、1959年日本政府がゴ・ディン・ジェム政権と最終的に妥結した賠償額は、3900万ドル(140億4000万円)である。この内約半分である2000万ドルが、餓死など人的損害に対する賠償である、と仮定してみよう。ジェム政権の換算法(1人=1000ドル)に従うと、日本政府は、わずか2万人分を賠償したにすぎない。まったく不当としか言いようのないほど、餓死者の数を低く抑えてしまったのである。

 上記3つの数字のどれかを支持するにたる十分な資料を今の私は持ち合わせていない。だが、これまでの検討で一つ明らかになったことがある。それは日本政府が調査をまったくしないで、餓死者の数を一貫して低く見積もろうとし、そして最後にはその数字をウヤムヤにしてしまったことである。
 ところで「200万」という、1945年9月2日の「独立宣言」に初めて現れる数字が、かなりの信憑性持っているのではないかと思わせる資料もある。それは省別の餓死者の数である。

 例えば、紅河デルタの最先端に位置するタイビン省は、人口稠密な穀倉地帯であるが、1944年~45年の餓死者の数は約25万という記録がある〔本田勝一『北ベトナム』朝日新聞社1973年〕。また、ベトナムの歴史研究者の推定によると、その数は28万人である(チャン・フイ・リエウ監修『8月革命』第1巻 史学出版社、ハノイ、1960年)。1945年当時の人口を正確に知ることはできないが、1936年当時同省の人口は102万7000人であった。以後の10年で人口の変化があまりなかったとすれば、省人口の4分の1以上が餓死したことになる。この省では、零細な小農民が、ベトナム北部(トンキン)1、2を争う稠密度(1000平方メートル当り676人)で居住していた。しかも日本軍が駐屯していたハノイやハイフォンにも近く、また紅河一つを越えれば工業都市ナムディンに至るという位置関係にあったから、米略奪のために日本軍が直接この省に入ったり、あるいは村役人たちを親日団体に組織し、彼らを通して米取り上げを行なったりした。したがって、タイビン省一省だけで、餓死者が20万人以上にも達してもおかしくない条件を持っていたといえよう。


 以上一例としてタイビン省を取り上げたが、このほかに、ゲティン省については、省内の地域ごとに餓死者の数を算出した比較的完備された統計があるし、ハドン省などいくつかの省についても餓死者の数が公表されている。統計の精密さについて見当を加えつつ、こうした省別の数を加算してゆけば、「200万」かどうかは何とも言えないが、かなりの数に達することは間違いなかろう。
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               4 ハイフォンの憲兵

ハイフォンにおける1945年3月9日

 ・・・
 日本とフランスの関係が抜き差しならないものとなり、ついにはフランス軍を武装解除し、日本の一国支配を実現させた1944年暮れから翌年の冬にかけての時期、ベトナム北部の食糧難は危機的な飢餓状態にいたり、民衆は死の淵に立たされた。ハイフォン市内でも行き倒れの死体が多数ころがっていた。日に何十体と出る死体は、処理にこまると、クアカム河に投げ込まれた。高田さんは、次のように語っていある。

”田舎からハイフォンの町に相当の人がどんどんやってきて……。本来ならば田舎だから、当然食糧があるべきところが、生産は不振で、その上にやっぱし日本軍に強制的に米なんか取られるもんだからして、いよいよ食べるもんがなくなって……。町に出たならば、何か食べられるじゃろと思って、ハイフォンの町あたりにきおったですね。乞食みたいな格好して、バタバタ倒れてましたね、死んで道路に。死体がなんぼでもころがっているのを見ましたもんね。痩せ細って、栄養失調なんていうもんじゃなかったですね。今のアフリカの子供の写真みたいですよ。日本が飢餓対策をたてたかって?ぜんぜん聞いていませんね。師団参謀から、食糧を備蓄せよ、との命令がきました。自分たちだけは守ろうと……。日本兵は食っていまし
たよ。腹一杯食って、遊んでいましたよ。”


 私の聴き取りでも、十中八、九の人が、ベトナムの民衆が飢餓に瀕していた時、日本兵は「腹一杯食って、遊んでいた」と証言している。「先生にですからざっくばらんに話しますが、その頃の女遊びはすごかったですよ」、と高田さんは恥らいながら語った
 

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2014/06/19

アジアの教科書に書かれた日本の戦争 インドネシア

 下記は、「アジアの教科書に書かれた日本の戦争 東南アジア編」越田 稜編著(梨の木舎)から、「インドネシア」の中学校用『社会科学分野 歴史科 第五分冊』(インドネシア 語)マルトノ著(ティガ・スランカイ社 1988年版)の、ごく一部分を抜粋したものである。
 インドネシアの中学校用教科書には、戦時中の日本の軍政がどのようなものであったのか、詳細に記述されている。多岐にわたる日本の加害責任と、その責任の大きさにあらためて驚かされる。

 ところが逆に、日本では 安倍自民党政権が「自虐史観から脱皮する教育を進める」として、教科書検定基準の「近隣諸国条項」を廃止するという。下村博文文部科学相も、教科書検定制度について「日本に生まれたことを誇らしく思えるような歴史認識が教科書に記載されるようにしていく必要がある」と述べている。「自虐史観に陥ることなく日本の歴史と伝統文化に誇りを持てるよう、教科書の編集・検定・採択で必要措置を講ずる」というわけである。

 1985年、西ドイツのヴァイツゼッカー大統領が、「過去に目を閉ざす者は、未来に対しても盲目になります」という演説をしたことはよく知られているが、日本の戦争における加害責任を教えないことで「誇りを取り戻す」というのは、「未来に対しても盲目」になるということではないのか。きちんと歴史の事実に向き合い、過去を乗り越えて、生まれ変わった日本を示すことで、誇りを取り戻すようにすべきだし、周辺国もそれを望んでいるは明らかだと思う。
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中学校用 『社会科学分野 歴史科 第五分冊』(インドネシア語)マルトノ著 ティガ・スランカイ社 1988年版

               Ⅲ 日本占領時代

B インドネシアは、日本の戦争を支えるために資源および人力を提供させられた
 当初、日本軍の到来はインドネシア民族に歓迎された。インドネシア民族は、長く切望してきた独立を日本が与えてくれるだろうと期待した。
 どうしてインドネシア民族は、このような期待をもったのだろうか。それは、日本がやってきてまもなく、つぎのような宣伝を展開したからである。
──日本民族はインドネシア民族の「兄」である。日本がきた目的は、インドネシア
   民族を西洋の植民地から解放することである。
──日本は「大東亜の共栄」のために開発を実施する。
 その実態はどうであったか。日本時代にインドネシアの民衆は、肉体的にも精神的にも、並はずれた苦痛を体験した。日本は結局、独立を与えるどころか、インドネシア民衆を圧迫し、搾取したのだ。その行いは、強制栽培、強制労働時代のオランダの行為を超える、非人道的なものだった。資源とインドネシア民族の労働力は、日本の戦争のために搾り取られた。
 戦時中であったために、日本による占領時代のインドネシアでは、軍政がしかれた。ジャワ島とスマトラ島は陸軍によって、その他の地域は海軍に支配された。そして、戦時にふさわしいように、あらゆる種類の活動の目的が、戦争に必要とするものにむけられた。


 天然資源が、戦争のために搾取された。労働力が、戦争のために搾取された。その搾取は、つぎのように行われた。

a 天然資源と食糧の搾取─原材料は、戦争が必要とする工業材料を得るために使われた。食糧の供給は、とくに軍人による消費のための備蓄にむけられた。
──あらゆる耕作地は、日本軍政府に監視された。収穫物の販売は独占され、価
   格も日本軍政府によって決定された。それは、モルッカ諸島でのオランダ東イ
   ンド会社による香料の独占と、どこが違うのだろうか。
──戦争にあまり役立たないものの栽培は、制限されたり、完全にやめさせられ
   た。例えば、スマトラでの煙草の栽培は壊滅させられ、ヒマの栽培に替えさせ
   られた。ヒマは飛行機の潤滑油の材料として、非常に必要だったのだ。
──必要性があるため、依然として耕作が続けられたものには、キニーネ、ゴム、
   砂糖きびがあった。

──森林は、農地として利用するという理由で伐採された。森林伐採は、ジャワ島
   だけで、50万ヘクタールにおよんだ。
 農地造成のための場当たり的な森林伐採は、結局のところ、食糧増産にはつながらず、それどころか逆に、収穫は減少した。思慮を欠いた森林伐採は、土地の侵食と洪水の原因となった。侵食は土地の肥沃度を低下させ,灌漑に不可欠な水源を涸れさせた。洪水は、稲作を破壊した。
 そのほかにも、農業生産を減少させた原因があった。
──優れた農業技術を欠いたまま、農業が続けられていた。日本は、その国内で
   実施していたような、近代的農法の指導をしたことがなかった。
──日本軍政府は、軍隊の消費のために、家畜を大量に殺した。その結果、家畜
   の数が次第に減少していった。しかし、農民たちは、田を耕すために、家畜が
   必要だった。

──民衆は、各自の庭でヒマを栽培することを義務づけられた。その収穫は日本
   軍政府にひきわたさねばならなかった。これは、オランダ東インド政府時代の
   強制栽培と、どこがちがうだろうか。結果的に、耕地は減少し、農民には田で
   働く時間が不足してきた。
──多くの民衆が無理やりロームシャ(強制労働者)にされた。こうして、田を耕作
   する労働力が、しだいに減少していった。農業生産はすでに減少していたが、
   民衆は依然として収穫の80パーセントを、日本軍政府に引き渡すよう強制さ
   れた。
 この結果、民衆の間では食糧がたいへん不足してきた。多くの人びとが死んでいった。道端や店先など方々で、しばしば死体が目撃された。
 一方、日本軍政府による衣料品の供給も失敗してしまう。オランダの植民地時代には、輸入によって、民衆の衣料需要を満たしていた。日本植民地時代には、戦時であったので、このような輸入はありえなかった。そのため、民衆は綿の栽培を義務づけられた。しかし、十分な成果は上がらず、またインドネシア国内で加工することは、まだできなかった。
 その結果、民衆の衣料は非常に不足し、地方の多くの人びとは、麻やシュロの繊維で作った粗末な服を、身に着けるしかなかった。それさえも買うことができない民衆もまたいたのである。


b その他の物資の搾取──民衆の負担は、日本が戦争に必要なその他の物資の供出を義務づけたために、いっそう重くなった。
 そのような物資に、屑鉄がある。古い鍬や鎌、そして庭の鉄柵まで取り壊して、差し出さねばならなかった。

c 労働力の搾取──労働力の搾取が、社会の階層を問わず、いたるところで行われた。都市から田舎まで、知識層も文盲の人びともまた、そのすべてが戦争のために搾取されたのだ。

 もっともひどい目にあったのは、強制労働者(ロームシャ)にするために動員された人びとだった。彼らは田舎の出身で、一般的に文盲だった。もし教育のある者がいたとしても、小学校卒業がせいぜいであった。
 そのロームシャたちは、橋、幹線道路、飛行場、防衛拠点、防空壕といった、日本の防衛のために重要であった建設工事で労働を強制された。そのような壕が、いまも残っている。カリウラン(ジョグジャカルタ)にあるのは、その一つだ。

 
 ジャワ島の各地方から集められた数千の人びとが、ジャワ島以外の島の森林で働かされた。それどころか、例えばマラヤ、ビルマ、タイ、インドシナなど、国外で労働させられた人びともいた。ロームシャの仕事は、非常に重労働だった。原始林で木を伐採し、丘を掘り崩し、山の中で岩を砕くことなどが、その仕事だった。それとともに、ロームシャたちの待遇は、きわめて残酷であった。彼らが労働中に少しでも不注意だったりすると、平手でたたかれ、銃で殴られ、鞭で打たれ、足蹴にされた。これにあえて抵抗した者は、殺された。また、彼らの健康は、配慮されなかった。衣服は満足に支給されなかった。彼らは食糧を与えられはしたが、米の飯ではなく、タピオカの粉の粥だあった。それも一日一回であり、量もきわめて限られたものだった。
 その結果、数千人ものロームシャは、二度と故郷に戻ることができなかった。彼らは、働かされていた森林で世を去ったのだ


 ・・・以下略

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2014/06/15

アジアの教科書に書かれた日本の戦争 フィリピン

 山本七平は、その著書「一下級将校の見た帝国陸軍」(文春文庫)で、「マニラ埠頭の罵声と石の雨を」思い出しながら、敗戦後の日本軍の撤退を、”字義通りに「石をもって追われた」のであった。”と書いている。そして、小松真一氏『虜人日記』の中の、まったく同じような内容の文章を引用している。

 ”・・・「バカ野郎」「ドロボー」「コラー」「コノヤロウ」「人殺し」「イカホ・パッチョン(お前なんぞ死んじまえ)」憎悪に満ちた表情で罵り、首を切るまねをしたり、石を投
げ、木切れがとんでくる。パチンコさえ打ってくる。 隣の人の頭に石が当たり、血がでた・・
・”

 これが、「アジア人のためのアジア」・「大東亜共栄圏」・「東亜新秩序」などをスローガンに軍を進め戦った「日本軍」に対する、また、「日本国」に対するフィリピン人の偽らざる評価なのであろう。敗戦後の日本軍の撤退は、「護送の米兵の威嚇射撃のおかげで、われわれはリンチを免れた」というようなものだったのである。日本軍によって、「自分たちの愛する土地を戦場にされ、農作物は荒らされ、家は焼かれ、肉親、知人に沢山の犠牲者を出した」フィリピン人が、マッカーサー率いるアメリカ軍の再上陸を、拍手をもって迎えたということも頷ける。

 そして、それは、下記に抜粋したフィリピン小学校4年生読本『歴史』(1977年版)の中の「フィリピンの歴史における暗い時代は私たちの国を日本国が占領したときです」や「しかしマッカーサー将軍は、フィリピン人との約束を守りました。戻って来て、私たちの国を日本人から救ってくれました。」の文章に集約されおり、フィリピンの歴史教育の一部になっているということである。

 下記は、「アジアの教科書に書かれた日本の戦争 東南アジア編」越田 稜編著(梨の木舎)の「フィリピン」に取り上げられている高等学校用『フィリピンの歴史』高等学校2年生用『フィリピンの歴史と政治』から、私が記憶しておきたいと思った項目を、いくつか選んで抜粋したものである。また、最下段は、フィリピン小学校4年生読本『歴史』の中の文章である。
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高等学校用『フィリピンの歴史』(タガログ語)テオドロ・A・アゴンシリオ著 ナショナル・ブックストア発行 1981年版

               第17章 太平洋戦争
マッカーサーと軍隊
 1939年、ヨーロッパで戦争が始まったとき、フィリピンの国情は必ずしも悪い状況ではなかった。しかしマヌエル・L・ケソン(フィリピン国民党党首・コモンウェルス政府大統領)は、フィリピンの美しい空に暗雲がたちこめるのではないかと感じた。民族主義者で、作家で、知識人、そして国会議員でもあるクラロ・M・レクトは、日本が一番危険ではないかと考えた。1930年代に日本と中国が戦争を始めたときから、日本は極東アジアを征服したがっていたらしい。もしアジアで戦争が起こったならば、ドイツが太平洋にある列強の植民地を奪ったように、日本もアメリカからフィリピンを奪うのではないか、というおそれを抱いた。ケソンは戦争が起こりそうな情報を受けていたので、マッカーサーにフィリピンを守るように要請した。つまり毎年4万の兵隊を訓練することを提案した。5年間に20万のフィリピン軍の動員を計算した。フィリピンを攻撃することは、どんな国にも容易にできないだろうと考えた。なぜなら、攻撃側は多くの兵隊と武器を失うだろうからである。ルーズベルト大統領はフィリピンとアメリカの軍隊を合体して、指揮官にマッカーサーを任命した。フィリピンの兵隊は13万であった。そのフィリピンとアメリカの軍隊の連合体をユサッフェ(アメリカ極東軍)─USAFFE(UnitedStates Armed Forces in the Far East)といった。



宣戦布告
 1939年ヨーロッパで戦争が始まってから、日本はドイツ、イタリアと同盟関係を結んだ。これらの国ぐにを枢軸国という。1941年7月、日本はインドシナ(現在のベトナム)に侵攻した。アメリカはその侵攻に脅威を感じた。アジアにあるイギリスやオランダの植民地、例えばマレーシアやインドネシアが危険であるように、フィリピンも危険と考えたからである。アメリカは、主権を持った国家同士であるということで、日本に対して相互に理解しあおうと提言した。しかし、日本はそれを拒否した。

 日本とアメリカの関係は険悪になった。2ヵ国の関係改善のため、日本は来栖三郎を野村駐米大使の協力者としてアメリカに派遣した。しかし両者がハル国務長官と交渉しているあいだに、日本はハワイにあるパールハーバー(真珠湾)を攻撃した。日本は宣戦布告をしないで、アメリカの軍事施設を奇襲したのである。ハワイ時間12月7日だった。奇襲の結果、計5000名のアメリカ海軍将校と兵隊が死傷した。翌日、ルーズベルト大統領は議会で宣戦を提案した。日本はアメリカとイギリスに対して宣戦布告した。米英2ヶ国も日本に宣戦布告した。相互の宣戦布告で、ここに太平洋戦争が始まったのである。



日本の侵略
 真珠湾攻撃の数時間後、日本はフィリピンに侵攻した。それは1941年12月8日である。アメリカは日本の飛行機を撃ち落しにかかったが、日本は各地に攻撃をしかけてきた。アパリ、ダバオ、バギオ、タルラックなどであり、夜にはマニラが爆撃された。とき同じくして、日本はアパリ、リンガエン、アティモナン、そしてラモン湾に上陸した。日本がクラーク基地を爆撃したとき、アメリカは防衛することもできず、飛行機は破壊されてしまった。しかし、フィリピン人は、それにひるむことなく、以前と同じように心には希望を失わず団結した。・・・(以下略) 

 
日本軍はなにをしたか
 ケソンはコレヒドールを発つ前に、ホルヘ・B・バルガスとホセ・P・ラウレルに日本に占領された自国のことを頼んだ。日本軍がマニラを占領したときに、バルガスにフィリピン行政府の長になるように命令がきた。7つの省が設置され、それぞれの長にフィリピン人がなった。しかしどの省にも日本人がいて、フィリピンの一挙一動を監視していた。1943年初頭、日本は、フィリピンに「大東亜共栄圏」に参加するなら自由にするといった。そして日本は、フィリピンの憲法制定のためフィリピン独立準備委員会をつくった。日本はフィリピン独立言以前に、政党活動をすべて禁止し、そのかわりにカリバピ(新生フィリピン奉仕団)を設けた。この組織は新しいフィリピン大統領を選出したが、これは日本の支持によるものだった。
 1943年10月14日、ホセ・P・ラウレルは共和国大統領に就任した。その同じ日、ラウレルは日本と軍事協定(日比同盟条約)を結ぶことを強制された。この協定は無意味なものであった。なぜなら、フィリピンは日本に対し、もともと非協力的であったからである。フィリピン人は、フィリピン全国の学校で教えられた、アメリカとその民主主義の価値観のほうに忠実であった。



ゲリラ
 フィリピンの戦いは、バターンとコレヒドールの陥落とともには終わらなかった。ユサッフェの残軍は山に登り、ゲリラ活動を開始した。ゲリラの数は、町や市の市民が加わったり、また隠れてゲリラになる者もいたので増え続けた。日本軍の残酷さ──とくに地方での女性に対する邪悪な扱い──は、多くの市民がゲリラになる要因の一つであった。ゲリラ活動の広がりを危険視した日本軍は、フィリピン市民に対して残酷さをいっそう加えるようになった。多くのフィリピン人は有罪無罪を問わず捕らえられ、サンティアゴ砦や、日本軍が接収した刑務所とした他の施設に送られた。家に戻ることができた者にしても、不自由な身体となっていた。

 一般市民はゲリラに全面協力し、食糧やお金を与えた。市民はまた、ゲリラに兵力、兵営、武器、艦船の数など日本軍の状況を伝えた。このためオーストラリアにいたアメリカ軍は、フィリピンのどこを攻撃しなければならないかがわかっていた。
 フィリピン全土でさまざまなゲリラ・グループが発生した。軍人出身のゲリラ・リーダーもいれば、民間人のリーダーもいた。パナイ島ではトーマス・コンフェソールが民間人リーダーで、マカリオ・ペラルタ大佐が軍人出身のリーダーであった。レイテ島では、ルペルト・カンフレオン大佐が並ぶもののないリーダーであった。ミンダナオ島では‥(以下略)



アメリカ軍の帰還
 自由への道は長く険しかった。オーストラリアのアメリカ軍は、日本軍の手に陥っていた島々を取り戻していった。1944年9月、アメリカ軍は、フィリピンにいた日本軍に対して容赦ない砲撃をしかけた。フィリピンの人びとはひそかに喜んだが、日本軍はフィリピン人の心まで征服することはできなかった。

 ・・・(以下略)

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高等学校2年生用『フィリピンの歴史と政治』レオディビコ・C・ラクサマナ著 フェニックス出版社 1987年版

              第11章 日本のフィリピン占領

死の行進
 16人の将校を含む7万人以上のフィリピン人およびアメリカ人兵士たちが、バターンで武器を捨てた。降伏後、彼らは勝利者である敵の残忍な扱いを受けた。飢え、渇き、病い、疲労で極度に衰弱してにもかかわらず、彼らは、バターンのマリベレスからパンパンガのサン・フェルナンドまでの全行程を行進するよう強制された。この悪名高き「死の行進」中、フィリピン人約1万人、アメリカ人約1200人が路上で死亡した。サン・フェルナンドで生存者は有蓋貨車につめ込まれて、ターラックのキャパスにあったオンドネル・キャンプにつれてゆかれ、全員が収容された。その結果、飢えや病気でほとんどが死亡した。最終的に家族のもとに帰れたのは、ごく少数であった。


日本の軍政
 日本軍マニラ侵入の翌日、1942年1月2日、日本の軍事政権がフィリピンの政治・経済・文化活動を指揮するため設置された。第一主任将校にハヤシ・ヨシヒデ、第2・第3にタカギ、ワイチ各陸軍少将が就任した。
 東京からの命令を実行して、日本の軍事政権は、いくつかの規定を定め、無力なフィリピン人は、それに従わざるをえなかった。夜間外出禁止令および灯火管制が全マニラ施行された。戒厳令がしかれた。火器、弾薬、その他の武器すべてが没収された。日本軍に敵対するいかなる行動も処罰の対象になった。日本人を1人殺害すれば、有力なフィリピン人を2人射殺するという軍の布告が出された。連合国軍の武装解除された兵隊は逮捕され、ロス・パニョスとサント・トマス両大学、およびその他の収容所に拘禁された。


 すべてが日本支配下に置かれた。銀行、教会、工場、印刷所、学校、劇場は軍当局の厳重な監視を受けた。フィリピン国旗の掲揚は全面的に禁止された。国歌およびアメリカの歌を歌うことも許されなかった。日本の軍票がフィリピンの通貨に代わって配布された。

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参考資料

フィリピン小学校4年生読本『歴史』(タガログ語)コンコルディア・C・ロゲ、フロレンチア・B・バウティスタ編 レックス・ブックストア発行 1977年版

 フィリピンの歴史における暗い時代は私たちの国を日本国が占領したときです。
 日本軍は、来たばかりのころは、自分たちはフィリピンの友だちだといい、フィリピン人と日本人を結びつけるためアメリカを敵としました。
 日本人は、アメリカ人と関係あるものすべてを取り除きました。英語の代わりに日本語にしました。
 彼らはまた、人びとの食糧や家財道具をはじめ、乗りものや大きな家々をも取り上げました。多くの人びとが生活に困り、お腹を空かせていました。彼らはまた、捕らえた人びとを拷問し、殺しました。しかしフィリピン人は、マッカーサー将軍が、戻ってくることを信じていました。将軍がそう約束したからです。

 ゲリラ活動をしていた人、日本人と一緒になるのを嫌がった人びとは、山にこもりました。そしてマッカーサー将軍がフィリピンを救い出してくれるのを待ちました。ゲリラと日本軍はしばしば闘い、ゲリラは人びとの希望となりました。
 日本兵は、ゲリラに復讐するため、フィリピン人のスパイを使いました。これらのスパイは、ゲリラを偵察しました。
 日本人は、スパイがゲリラとみなした人びとに、とても残忍でした。捕らえた者たちを拷問し、要塞に閉じこめました。捕まった者たちに、仲間の名をいわせました。
 罰せられ、殺された者たちの中には、アバド・サントス裁判官、ウェンセスラオ・Q・ビンソン氏、アントニオ・エスコーダ氏、ホセファ・リャネス・エスコーダ夫人、ラモン・ラントス医師らがいます。
 しかしマッカーサー将軍は、フィリピン人との約束を守りました。戻って来て、私たちの国を日本人から救ってくれました。

 

http://www15.ocn.ne.jp/~hide20/"に投稿記事一覧表および一覧表とリンクさせた記事全文があります。一部漢数字をアラビア数字に変えたり、読点を省略または追加したりしています。また、ところどころに空行を挿入しています。青字が書名や抜粋部分です。

2014/06/09

アジアの教科書に書かれた日本の戦争 ベトナム・ラオス・カンボジア

 ベトナム・ラオス・カンボジアのインドシナ三国は、かつての「フランス領インドシナ連邦」である。アジア・太平洋戦争当時、日本は、「仏印」という略称を使った。その「仏印」に日本軍が「進駐」したのは、「北部仏印進駐」が1940年9月、「南部仏印進駐」が1941年7月で、真珠湾を奇襲した1941年12月以前である。しかしながら、この「進駐」は、宗主国フランスとの戦闘を伴うものではなく、共同支配のかたちにもちこむものであった。したがって、その戦争被害は見逃されがちのようであるが、ベトナムの教科書の「1945年初頭の数ヶ月間に、北部で、200万人以上のわが同胞が餓死した直接の原因となった」の記述に見られるように、その後の日本の戦争は、ベトナムでも深刻な被害を発生させていたことがわかる。

 ラオスの教科書には、日本の戦争による被害の記述は少なく、大雑把である。下記に抜粋したとおり、高等学校2年生用『歴史 2』には、「日本はこれら植民地の住民をだますために、大東亜共栄圏のスローガンをかかげて、それぞれの国に偽りの独立を与え、日本の目的や利益のために傀儡政権をつくりあげた」とあり、高等学校3年生用『歴史 3』に「日本支配下にあって、ラオス国民はきびしい労苦を強いられた。例えば戦略的道路建設を強制されたり、また武器運搬に従事させられたりした」とはあるが、それらの具体的な記述はない。しかしながら、それは、ベトナムやカンボジアのような、日本の戦争による被害が、ラオスにはなかった、ということではないであろう。

 また、カンボジアの歴史教科書は、”フランス=日本の二重支配のくびきのもとでのカンプチア”と題して(くびき=牛馬の頸の後ろにかける横木、 自由を束縛するもの)、食糧の強制供出や強制作付けの問題その他を、かなり詳しく取り上げている。そして、大戦末期には食糧不足に陥り餓死者が出た事実を「カンプチア人民の一部が死ぬこととなった」と記述している。
(注:1989年4月に「カンプチア人民共和国」は「カンボジア国」に、民主カンプチア連合政府は「カンボジア国民政府」に国名を変更した)    

 下記は、「アジアの教科書に書かれた日本の戦争 東南アジア編」越田 稜編著(梨の木舎)の、「ベトナム」「ラオス」「カンボジア」から、私が忘れてはならないと思った項目を選んで抜粋したものである。

ベトナムーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
12年生用『歴史 第1巻』(ベトナム語)教育省編1984年版

10課 ベトミン戦線と8月蜂起にいたる革命の高揚(1941~45年)

1 日仏二重搾取下のインドシナ人民

(1) フランスの、実質的な対日降伏とインドシナ人民搾取のための対日結託
 フランスは、ランソンで日本に降伏して(1940年9月)から、明らかに勢力が衰えた。日本はインドシナを植民地化し戦争の基地とするために、ひき続き地歩を固めた。
 1941年7月23日、ドゥクー総督は日本と「日本・仏印共同防衛協定」と呼ばれる屈服協定を結び、インドシナ全土にわたる日本軍の駐留権を認めた。続いて、1941年7月29日、ペタン政府は直接日本と協定を結び、インドシナのあらゆる空港と港の軍事目的利用を日本に認めた。

 日本は太平洋戦争を起こす(1941年12月7日)と、ドゥクー総督にもう一つの協定を強要し、以下の点について日本への全面協力を約束させた。つまり、日本軍の行軍を容易ならしめるよう協力すること、日本に食糧を供出し兵舎を建設すること、日本軍の後方支援としての安全を保証するために、インドシナ社会の秩序を維持すること、などである。

 それ以来、敵国日本とフランスは緊密に結託して、インドシナ人民を搾取した。日本資本主義の企業は日増しにインドシナへの投資を増大させ、商業や工業の多くの分野で活動した。インドシナ産業会社や大南公司などである。1940年から43年の間に、日本の企業が行った投資額は約1億1100万フランにのぼり、フランス企業のインドシナ総投資額の六分の一に達した。


 米やとうもろこしなどの主食については、日本はフランス植民地政府に供出させた。さらに残虐非道にも、日本は戦争に必要な原料を獲得するために、田畑への麻やヒマの植えつけをわが人民に強制した。
 インドシナに足を踏み入れて以来、ファシスト日本のあらゆる経済活動は、直接的にあるいはフランスを通じて間接的に、略奪戦争を遂行するため、資源や食糧をできる限り多く獲得することであった。

 一方、フランス植民地主義者は、日本に脅迫を受けながらも、最大の利益を得るため依然としてさまざまな狡猾な手段を弄した。まず第一にフランス植民地主義政権は、いわゆる「指導経済政策」をとった(輸出入・流通機構・価格・生産などの厳しい統制)。実際には、この「指導経済」と呼ばれているものは、戦争状態を利用してインドシナ経済の独占を図り、投機をさかんにしてわが人民から一層の搾取をするための、フランス植民地主義の一手段にすぎなかった。2番目の手段は増税である。このため、1939年から1945年の間に、フランスのインドシナ予算の総収入は倍増した。酒・塩・麻薬による税収入は、その間に3倍にも達した。


 もう一つの非道な政策は、日本への供出用と戦争の備蓄用とのために、食糧、とくに米の強制かつ廉価な買いつけをしたことである。この非道な政策こそ、市場における深刻な食糧不足をもたらし、1945年初頭の数ヶ月間に、北部で、200万人以上のわが同胞が餓死した直接の原因となった。


(3) 日仏の狡猾な手段
 残虐な略奪行為と侵略の陰謀を隠すとともに、インドシナにおける唯一の支配者の地位に躍り出る準備のため、ファシスト日本は進駐当初から、数多くの邪悪な政策を弄した。まず、チャン・チョン・キム、グエン・スアン・チューなど、フランス植民地主義になにがしかの不満をもつ知識人や名士、あるいはグエン・テー・ギエップのようなフランスの古いスパイといった連中を秘密裏に集め、次のような親日組織作りの手助けをした。「大越民正」「大越国社」「越南愛国」「復国」「大越国家連盟」などである。彼らは南部の「カオダイ」や「ホアハオ」といって反仏傾向のある宗教組織も利用した。そして、これらのグループは「越南復興同盟会」という名の親日統一組織に糾合され、日本の傀儡政権の受け皿作りをした。と同時に、日本は「大東亜共栄圏」なるペテンを謳い文句にして、彼らの文化や力の「無敵」性を宣伝するため、日本語教材を大量に出版したり、日本語学校を開設したり、展覧会や日本映画の上映会を開いたり、またインドシナと日本の留学生交換をおこなったりした。


 ・・・(以下略)

2 ベトミン戦線創設と闘争指導(1941・5~1945・3)(略)

3 日本のフランス打倒クーデターと抗日救国運動の高揚

(1) 日本のフランス打倒クーデター(1945年3月9日)
 ・・・
 クーデターは1945年3月9日夜から10日にかけて決行され、インドシナのフランス勢力は多少の弱々しい抵抗をしただけで、屈辱的な全面降伏をした。
 フランスを蹴散らしたのち、日本政府は「インドシナの各民族の独立を助ける」と声明し(!)、親日裏切り一派は「ベトナム独立!」を叫んだ。しかし、その直後のあからさまな事実が、声明のこけおどしでペテンの所以を明らかにしている。つまり、クーデターの4日後、十指にのぼる日本の軍人や政客が、フランスにかわってインドシナの総督、理事長官、知事などの地位を占めたのである。

 1945年3月16日、日本の同盟通信社はつぎのように報道している。「新政策によれば、安南王朝、カンボジア、ルアンプラバンの各政府は現在の政体を保持するが、フランスの植民地であったナムキーと半植民半保護下にあったバッキーとラオスは、政府が樹立されるまで理事長官や知事の一時的執政下におかれる」(『解放』紙1945年3月11日)。


 まもなく、日本は古い権力機構を廃止し、親日派のチャン・チョン・キムにベトナムの傀儡政府を作らせ、傀儡のバオダイに国王の名称を与えた。この一派も「愛国・愛民」を装おうとしたが、しだいに無力をさらけだした。実際は、インドシナの旧総督にかわって日本の「最高顧問」がすべての権限を握っていたからである。彼らは日本の従順な手先となり、日本がよりいっそう狡猾に、かつより多く、わが人民から搾取することを許した。モミの調達、田畑への麻の強制植えつけなどは依然として行われ、飢饉は一層深刻となった。そのうえに、日本の数限りない残虐行為があった。ベトバックにおけるベトミン根拠地への攻撃、逮捕者の拷問・殴打・拘禁・銃殺・陵辱・強奪などにより、民衆を恐怖におとしいれた。こうして、またたくうちに、ファシスト日本の偽りの恩情の姿が明らかとなり、親日傀儡一派の「独立」の仮面がすっかりはがれてしまった。わが人民は日増しに敵国日本を憎み、親日傀儡一派を嫌悪するようになった。

ラオスーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
高等学校2年生用『歴史 2』(ラーオ語)教育スポーツ文化省編 1980年版

第3部 第2次世界大戦(1939~45年)

第16課 第2次世界大戦の第2段階(1942~44年)
 
2 地中海地域におけるイタリア・ファシストの敗北と太平洋地域における日本ファ  シストの戦争拡大
 (前略)東洋では、日本は1941年4月にソ連と不戦条約を調印し、その後飛行機を使ってハワイの真珠湾を爆撃し、アメリカ海軍を殲滅させた。太平洋戦争はこうして始まった。そののち日本ファシスト軍は香港島、マレーシア、フィリピン、グアム、シンガポール、インドネシア、ビルマ、インドシナ半島などを奪取した。オーストラリアには攻撃すると脅迫した。つまり日本軍は、イギリス、フランス、アメリカの、東洋における植民地すべてを奪いとることになった。こうして日本軍は太平洋、東洋において単独の権力支配者となった。日本はこれら植民地の住民をだますために、大東亜共栄圏のスローガンをかかげて、それぞれの国に偽りの独立を与え、日本の目的や利益のために傀儡政権をつくりあげた。(後略)


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高等学校3年生用『歴史 3』(ラ-オ語)教育スポーツ文化省編 1983年版

6課 ラオス人民の主権奪回(1945年)

2 主権回復前のラオスの状況
 (前略)第2次世界大戦期フランスは、ヒトラー・ファシストによって手ひどく攻撃されていた。したがってフランスの、植民地に対する権力支配は弱くなっていた。アジア東部では、日本が自国の勢力を拡大しようと、大東亜共栄圏をスローガンにかかげ、開戦した。日本ファシストはインドシナ侵攻後、フランス植民地支配者に対し、インドシナをともに保護するという協定を強要した。この結果、インドシナはフランスと日本の植民地支配下におかれた。さらに日本はフランス帝国を駆逐するため、タイをあと押しして大タイ主義をラオスやカンボジアに拡大させた。そこでフランスとタイのあいだで、領土の奪いあいの戦いがおこった。そしてついに日本は、フランスに対して、メコン川右岸にあるチャムパサク州の一部とラオスのサイニャブ州、カンボジアのパッタボンとシアレムリアとシーソフォンを、タイに譲渡するようにさせた。インドシナにおけるフランス勢力の弱体化に乗じて、1945年3月9日、日本はインドシナ全体を奪い取り、自国の利益のために動いてくれる傀儡政権を設置した。


 日本支配下にあって、ラオス国民はきびしい労苦を強いられた。例えば戦略的道路建設を強制されたり、また武器運搬に従事させられたりした。

カンボジアーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
8年生用『カンプチア歴史』(クメール語)教育省編ホー・チミン市出版 1987年版

2課 第2次世界大戦期(1939~45年)のカンプチア
(注:1989年4月に「カンプチア人民共和国」は「カンボジア国」に国名変更)    

一、フランス=日本の二重支配のくびきのもとでのカンプチア

 1939年9月、第2次世界大戦が勃発した。フランスは敗北をこうむった。フランスの反動資本家は、ドイツのファシストに対して、1940年の敗北を受け入れ、ペタン元帥を擁立して、権力の座につけた。
 このような状況のもとで、ドイツと同盟した日本のファシストたちは、フランスを放逐し、インドシナ半島を日本の支配下におこうとして、ただちにインドシナに侵攻した。
 フランスの植民地主義者たちと日本のファシストたちは、互いに敵対し、相手を追放する機会をうかがう段階に入った。
 しかし、はじめのうちは、インドシナ人民の民族解放運動をつぶすために、フランスと日本は友好的関係にあるかのように見せかけていた。

1 フランスの植民地主義者の指導策略
 フランスの植民地主義者は2つの危機に直面していた、つまり、フランスの駆逐を目的とする日本と、インドシナ人民の民族解放革命の炎とである。しかし、巧妙な策略によって、フランス植民地主義者は、みずからの植民地支配制度を確固たるものとすることができた。

 フランスは自身の支配する人民のすべてを失わないようにしようとして、日本に権益の一部を分け与えることで、日本と妥協する道を選んだ。
 1940年8月には、日本からの強制があったわけでもないのに、インドシナにおける日本の軍事上、経済上の権益を認める一つの条約に署名した。(注:松岡・アンリ協定)

 1940年9月には、日本軍はランソン地域に侵入し、支配した。フランス植民地軍7は撤退し、日本にインドシナ北部を譲渡する条約を結ばなければならなかった。
 1941年9月、インドシナ総督ドゥクーは新たに日本との間に「インドシナ地域共同保護条約」という降伏条約を結び、カンプチアを含むインドシナ全土に日本軍が駐留することを承認77した。
 太平洋地域において、アメリカ、イギリスと日本との間に戦争が勃発して(1941年12月)から、日本のファシストたちは、ドゥクーに、一つの条約に署名するよう強制した(注:日・「仏印」軍事協定)。その条約は、アメリカ、イギリスの二国が日本軍を攻撃する場合に備えて、インドシナのフランス植民地政府を、日本と共同して、アメリカ、イギリスを相手に戦わせることを目的とするものであった。

 さらにフランスはその条約で、「日本軍の軍事行動を容易にする条件をつくり」、「日本軍に食糧を供給し、兵舎を建設し、日本軍の安全を保証するために、インドシナにおける社会秩序を維持」しなければならなかった。
 このように、この条約はビシー政府と日本の軍国主義者が、連合国とインドシナ人民とを相手に戦うために結託していたことを証明している。
 この時いらい、カンプチアを含むインドシナ人民は、二重支配のくびきを懸けられたのである。


 ・・・(以下略) 


2 日本のファシストの策略
 日本の帝国主義者たちは、昔からインドシナ進出の意図をもっていた。インドシナは日本経済に役立つ豊富な資源をもっているだけではない、そのうえに、東南アジア諸国に対して日本帝国の拡大主義政策をすすめるための、もっとも重要な戦略上の位置を占めていたのである。

 ヨーロッパ戦線において、日本の同盟国であるドイツにフランスが敗れた隙をついて、日本はフランスに強制して、先に述べたような条約を調印させたが、これはフランスをインドシナから少しずつ放逐するためであった。
 日本が自らの計画をすべて実行に移すための情勢が、まだ整っていないにもかかわらず、インドシナ方面の日本軍は、その侵略政策と拡大主義に利用するため、フランス植民地政府を掌握した。経済の面では、日本はインドシナのすべての市場を独占する手段を手にしようと努めた。日本製品のインドシナ市場への流入を図り、日本はフランス植民地主義者たちに、関税法の廃止を強制した(1941年6月より)。


 このほか、1945年初めの時点で60万人もいたインドシナ方面の日本軍への補給を、責任を持って行うよう、日本はフランスに強要した。日本の指令は、インドシナ銀行に、以下に示すような多額の資金を、日本軍を養うために提供させるようしむけるものであった。
1940年‥ 600万リエル
1941年‥ 5800万リエル 
1942年‥ 8660万リエル
1943年‥1億1720面リエル 
1944年前半の6ヶ月は、日本は3億1600万リエルを要求したが、当時のインドシナ全体の予算は2億1900万リエルであった。この金額を、日本製品への代価として清算しなければならなかった。しかし実際は、代価にみあう日本製品などありはしなかった。これはインドシナ人民に対する新たな重荷だった。さらに、日本はフランスに強制して、カンプチア農民に、田地の一部を供出させ、ジュート、ヒマなど、日本の軍需品のための工業用植物を植えさせた。これがもとで、1944年から1945年までのあいだにカンプチア人民の一部が死ぬこととなった。


・・・

 カンプチア人民に対して、侵略、独占、軍国主義政策を隠しておくため、日本は2つのごまかしのスローガンを掲げた。すなわち、「大東亜共栄圏」と「外国のくびきからの解放のための歴史的使命」とである。日本は「ユバン」という青年団を組織したが、これは、ソン・ゴク・タンとポック・チューンの二人を利用して、フランスから権力を奪取する考え力を養成し、親日的傾向の青年たちに「大クメール」民族主義思想を鼓舞するものであった。
 
 フランスと日本の帝国主義者たちは、ともにカンプチア人民の財産を奪い、カンプチア人民に何も考えさせないようにごまかしておくための策略を考え、、また互いに、権力を奪い取る隙をうかがっていた。
 カンプチア人民は、フランスと日本との二重のくびきに苦しまなければならなかった。


二 第2次世界大戦期のカンプチア人民の闘争運動

 農民階級と富裕階級の弱さがこのような状態をひき起こしてしまった。つまり、日本がカンプチアを支配したとき、声高に民族主義を掲げたのは、知識階級、とくに官吏と僧侶だけだった。その中の一部の人びとは、進歩主義の影響を受け、インドシナ共産党の影響を受けた。しかし、他の一部の人びとは日本軍の欺瞞の宣伝の罠に陥ってしまった。

1 親日派の活動
 フランスを追放する条件を整えようと、日本軍はつぎのスローガンを掲げて欺瞞的宣伝を行った。つまり「大東亜共栄圏」「アジア人民解放のための歴史的使命」を標榜し、そのために、大衆を引きつける手段として「大クメール」を利用したのである。さらに日本は、カンプチアの知識層を動員する基礎を築こうと、信頼のおける人びとを利用して、「カンパイタイ(憲兵隊)」と呼ばれるスパイ組織を作った。これら知識層の中に、あきらかに親日的傾向の2人がいた。ポック・チューンとソン・ゴク・タンである。ポック・チューンはパーリ語学校の教授であり、ソン・ゴク・タンはプノンペン仏教学院の司書であった。
 すでに1941年には、ソン・ゴク・タンとポック・チューンらは、日本と深く関係していた。1942年初めは、この一派は日本からの支援を得て、フランス植民地主義者と戦うために、クーデターの準備をしていた。


・・・(以下略)


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2014/06/05

アジアの教科書に書かれた日本の戦争 タイ

 タイには、大戦後今日にいたるまで、毎年12月8日に慰霊祭がいとなまれているところがあるという。ナコンシータマラートやプラチュアップキリカンである。そこには、タイ兵士の像をいただいた記念碑が建っているという。1941年12月8日、日本軍がタイの「中立」を侵し、タイの承認を得ないで上陸したため、それを阻止しようと果敢に戦い犠牲となった兵士や住民の慰霊祭であるという。日本軍の「タイ」上陸は、無血上陸ではなかったということである。

 ヨーロッパで第2次世界大戦が勃発したとき、ピブン・ソンクラーム陸軍元帥を首相とするタイ政府は、中立的立場をとることを表明した。そして、日本と友好関係を保ちつつ、同時にイギリス、フランスとも、相互不可侵条約を締結した。しかし、日本軍の上陸後、タイ国軍最高司令官であるピブン首相は、タイが日本軍に抵抗する力がないことを確認して、一部閣僚の反対を押し切り、日本と「日本軍のタイ国内通過承認協定」を締結した。そして、12月21日には、「タイ・日攻守同盟」を締結し、さらに、その翌年の1月25日には、当初の中立の立場放棄し、枢軸国の盟友として「対米英宣戦布告」をするに至るのである。

 ところが日本降伏直後の1945年8月16日、タイのプリディ・パノムヨン摂政は、「対米英宣戦布告はタイ国民の意思に反したものである。日本に強制されて行ったのであり、戦時中の損害についてはすべて補償を行う」という平和宣言を発した。アメリカ政府は、この「対米英宣戦布告無効」の平和宣言を即座に受け入れた。いくつかの要求項目をあげつつ、イギリスもこれを受け入れている。日本の強制を認めたということであろう。プリディ・パノムヨン摂政自身が、タイ国内に抗日地下部隊を設立し、アメリカやイギリスの自由タイ運動と連携しながら、連合軍の援助を続けていたということなども考慮されたのではないかと思う。

 タイの歴史教科書には、「日本の戦争」による被害の記述はほとんどないようであるが、「泰緬鉄道」建設工事には、他のアジア諸国同様、数万人の「ロームシャ」が動員され、過酷な労働を強いられたという。ビルマ経由の援蒋ルートの遮断と、インド侵入のためのビルマ作戦を進めるため、大本営が1942年6月に早期開通建設命令を出した「泰緬鉄道」建設工事は、難所が多く「枕木一本、人一人」といわれるほどの犠牲者を出したことで知られているが、タイのノンプラドックからビルマのタンビュザヤ間約415キロにわたる工事で、常識では考えられない突貫工事であったという。実数はわからないが、地元タイからも相当数の労務者が動員されたことは間違いないであろう。また、タイ国内に駐留する日本軍の軍需物資調達のために、多量の「軍票」が発行され、タイ経済が混乱したということも、他のアジア諸国と同様であったという。
 タイの歴史教科書に、「日本の戦争」による被害の記述がほとんどないということが、被害がなかったということではないことを忘れてはならないと思う。そういう意味で、「タイ人の多くは、日本がタイを占領し、横行することに不満を感じていた」という記述や、抗日組織が連合国側と協力し合い動いていたというような記述には、注目する必要があると思う。

 下記は、「アジアの教科書に書かれた日本の戦争 東南アジア編」越田 稜編著(梨の木舎)の、「タイ」から、私が記憶しておきたいと思った部分を、選んで抜粋したものである。

訳注
(1)タイ仏暦紀元は釈迦入滅のときで、西暦紀元前543年としている。したがって、仏暦を西暦におきかえるには、仏暦年号から543年を引けばよい。仏暦2482年は西暦1939年になる。

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中学校2年生用 社会科教育読本『歴史学 タイ2』(タイ語)教育委員会仏暦2523年(1980年)版

           第5章 開国から今日までの各国との同盟関係

 タイ国と第2次世界大戦への参画

 仏暦2382年(1939年)9月3日、ヨーロッパで第2次世界大戦が始まったとき、ピブン・ソンクラーム陸軍元帥を首相とするタイ政府は、中立的立場をとることを表明した。日本が、ドイツ・イタリアと同盟関係を結び、枢軸国となって以来、タイは戦争が近づきつつある危機を感じていた。そこで、領土保全のため友好条約に調印し、日本との相互友好関係を保った。同時にタイは、イギリス、フランスとも、相互不可侵条約を結んだ。

 ヨーロッパでの戦闘は当初、ヒトラー率いるドイツが、電撃戦でフランスをうち破った。そしてついにパリと北フランスを占領し、勝利を収めた。ペタン政府はドイツとの停戦条約調印を承認し、政府を南フランスのビシーに移さなければならなかった。

 タイ政府は、ペタン政権に文書を送る機会を得て、以前タイが割譲した仏領インドシナのルアンプラバーンとチャンパーの領有権を手に入れようと、国境の変更を要求した(両地域は仏暦2440年にフランスに割譲した領土で、タイとフランスのあいだで国境紛争があった)。要求は自然なものであり、公正なものであると思われていた。フランス政府はタイの要求を拒否した。仏暦2483年11月28日、タイと仏領インドシナとの国境で衝突が起こった。争いは1ヶ月と続かなかった。当時日本は東南アジアに指導力を有し、影響力をもっていた。そこで調停役としての義務を行使したのである。タイとフランスは東京での会議に代表を送り、ともに東京平和条約に調印した。仏暦2484年5月9日のことである。
 タイは要求通りに返却された領土と、プラタボーン、スリーソーパンとシャムラート(仏暦2449年にフランスに割譲したもの)も合わせて手に入れた。その後タイと日本は、二国の相互援助と東南アジアの平和維持に努めるという内容の文書に調印した。このことが、お互いの同盟関係強化を推進し、二国の経済的結束を固めることになった。この紛争問題は、日本に東南アジアでの役割と影響力を増大させるという利点をもたらした。領土返還に満足したタイ国民は、日本に対し大いに気をよくした。


 仏暦2484年12月8日、日本は、ハワイ諸島のアメリカ軍事基地である真珠湾を襲った。同時に、フィリピン群島、シンガポール、マライにも電撃戦で進軍し、攻撃した。それ以前に日本はタイに兵を派遣し、タイを通過するつもりであった。駐タイ日本大使は、英領(マラヤ、ビルマ)進攻のために、日本軍のタイ国領土内通過を要求した。翌朝、すなわち仏暦2484年12月8日、日本は軍勢を率いてタイ国内のいたる所に上陸した。プラチュアップキリカン、ナコンシータマラート、そしてソンクラーのタイ軍は、堅固な日本軍に抵抗して闘った。そのころ、タイ政府はイギリス政府と連絡を取っていた。イギリス政府は、タイが自衛手段に訴えてもかまわない、と返答した。ピブン・ソンクラーム陸軍元帥率いるタイ政府は、タイが日本軍に抵抗しうるかを審議した。そして軍事力が十分でないことから、政府は日本軍のタイ国内通過と、日本との秘密条約調印を承認した。仏暦2484年12月21日のことである。タイは日本と同盟関係を結び、アメリカ、イギリスとの戦争において日本を支援することにした。日本は失われたタイ国領土が、イギリスから返還されるよう働きかけた。そこでイギリスとアメリカはタイを攻撃し始め、雲行きがあやしくなってきた。仏暦2485年1月25日、タイはイギリスとアメリカに対して宣戦布告し、枢軸国の盟友として第2次世界大戦に参加することになった。

 タイ人の多くは、日本がタイを占領し、横行することに不満を感じていた。タイ人のグループのなかには、日本と同盟関係をもつという政府の方針に反対するものもあった。これら一般民衆グループには、連合国側から遣わされたリーダーがいたものと思われる。セーニー・プラモート駐米大使は明らかにその一例である。彼はアメリカ政府に対して、タイ国はやむをえず連合国側に宣戦布告したが、連合国との協力により、自由タイ運動の手はずを整えている、と説明した。アメリカ国内の自由タイ運動は、アメリカ政府の支援を得て順調にことを運んでいた。

 イギリス国内では、スパサワトウォンサニット・サワディワット親王が自由タイ運動の指導者となった。在英タイ人留学生の大部分は運動に参加し、イギリス政府の援助を受けた。アーナンタ・マヒドーン王の名代であるプリディ・パノムヨン摂政は、タイ国内に抗日地下部隊を設立した。そしてアメリカやイギリスの自由タイ運動と連絡をとりさまざまな行動を起こした。例えば、日本の兵力や動向に関する情報を連合国側に提供したり、破壊行為によって日本の通行を妨害したり、また日本兵を拘引したりして連合軍を援助した。


 日本軍が敗北を認めた仏暦2488年8月16日に、プリディ・パノムヨン摂政は国会の同意にもとづき、仏暦2485年1月25日の対英米宣戦布告は無効であると宣言した。また日本がタイに譲り渡した英領マラヤやビルマをイギリスに返還すると提案した(日本が譲渡したサイブリ、ケランタン、トレンガヌ、プルリスのマラヤ4州。これらは、仏暦2451年の条約により、イギリスがタイより譲り受けたビルマのシャン族の領土である。仏暦2489年、タイに返還された)。アメリカ政府は、タイの対米宣戦布告が無効であることを即時に認めた。こうしてタイは、対米宣戦布告の責任から逃れた。

 ・・・(以下略)

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2014/05/31

アジアの教科書に書かれた日本の戦争 ブルネイ・ミャンマー

 ブルネイは、カリマンタン島(ボルネオ島)北部に位置する三重県ほどの面積の小国である。北側が南シナ海に面するほかはマレーシアに取り囲まれているが、石油資源が豊富で、かつてはイギリス東洋艦隊の重要な燃料補給基地があり、イギリスの植民地であった。そのブルネイを、1941年12月16日、日本陸軍が攻撃し占領した。そして、日本が降伏するまで、ブルネイの人びとも、日本軍の圧政に苦しめられたのである。教科書の日本軍政下の記述内容は、それほど詳しいものではないが、「アジア人のためのアジア」をスローガンに「西洋列強を排除する企て」もってなされた、「東亜新秩序」の実態を、ブルネイの子どもたちが学んでいることを忘れてはならないと思う。

 また、イギリス軍を追い出し、バモオ博士を首班とする暫定内閣を組織させたミャンマー(ビルマ)における日本軍の軍政に関わる記述も、日本人には耳の痛いものばかりである。しかし、その「ファシスト日本の支配下においては、・・・」というような「日本時代」の悲しむべき数々の記述を、日本人がなかったことにしてはならないと思う。

 下記のような教科書の記述をしっかり踏まえ、それを乗り越えて、生まれ変わるしか「誇りを取り戻す」ことなどできないと思うのである。  

 下記は、「アジアの教科書に書かれた日本の戦争 東南アジア編」越田 稜編著(梨の木舎)の、「ブルネイ」および「ミャンマー」から、私が忘れてはならないと思った項目を、選んで抜粋したものである。
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初級中学校用『ブルネイの歴史』(英語)ブルネイ言語・図書委員会編1978年版

            三部    21 日本のブルネイ占領
 1938年、日本は「東亜新秩序」を宣言した。それは、日本が蒋介石政府をうち倒し、中国を掌中に収めるためのものであった。また、新秩序は、東南アジアにおけるすべての西洋列強を排除することも目的とした。日本のスローガンは”アジアのためのアジア”であった。

 日本陸軍は、東南アジア本土への第1回目の攻撃を陸から開始した。東南アジア本土に攻撃を加えながら、ブルネイにも日本陸軍は上陸していた。

 1941年12月16日、日本陸軍はクアラ・ベライトに上陸し、ただちにセリア油田を占領した。6日後の1941年12月22日、ブルネイ市は日本陸軍により占領され、ブルネイ政府のイギリス将校全員が捕虜となった。

 日本陸軍は、その後すぐ、その新秩序を宣伝し始めた。その新秩序は、日本陸軍の宣伝の方法が乱暴かつ横暴だったため、ブルネイの人びとの歓迎を受けなかった。クアラ・ベライトの住民は油田の労働にかり出され、村人は穀物の生産を強いられた。彼らはまた、日本の軍事規律を無視した者たちに対して行われた大量処刑を目の前で見させられた。

 商売の取引も行われなくなってしまった。2、3人の小売商人のみが配給係として、その商売を続けることを許された。ブルネイの住人にとって幸いなことに、政府が第2次世界大戦勃発以前に、大量の米の輸入を貿易業者に命じていた。米はブルネイの人びとにとって主要な食糧である。ブルネイ政府は、ヨーロッパの戦況から察して極東における輸送ルートがマヒしてしまうだろう、ということを考慮に入れて、このような行動をとった。それ故、日本がブルネイを占領した初めのころは食糧不足はなかった。しかし、十分であった食糧のすべての貯えも、1943年の終わりまでには使い果たされてしまった。日本軍もまた、食糧の欠乏に困窮していた。収穫の時期がくると、日本軍はほとんどの穀類を奪っていった。そのため、ブルネイの人びとは米不足に陥った。

 日本陸軍は、ブルネイを占領すると病院を管理下においた。当時薬品を手に入れるのは困難なことだった。マラリアが流行していたのに、日本陸軍その蔓延を予防しようとしなかった。

 日本陸軍は道路、排水、灌漑の管理に留意しなかった。彼らが修復したのは、わずかに、ブルネイ──トゥトン間とブルネイ──ムアラ間の道路のみであった。この2つの道路を日本軍が提案したのは、ムアラまで、石油のパイプラインをひくためであった。

 ムアラは貿易と漁業の小さな村であったが、日本陸軍により完全に破壊されてしまった。日本陸軍は、ムアラの向かい側の島を日本の艦船の基地として使いたかったのでる。

 日本陸軍は1943年末までに、ペアカス通り沿いにあるクンパン・パサン区画に小さな空港を建設した。その空港は泥炭質の土壌上につくられたため、軽飛行機だけが使用可能であった。
 現在その空港は、使いものにならない。

 日本陸軍がセリア油田を占有していたときには、159万4000英トンもの石油を確保していた。セリア油田は、日本陸軍が退却した1945年、日本陸軍の手によって破壊された。

 1945年6月10日、連合国軍の軍隊がムアラに上陸し、ただちにブルネイに向かって進軍した。そのころ、日本陸軍は自分たちの施設を壊し、セリア油田を焼失させるのに余念がなかった。日本陸軍は、自分たちが東南アジアで敗北したことを察知していた。退却するまえに、日本陸軍は反日運動を組織したと思われる人たちを殺した。

 日本陸軍がブルネイから立ちさると、新政府がイギリス軍政のもとにおかれた。ベルネイは新しい局面を迎えた。食糧、衣料が全住民に無料配布された。病人は病院での看護が受けられるようになった。住民の健康はしだいに快方にむかい、貿易も徐々に再興した。1945年7月6日、ブルネイの統治は民政の手に移った。


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8年生用『ビルマ史』(ビルマ語)ビルマ連邦社会主義共和国教育省初等中等教育カリキュラム・教科書委員会編 1987年版

                 二 民族解放闘争

2 反日・反ファシスト闘争(1942~1945年)
 
1 状況と情勢
 「独立」したとはいえ、ビルマ政府には本来あるべき権限はなかった。ファシスト日本が許容した権限があっただけである。日本時代にもっとも強大な権力を見せつけたのは、日本軍のキンペイタイ(憲兵隊のこと)である。憲兵隊が管轄し、処理する事柄については、階級の上下を問わず、いかなる日本軍将校も口出しできなかった。一般の国民は、憲兵隊の思うがままに逮捕され、拷問され、さらには虐殺されたのである。こうしたファシストの弾圧の結果、無法者から学歴があまりない者までが、反乱への怒りの炎をたぎらせた。真の独立を望む声は全土に広がった。民族、男女を問わず、僧侶も一般国民も、ファシスト日本に反乱を起こそうという強い決意を抱くようになった。

 ビルマ軍は、30人志士に始まり、ビルマ独立義勇軍=BIA、ビルマ防衛軍=BDAを経て、ビルマ国軍(BNA=Burma National Army)へと変遷をとげていた。この間、国内においては、ミンガラドン士官学校、国外では、海南島、台湾そして日本の士官学校での訓練を積み、さらには、日本軍とともにイギリス軍と戦って、実戦のよき経験を重ねてきた。ファシスト日本に対して反乱を起こすために、ビルマ軍は、精神面でも、戦闘技術についても向上してきていた。

 情勢の推移にともない、日本と接触をもたざるをえない状況となったが、ファシストの本質についての理解は浸透しており、時がくれば一斉に蜂起することを、ごく初期の段階からビルマの指導者たちは、考えていた。また、タキン・テインペイ、タキン・ティンシュエら一部の指導者は、日本軍の侵攻直後からインドへ渡り、連合軍司令部と接触を保っていた。

 1944年8月には、ファシスト打倒連盟(AFO=Anti Fascist Organization)が結成され、ビルマ国軍、共産党、人民革命党がこれに加わった。その後、しばらくして、ラカイン民族連盟、カレン中央本部、東アジア青年連盟なども加わってきた。のちに、この組織は、反ファシスト人民自由連盟(AFPFL=Anti Fascist People's Freedom League)と名称を変更した。
 1944年には、連合軍指導部と合意に達し、44年末から45年初めには、武器援助を得るようになった。連合軍は、ラカイン地方やカレン方面での戦闘に勝利をおさめ、ビルマ国内へ進撃してきた。対日反乱の機は熟してきたのである。


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                    三 独立獲得

2 日本時代

2 経済
 日本は、ビルマ国民が必要とする物資を供給できなかったばかりか、物資を運搬する船舶にも不足をきたしていた。ビルマからは、米、チーク材、綿花を始め、鉄屑や古自動車にいたるまで、あらゆる物を日本へと持ち去った。

 日本の銀行は、まったく保証のない紙幣(=軍票)を際限なく発行し、ビルマの経済を破壊した。価値のない紙幣で米や穀物を買い、ときにはそれさえも払わずに持ち去ることもあった。日本時代の外国貿易は、三井や三菱といった日本の大企業に独占されていた。
 日本時代には、ビルマの国民は食糧、衣料品、医薬品などの不足に苦しめられた。米の足りない地域では、豆やトウモロコシ、タロ芋などを米の代わりにした。医薬品への不足は食料の不足よりもっと深刻であった。ビルマでとれるすべての綿花だけでなく古着にいたるまで日本人が持ち去った。こうして、日本時代、ビルマの経済は壊滅的な打撃を受けたのである。

3 社会
 ファシスト日本の支配下においては、軍事目的に使うという大義名分によって、国民は貴金属を強制的に供出させられた。さらに、働ける男は労務者として狩りだされた。国民はさらに、イギリス植民地軍の反攻のために度重なる苦しみを味わった。
 また、ファシスト日本の支配下では、食糧、衣料品、住宅、医薬品の欠乏のため、マラリア、天然痘、ペスト、疥癬といった病気が蔓延した。爆撃や銃撃のために負傷した人々も十分な治療を受けられなかった。


 着るものもなく、治療するための薬もなく、さまざまな経済的な落ちこみのためにビルマの国民は貧しい生活を強いられた。しかし、日本人に取りいり、不法なやり方で利得を狙った者たちは潤った。ファシスト日本が支配した時代には、社会にまとまりがなく、教育もまたほとんどなきに等しい状態であったため、道徳や規律は乱れ、人びとの精神も退廃した。

 「ワ}部隊と呼ばれる公務員部隊が編成されたが、国民の利益のために何一つできなかった。東アジア青年同盟が組織されて以降は、社会的活動や組織活動が有効に行われるようになった。
 日本時代には、ビルマ語が公用語になった。英語に代わって日本語を学ばなければならなかった。 

 
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2014年7月

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