2014/09/02

日本人戦犯自筆供述書 第117師団師団長 鈴木啓久

 下記は、「侵略の証言 中国における日本人戦犯自筆供述書」新井利男・藤原彰編(岩波書店)から、第117師団師団長・陸軍中将鈴木啓久の供述調書のごく一部、毒瓦斯攻撃や慰安所 設置の命令、「三光政策」に関わる命令などの記述が含まれている部分を抜粋したものである。

 第117師団師団長・陸軍中将鈴木啓久が拘留された中国の撫順戦犯管理所で、日本人戦犯が厚遇されたことはよく知られている。それは、周恩来を中心とする中国の、将来を見据えた戦犯政策によるものである。食糧不足にもかかわらず、食事内容では、主食は全員白米と小麦粉とし、日本民族の風俗習慣を尊重した献立にすることが指示された。さらに、戦犯の管理は厳重にするが、ひとりひとりの人格を尊重し、決して殴ったり罵ったり侮蔑したりしないことなどが職員に徹底されたという。そういう戦犯政策を、被害者である中国人職員に納得させることは容易ではなかったようである。

 厚遇され続けた撫順戦犯管理所の日本人戦犯たちに変化があらわれるのは、およそ半年ほど後である。どんな侮蔑的言葉を投げかけても、平然とした態度で、献身的に世話を続ける職員たちに、日本人戦犯たちは次第に心を動かされ、尊敬の念さえ抱くようになっていったというのである。そして、日中戦争中の自分たちの行為、中国人を差別し、侮蔑し、殴り、拷問を加え、殺した行為と重ね合わせ、胸が痛んだで自分たちの過ちを認め、心から謝罪する気持ちに変わっていったというのである。

 しかし、過ちを認め謝罪する気持ちになっても、ひとりひとりが自らの残虐行為や陵辱行為を、具体的に告白することは簡単なことではない。大変な勇気を必要とする。その罪行告白の突破口になったのが、全戦犯が集められた管理所の中庭で壇上に立った、元第39師団第232聯隊第1大隊中隊長・宮崎弘の「担白(タンパイ)(すべての罪をさらけ出し告白すること)」であったという。それは、

 「天皇を崇拝し、優秀な大和民族が大東亜共栄圏を建設して東洋の盟主となり、アジアを主導統治するのは当然のこと」、「三光政策を積極的に進めることが、忠君愛国の道、戦争勝利の道」だと信じて行動してきたが 振り返ってみると、自分は「初年兵教育の教官だったとき、模範を示すために十数名を刺突し」、「部落襲撃時には老人や子どもを銃剣で突き刺し」、「逃げ遅れた妊婦を裸にして殺し」、「村中に放火する」という残虐行為を繰り返してきたに過ぎなかった、と涙ながらに「担白」し、「わたしは人間の皮をかぶった鬼でした。今ここに中国人民に心からおわびし、このうえはいかなる処罰も受ける覚悟です」というような内容であった。

 その「担白」が戦犯の罪行告白の流れをつくり、それが次第に佐官や将官級にも及んでいったという。 

 そして、54年1月から、中国政府の戦犯に対する本格的な罪状調査が始まるのである。審問は決して強制せず、自白を尊重し、罪行は事実のみを正確に、拡大せず縮小もしないで記録することが重視されたとのことである。調査団は、中国各地の被害者や遺族の告訴状などをもとにした証拠を揃えながらも、戦犯自ら告白するまで、それらを突きつけて自白を迫ることは極力避けたという。
 尉官以下級の罪行が固められると、それをもとに佐官、将官級の罪行が追及されたので、それは網羅的で詳細である。

 また、供述書は、事件の日時や場所、人名、民家焼却数、掠奪物質、人民殺害の方法と人数、強姦、誘拐人数など、きわめて具体的で詳細であるが、それは、日本人戦犯がそれぞれ所属した師団、部隊、憲兵、警察、司法などでグループをつくり、繰り返し当時を思い出しながら語り合って、事実をつき合わせた結果であるという。

 1956年6~7月、瀋陽と太原で「最高人民法院特別軍事法廷」が開かれた。起訴されたのは45名。その判決に、死刑や無期刑の者はひとりもいなかった。最高が禁固20年で、それにはソ連での抑留5年と中国で戦犯として拘留された6年が算入され、ほとんどが満期前に釈放され帰国したのである(鈴木啓久も満期前の63年6月に釈放されている)。他の1016名は、不起訴即時釈放で帰国している。
 
 撫順と太原の戦犯管理所で、自らの罪行と向き合った多くの人びとは、帰国後、中国帰還者連絡会(略称:中帰連)を結成し、自分たちの罪行を語り伝えるとともに、「戦争反対」「日中友好」を訴え続けたが、そういう意味では、周恩来の戦犯政策に基づき、戦犯管理所が行ったことは、天皇制軍国主義に染まった日本人戦犯の再教育であり、人間性を呼び覚ます実践であったといえると思う。

 但し、中帰連の名簿に「鈴木啓久」の名前が見当たらず、後に、彼は”審問には不本意ながら同意せざるを得なかった部分がある”というような内容のことを言ったとされていることが、気になるところである。
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             第1章 日本軍は何をしたか
筆供自述
              第117師団師団長・陸軍中将 鈴木啓久

 第2 罪行


 4 歩兵第67聯隊長の時の罪行

 1940年8月、私は第15師団歩兵第67聯隊長として南京に侵入し、南京市及其の附近の警備並に南京蕪湖間鉄道一部の警備の任務を受けました。
 之れが為め私は一般方針として部下に指示しました。即ち「南京市は日本の中国侵略の中枢地であるからよく治安を保持し、警戒心を高め管内に於ける抗日勢力を徹底的に掃滅せねばならぬ。之れが為め常に積極的に行動し荀(イヤシ)くも間隙を与ふるが如きことあってはならぬ」
 (1)1940年8月下旬、南京北方六合附近の侵略作戦に参加し、同地北方約40粁(キロ)に於て某村落を占領して居った解放軍百余名を攻撃し、解放軍約20名を殺害し、又砲撃に依り中国人民家屋約10戸を破壊しました。又六合北方約30粁に在る中国人民村約200戸を、私は焼却を命令しました。

 (2)9月、私は師団長熊谷中将の実施せる宣城侵略作戦に参加しました時、宣城西方約40粁附近に於て、抗日国民党軍の旁系軍50名家屋内に退避せるを発見致しまして、私は第1大隊長角田少佐に毒瓦斯攻撃を命じ其の全員を惨殺致しました。

 (3)9月下旬、当塗東方約40粁に在る高淳に私が蟠居を命じた中隊が、抗日紅槍会団の反撃を受けましたとき、此の中隊が紅槍会員20名を殺害しました。

 (4) 1941年1月─2月間私は第11軍第17師団に臨時配属せられ軍司令官園部中将の指導せる漢口北方遂平、泌陽附近の侵略作戦に於てだ17師団長平林中将指揮の下に此の作戦に参加しました。
 本侵略作戦中、私は1月下旬、駐馬店西側に於て、抗日国民党旁系軍約100名が村落を占領しあるに対して包囲攻撃を行ひ、其の20名を殺害し、中国人民の家屋2戸を焼却しました。
 次で私は遂平を占領しありし抗日国民党軍を攻撃し、其の10名を殺害し、又私は西平に於て同地を占領しありし抗日国民党軍に対し一部を以て其の正面より、私自身は主力を以てその側面より包囲する如く攻撃し、抗日国民党軍30名を、又抗日国民党軍に属する愛国工作員1名を殺害し、重機関銃1を掠奪しました。此際砲撃等に依り中国人民の家屋5戸を焼却し10戸を破壊しました。

 2月上旬、泌陽平地東北角に於て、抗日国民党軍に属する後方部隊を発見し、私は、其の後方より攻撃を行ひ、機関砲弾薬十数箱、医療薬品数箱を掠奪しました。

 (5) 4月、私は第15歩兵団長赤鹿少将の実施せる襄安、盛家橋附近の侵略作戦に参加し、襄安に於ては抗日国民党軍の同地周辺を防御しあるを包囲攻撃し、抗日国民党軍10名を殺害し、軽機関銃2挺を掠奪し、盛家橋附近に於ては同地附近に在る抗日国民党に対し私は先づ第1大隊長角田少佐をしてその側面より攻撃せしめ、私自身は聯隊主力を指揮して第1大隊と連繋して包囲殲滅せんことを期しましたが、抗日国民党軍の大部は後退せる為め其の一部を攻撃し抗日国民党軍20名を殺害し、迫撃砲2門を掠奪しました。
 此の侵略作戦に於て中国人民の家畜、家禽数百を掠奪した。


 (6) 次で、抗日国民党軍の反撃に備へ、私は大隊長松尾少佐をして2中隊を指揮せしめ、盛家橋に蟠居(注1)せしめたるに対し5月下旬抗日国民党軍約500名反撃し来りしとき、同軍約10名を殺害しました。
 而して私は師団命令により主力を巣県に集結し淮南鉄道一部の警備に任ぜしめられました。

(7) 5月下旬、私は巣県東方和県附近に侵略行軍を実施しました時、抗日紅槍会団約300名を攻撃し、その40名を殺害しました。

 (8) 7月中旬、私に対し抗日国民党旁系軍劉工作を某は機関銃4を有する約1000名と共に帰順を申し出でて来ましたので私は之を許可し其の軍の原駐地たる巣県西方地区に於て反共工作を行ふ様命令しました。

 (9) 私は巣県に於て慰安所を設置することを副官堀尾少佐に命令して之を設置せしめ、中国人及朝鮮人婦女20名を誘拐して慰安婦となさしめました。

 (10) 7月下旬、日本財閥三井と南京に蟠居せる日本侵略軍司令官西尾大将の直接隷下に在る陸軍貨物廠とが結合して、巣県附近に於ける米を掠奪の為来りしとき、私は之を援助し集荷に助力し約100噸の米を掠奪せしめました。


 5 第27歩兵団長の時の罪行

 1941年10月、私は第27歩兵団長として天津に侵入し、間もなく滄県に蟠居し該地区の鉄道、交通路等の警備及同地区内の、治安維持をの任務を受けました。依って私は部下に対し次の如き指示を与へたのであります。
「治安維持とは当方面に於ては剿共を以って根元とするものである。剿共なくしては治安維持は達せられないのである故に、八路軍の情報を迅速確実に獲得する如くし、創意工夫を廻らし、積極的に討伐を実施すべきである」此の指示の意とする所は積極的に且つ凡有方法手段を竭(ツク)して八路軍及其の関係員を剿滅すべきことを示したのであります。

 当時私の指揮下に在るものは、天津に蟠居せる第2聯隊と、滄県に蟠居せる第3聯隊とを指揮しました。而して第2聯隊の2大隊は天津に、1大隊は其北方4粁の地点に蟠居せしめ、第3聯隊の1ヶ大隊は河間に、1ヶ大隊は滄県に、他の1ヶ大隊を棗強に蟠居せしめ各々地域を与えて八路軍の剿滅に努力せしめたのであります。
 (1)1941年11月下旬より12月上旬に亘り、私は第3聯隊の大部分と第2聯隊の一部とを指揮し、献県附近の八路軍に対し侵略討伐を実施し致しました。
 此の間私は各部隊をして密偵を使用せしめ、八路軍の工作員を逮捕する如く命じたる為、多くの村落に於て中国人民を逮捕し数十名拷問致しました。又此の行動間に於て家畜約百頭、野菜多量を掠奪しました。


 (2)11月下旬頃、私の平時の命令に基づき、棗強に蟠居せる第3聯隊第3大隊長小川少佐は、棗強南方地区に八路軍が活動中なりとの情報の下に直ちに出動、八路軍を攻撃して八路軍約10名をを殺害し、且つ約600戸ある村落を2個焼却し、此の時中国人民の農民100名を屠殺致しました。

 (3)12月中旬、私は第3聯隊の約1大隊半を直接指揮し、滄県東方戟門附近侵略作戦を行ひました。此の際行軍途上に於て八路軍の情報を得る為、中国人民を捕へ八路軍の情報を尋ねしときに情報を提供せざるの故を以て中国人民十数名を殴打拷問しました。

 (4)12月中旬頃、滄県に蟠居中の第3聯隊の一中隊は滄県西方地区に於て八路軍約100名が活動中なりとの情報を得、私の平素の命令により此の八路軍を攻撃し自転車を利用せる追撃戦を戦い行ひ、八路軍約10名を殺害し、小銃十数挺を掠奪しました。

 私は1941年12月下旬頃、第27師団長冨永中将の命令に依り唐山に移り第1聯隊と次いで増加し来たりし第3聯隊とを合わせ指揮し、兵力を2倍となし、唐山地区に於ける鉄道、交通路の警備及び治安維持の命令の下に華北侵略拠点の侵略の任務に服したのであります。


 本地区は八路軍の活動極めて活発であるのと、日本帝国主義者の華北侵略の為めの重要なる拠点であるので、私は部下に対し内容次の如き命令を下し、平素に於ける政策となしたのであります。即ち
「此の地区は日本の中国を侵略する基点となるのであるから、我々は此の地区を確保し得ると否とは日本の中国侵略を実現する為めに重大なる重大なる関係を持つのであるから、我々は凡有方法と手段を尽して此の仕事を完遂せねばならぬ。故に若し日本軍の意図に背くものあらば徹底的に覆滅し、又物資の如きはなし得る限り日本軍の掌握下に置かねばならぬ」
 右の命令によりて、最も惨酷なる「三光」政策を採用せるものでありまして、総てが此の命令を基礎とし、又其の目的を達成する為めには如何なる手段をも選ぶことがないのであります。

 又八路軍に対しましても、右の政策を根基として、大要次の如き方策を実行する様命令したのでああります。

(イ)八路軍は徹底的に殲滅すべし
(ロ)八路軍に属する愛国工作員、通信員、又は八路軍との通謀者は悉(コトゴト)く剿
  滅すべし
(ハ)反共自衛団は極力支援すべし
(ニ)反共教育を行ふものあらば極力支援すべし
(ホ)前記愛国工作員等を剿滅する為め必要に応じて徹底的に剔抉(テツケツ)粛清を
  実施すべし
(ヘ)八路軍を消滅する為め、又はその活動を阻害する為め、遮断壕及附属望楼を
  構築すべし
(ト)長城線附近2粁以内に於て八路軍の根拠地となり、又は八路軍の利用し得る
  所の住民を悉く追い払ひ、無住地帯となすべしとの北支方面軍司令官岡村寧
  次の命令を厳に実行すべし
(チ)日本侵略軍の蟠居地附近一帯の中国人民をして極力八路軍に反対せしめ、且
  つ八路軍の情報は自発的に日本侵略軍に提供せしむる如く指導すべし
(リ)偽軍、偽県警備隊を指導支援し、又督励して八路軍の活動を妨害せしむべし
 
 私は唐山に侵入するや直ちに各隊を巡視して、此の政策の実施を督励し、且つ聯隊本部の蟠居地を指定し、且つ各聯隊の警備担任地域を示したのであります。

 ・・・(以下略)

蟠居:(バンキョ)占拠のこと。広い土地を占領し勢力を張るという意味で、中国共産党側が日本軍に対して使用した。 
剿共:(ソウキョウ)共産党や共産軍の勢力を滅ぼしつくすこと。日本軍側の用語
 


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2014/08/27

日本人戦犯自筆供述書 元満州国総務庁次長 古海忠之

 もうすでに、戦後69年が経過したのに、中国が日本人戦犯裁判における旧日本軍軍人や旧満州国官吏たちの供述書をネット上に公開した。(http://61.135.203.68/rbzf/index.htm)
  1950年代半ばに、中国戦犯管理所において、日本の軍人や官吏たちが自らの罪を認め記したものである。今頃その供述書を公開するのは、最近の日本の動きに対応するものであろうと思う。
      
  先ごろ日本は、領有権をめぐって議論のある尖閣諸島を、日中の「棚上げ合意」を無視するかたちで国有化した。
  また、近隣諸国が問題視し、国連事務総長さえ
「過去に関する緊張が、今も(北東アジアの)地域を苦悩させていることは非常に遺憾だ」との声明を発表しているにもかかわらず、A級戦犯が合祀された靖国神社に首相や閣僚、国会議員などが公然と参拝を繰り返している。
  さらに、日米同盟強化を掲げるのみならず、集団的自衛権行使容認の閣議決定をした。
  中国は、こうした日本の動きが受け入れ難いのであろうと思う。
  それにしても、供述書のネット上への公開は、考えさせられる。なぜなら、戦時中の数々の事実が、単なる過去の歴史としてではなく、恐怖や憎しみを伴った 体験として、追体験するかたちで、再び広く認識されることになれば、日中の溝はますます深まり、埋めることが一層難しくなると思うからである。また、ネッ ト上に公開されたことで、国際社会における日本の評価にも影響するのではないか思う。
      
  日本が近隣諸国はもちろん、国際社会に平和主義の国家として受け入れられるためには、戦時中の加害の事実を含めた正しい歴史認識が欠かせないと思う。過去との向き合い方では、ドイツを見習うべきであろう。
       
  日本が、秘かに国際法に違反する阿片政策を進めていたことは、すでに、
「日本の阿片戦略-隠された国家犯罪」倉橋正直(共栄書房)や「証言 日中アヘン戦争」江口圭一(編)及川勝三/丹羽郁也(岩波ブックレットNO.215)「続・現代史資料(12)阿片問題」(みすず書房)な どの文章の一部抜粋で紹介した(それらは、次のように題している。「戦争期の日本の国家犯罪”阿片政策”」「日本の麻薬取扱業者とモルヒネ蔓延の状況」 「朝鮮における巧妙な阿片・モルヒネ政策」「海南島でアヘン生産-日本の密かな国策」「「阿片王」里見甫(里見機関)と関東軍軍事機密費」「日本の阿片政 策と日本非難の国際世論」「日中戦争の秘密兵器=麻薬」「日中戦争の秘密兵器=麻薬 NO2」「田中隆吉尋問調書-阿片・麻薬売買と軍事機密費」「田中隆 吉尋問調書と阿片・麻薬問題 NO2」)。
      
 
「日本軍閥暗闘史」(中公文庫)では、関東軍参謀や陸軍省兵務課長・同局長など、長く軍の要職にあり、自身様々な謀略工作に直接関わった軍人「田中隆吉」が、自ら多額の機密費が阿片・麻薬売買から生み出されたことを指摘し、かつ「私はこの機密費の撒布が極めて大なる効果を挙げたことを拒み得ない。東条内閣に至っては半ば公然とこの機密費をバラ撒いた 。…」などと、軍の機密費が、「日本の針路を左右」するものであったと記していることも紹介した。
      
  そうしたことが単なる憶測ではないことは、下記の供述書の抜粋からも分かる。ここでは、
「侵略の証言 中国における日本人戦犯自筆供述書」新井利男・藤原彰編(岩波書店)から、今回供述書がネット上に公開された中のひとりである元満州国総務庁次長「古海忠之」の、満州国における「阿片政策」に関する文章の一部を抜粋した。出だしの文章が衝撃的であるが、様々な情報を総合的に考えると、否定し難い事実の証言であろう。
      
  なお、「阿片」が「亜片」という表記になっているが、そのまま「亜片」で通した。また、漢字のすぐ後にある( )内の片仮名は、同書でつけられている読み仮名である。
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            満州国亜片(阿片)政策に関する陳述
                                                  古海忠之
      
       阿片専売制の概要
      
  人類乃至(ナイシ)民族の身心弱廃より、延(ヒ)いてはその衰亡を齎(モタラ)す以外の何物にも非ざる亜片吸飲を許容、維持、又は助長するは、其の本質 に於て既に犯罪である。然れども、帝国主義的侵略に於ては、亜片政策の採用は最も必要なる常套手段にして、法律、制度などに依りて粉飾合理化せられ、被侵 略者の衰亡を培ひて自己の目的を確保すると共に、有力なる財政収入を挙ぐる副目的をさえ達し得るのである。
      
  満州国に於ては、1933年2月、関東軍が亜片産地たる熱河省を侵攻すると同時に、亜片政策は財政収入確保の緊急必要を理由として、早くも採用せられる ことになった。斯くて中国人民に対する犯罪が開始されることになったのである。小生も、満州国官吏として各職務に応じて之に関係し、一役を演ずる人物とな つたことは当然であつて、其の顛末の概要は次の如くである。
      
  1933年2月、関東軍が熱河に対し軍事行動を開始する以前に於て、既に関東軍に於て亜片政策に関する研究に着手し、関東軍主(首)脳者参謀長小磯国 昭、参謀副長岡村寧次、第3課長原田熊吉と総務長官代理阪谷希一、及び財務部総務司長星野直樹の間に於て、亜片政策に関する根本方針が確定され居たること は明瞭である。2月初旬、星野直樹は、主計処長松田令輔、特別会計科長毛利英菸兎(ヒデオト)、及一般会計科長たりし小生に対し「亜片専売を実施するの だが、専売の日系主(ママ)脳者としては誰が良からうか?」との相談を受けた事実がある。帝国主義的意識の持ち主であつた我々は、無論亜片専売に異議があ る筈もなく、結局現地には適任者見当たらず、難波経一(当時神戸税務署長)を招致することに決し、難波経一は2月下旬、新京に赴任し、亜片専売の疇備 (チュウビ:準備)に当たることになった。当時一番問題となったのは、専売の対照(ママ)たる亜片であった。熱河亜片は未だ入手の由なく、国内他地域参 品も唐突の際、入手極めて困難であって、結局厳密裡に難波経一を天津に派遣して北支方面の亜片を買集めしめ、一方外国亜片の輸入に依るの非道なる処置を取 つたのである。国外より亜片を輸入すれば、少なくとも其限度に於て亜片吸飲者を増加し、害毒を助長することは自明の理であるが、斯ることは固より意に介し なかった。

      
   
(此問題は、絶対厳秘に附せられてゐた。私は難波経一より亜片専売開設の苦心談として内証で聞 かされたものであり、其時期は当時私が錦州出張中(3月中旬──6月中旬迄)であつたのだから、3月末熱河民食問題で新京に帰った時か、6月中旬以降であ るか不明確である。難波は月余に亘り天津に在りて、約50万両の亜片を入手し、国内集荷の約20万両と合し、70万両の手持ちを以て亜片専売を開始した。 外国輸入亜片は「ペルシャ亜片であって、三井物産の手を経、約200万両(記憶明確ならず)であつて、其の価格は運賃込1両4元見当であつた。之等の事は 星野直樹、難波経一の責任に属する。外国亜片は爾後購入したことはなく、専ら熱河省を中心とする国内亜片に依つて専売は運営された)
      
  3月中旬、全満の亜片栽培を禁止し、亜片の栽培は熱河省に限定する方針を決定し、亜片栽培の許可制、販売許可制、国家の完全収買等を内容とする専売法が 実施せられた。亜片の栽培を熱河省に限定したのは、主として治安維持、及び取締上の関係であつたと言ふ。尚一方、熱河省に於ける亜片栽培助長の措置が講ぜ られた。此時以来、熱河省の亜片中心産業経済といふ其の畸形と罪悪性、従って思想的及肉体的堕落の維持乃至は助長が約束され、運命づけられる不幸に陥っ た。
      

   
(3月下旬、小生錦州在勤中、財政部税務司長源田松三が「全満他地域の亜片栽培を禁止し、熱河 省のみに之を許すことに政府で決定したから栽培に努めよ。但し亜片は全部政府に売渡し、之に違反するものは処罰さるべし」と言ふ趣旨の財政部名の伝単を提 へて錦州に来たり飛行機にて之を熱河省に撒布した事実あり)
      
  専売法に基き財政的処置が採られ、専売特別会計設置を見、専売特別会計予算(1933年4月──6月末迄)が成立し、専売所官制が発布になつたのは4月 と思惟す。機構は署長(満)副署長(難波経一)の下に総務科、収納科、販売科、製造科、緝私(チュウシ:取締)科を本署とし、地方に専売支所(奉天、吉 林、哈爾浜(ハルピン)、斉々哈爾(チチハル)、承徳)及び煙膏製造所(奉天)等が設置された。多数の緝私員(密売取締員)を置いたことは固よりであ る。

      
 
最初3ヶ月、予算は金額等全然承知しないが、1933年7月──1934年6月に到る専売特別会計予算は、大約700万円、専売益金の一般会計の繰入は370万円見当、其の当時の総予算の3分見当である。
   (この予算は、主計処長松田令輔、特別会計科長毛里英菸兎に依つて編成せられ、私も一般会計科長として相談に与り、署内会議には列席した)
      
  斯くして専売制度の下に満州国の亜片政策は推進された。専売当時は栽培許可制を採ってゐたとは言へ、それは単に取締上の事に過ぎず、作付け面積の指定の 如きは勿論なく、多多益々弁ずる状態であつた。専売署の収買量は逐年増加し、250万両程度から始まつて600万両を越すに到つた。それに比例して専売益 金は次第に増加し、300余万円が4千万円を越すに到つた。亜片の栽培面積が増加して、産量が上がつた事は言ふ迄もない。亜片に附物の密売買を含めば、莫 大な量に上つた。之に応じ、国民身心の弱廃虚脱を通じて反日本帝国主義的勢力の弱化を、財政収入の増加と言ふ商品附きで亜片専売は遺憾なくは収得していた のである。

      
 
此の制度には、尚見下し得ない他の一面を持つて居る。満州国専売署に於ては、亜片の収買に就 て官庁が直接収買に当たる制度を採らず、収買人制度を採用した。即ち地域を分かち、各地区毎に若干名の元受収買人を置き、其責任の下に多数の収買人を使用 して、直接農民から亜片を収買すると云ふ制度である。そして元受収買人は、一定資格を有する者から専売署が指定するのである。専売署は年毎に品質に基づく 等級別価格(上中下三階級と記憶す)を元受収買人に示して収買せしめ、主として承徳の専売支所に納入せしめる。この元受収買人は、一度専売本署から指定を 受けるや否や、特権者となり、農民に当たるわけであつて、茲に農民より搾取、又は欺瞞其他その種々の不正が叢生し、又は私腹を肥やして巨富を致す余地が多 分に存在する。官吏又は緝私員との間に発生した不正も相当件数に上ることは、難波副署長が「警察へ行くのも俺の仕事の一つだよ」と私に嘆じたことが、之を 証明してゐる。
      
   (亜片の収買価格は初期の頃は平均価格(予算に掲(ママ)上した)は1円50銭であり、中期には8円であり、売下価格は初期3円程度、中期には平均15円であった。後数次に亘り共に引き上げた記憶あり。特に売下価格に於いて其比率は多かつた。)

      
 
販売制度に就て之を見れば、全満を地区に分ち、各地区毎に元売捌人(モトウリサバキニン) が居り、此の元売捌人から区内の各零売所に売下げ小売するといふ制度で、元売捌人は、専売本署が一定条件具有者中から指定し、一定金額(取扱数量に応じ た)の担保を取つて営業せしめ、零売署は、専売支所が申請に基き許可する仕組である。之こそ一度指定又は許可を得れば、忽ち不労所得にありつく確実な特権 者たるを得るのであつて、此等収買及び販売組織を巡つて帝国主義者の手先どもが暗躍し、不浄の金で肥え太つたことは想像に難からずである。
      
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2014/08/16

ベトナム 200万人「餓死」とキムソン村襲撃事件

 1945年3月9日、日本軍はそれまで共同支配者であったフランスを排除し、インドシナ全域を日本の単独支配下においた(仏印処理)。そして日本軍は親日団体である大越(ダイヴェト)に村長や地主など村の上層部を組織し、米の供出などの対日協力を要請した。しかしながら、農村地帯にはこうした親日組織と対立するベトミン系の組織があった。そして、米の供出などを拒否する運動をした。時には、日本軍の米倉庫を襲い、米を分配したり、供出米を輸送している船を襲撃したりもしたという。キムソン村襲撃事件は、日本の軍政に抵抗するそうした組織を潰すために計画されたのである。
 
 「ベトナムの日本軍 ─キムソン村襲撃事件─」吉沢 南(岩波ブックレットNO.310)によると、キムソン村の亭(デイン)〔村落共同体の真ん中にある重要な建物で集会場などとして使われる〕の一部は、キムソン村襲撃事件の展示室になっており、そこには、「日本軍の進撃コースを示す地図、日本兵を迎え撃ったキムソン村の活動をキャンパスに描いた絵(8点)、爆撃による村の人的・物的被害の一覧、抗日烈士名簿、反日武装・経済闘争に関する日誌、村人が使った武器(銃、刀剣など)」が展示されているという。キムソン村の人びと以外ほとんど見ることのないこの展示は、日本兵の襲撃事件がこの村にきわめて大きな事件であったことを示しているというわけである。

 また、日本軍政下の1944年11月から45年4月までの期間に、キムソン村近隣一帯で、村自警団の集会やデモが6件、米供出拒否など経済闘争が17件があったという。さらに、村自警団が連合して日本軍の米倉庫を襲ったり、供出米を輸送している船を襲撃したりもしたというのである。現ドーソン県庁近くのクニャン河で、運搬船を襲撃して米を没収した出来事は、今でもこの地方の誇りとして伝えられ、絵にも残されているという(その絵の写真が、同書30ページに掲載されている)。

 それは、ベトナム200万人餓死問題に日本の軍政が深く関わっていることを示しているといえる。日本軍政下におけるベトナム200万人餓死の問題で「当時ベトナムにいた1万人の日本兵が、200万人分の米を食べらるわけがない、ベトミンンの政治的な宣伝である」とか「…日本軍が配置したのは一個師団、約2万5千人です。2万5千人増加した為、200万人の人々が餓死するということはありません」というような主張が、どのような根拠に基づくものか、と気になって、いろいろ調べていたら、「教科書が教えない歴史 自由主義史観研究会(代表 藤岡信勝)公式サイト」「特集 ベトナム独立宣言文」と題さ れたページ
(http://www.jiyuushikan.org/tokushu/tokushu_e_9.html)に

ベトナム独立宣言文の中に、「日本軍が北ベトナムに進駐したことにより、200万人の餓死者を出した」と日本を非難しています。そのような事実があったのですか?

という質問に答えるかたちで、

我々は200万人の死者が真実か否かは分かりません。しかし日本軍が配置したのは一個師団、約2万5千人です。2万5千人増加した為、200万人の人々が餓死するということはありません。200万人の餓死者は台風や洪水、米軍の交通手段の破壊によるものです。

と、日本の責任を回避しつつ、むしろ米軍に責任を転嫁するかのような記述があった。当時ベトナムで米などを作っていた農民が多数餓死しているのに、日本兵が餓死したという話は聞かない。日本軍は、決戦に備えて2年分の米を備蓄していたという話がある。また、当時の仏印は、南方領域に対する割当20万人の兵站補給基地として、他の戦線への「補給用」も求められていたという。さらに、大戦末期にはほとんど輸送できなかったようであるが、日本への輸出用も確保されていたともいう。著名な研究者が、この問題で仏印駐留部隊用の米以外を考慮することなく、「米軍の交通手段の破壊によるものです」などと主張されることは、なんとも不思議である。

 上記の、村自警団が連合して日本軍の米倉庫を襲い、打ち壊して「米を分配した」という話や、「供出米を輸送している船を襲撃して米を没収した」という話が伝えられている事実をどのように考えるのだろうか、と思うのである。
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              キムソン村襲撃事件の真相

 1945年8月4日にキムソン村とその周辺で起こった事件の概要は、ほぼ以上のようなものである。
 襲撃された側の被害について、まとめておこう。まず人的被害であるが、キムソン村の集落内で戦って死んだ者2名、焼死させられた老人1人(70歳)、待伏せ・追撃戦で死んだ他村の自警団員12人、ミンタン村の行方不明者6人、を数える。物的被害については、キムソン村の亭(デイン)〔村落共同体の真ん中にある重要な建物で集会場などとして使われる〕のパネルに具体的な数字が挙げられている。焼かれた家42戸、焼かれた籾40カゴ(1カゴにはだいたい20~25キログラムの籾が入る)、殺された水牛2頭、その他の物的被害総額は2万ピアストル。2万ピアストルがインフレの激しい当時どのくらいの価値に相当するのか適切な事例を示せないが、参考のために記しておく。

 5,60人の兵力による計画的な襲撃事件であることを考えると、この被害が大きいとは言えないだろう。特に、300人以上の村人が留まっていたキムソン村の被害については、最小限に食いとめられたと言ってよい。常時の村人口の約半数に当たる子どもや年寄りを他村に避難させたのは、適切な措置であったろう。その上、村内に残った者たちが、武器弾薬の面できわめて劣悪な状態にありながら、村自警団とその援助隊に組織され、訓練されていたことが、日本軍の長時間にわたる作戦を許さなかった大きな要因であった。
 したがってキムソン村の人びとは、日本軍によって襲撃され、被害をこうむったという側面だけでなく、その襲撃に抵抗して撃退したという側面についても、展示や話の中で強調したのである。

 日本軍のキムソン村襲撃で特徴的なのは、ベトナム独立同盟(ベトミン)系の農民運動を軍事行動の直接の対象とした点である。日本はインドシナの民衆
を基地や道路の建設に狩出したり、農民から米などの食糧を取り上げるなど、戦争遂行のために搾取と収奪を強化した。インドシナは一般的に、他の東南ア
ジア地域や太平洋諸島のように、兵士の死体が累積する戦場にはならず、比較的静かな状態を維持していた。ところが、1945年3月9日の「仏印処理」の前後
になると、日本・フランス間の武力抗争は激しくなり、また連合国の航空機による都市部への空襲も頻発した。また、共同支配者であったフランスを蹴落と
して唯一の支配者となった日本は、ベトミンを中心とする反日的な民族独立運動との対立を決定的なものとした。

 日本は、一方では、保大(パオダイ)皇帝を担ぎ出して、「独立」を付与し、知識人チャン・チョン・キム(Tran Trong Kim)に親日的な「傀儡内閣」を組織させた。こうすることによって、ベトナム・ナショナリズムの高まるうねりを分裂させようとしたのである。他方で日本は、独立運動の中核として民衆の支持を獲得しつつあったベトミンに対して軍事的弾圧で臨んだのである。しかも、ベトミン系の運動を弾圧するために、日本は、「傀儡政府」の武装部隊を育成し、その組織を弾圧の実行部隊として使ったのである。キムソン村襲撃事件は、インドシナ支配の末期段階における日本が、弱体化したがゆえに編み出した手の込んだ支配のからくりをよく示してくれているのである。


 すでに述べたように、キムソン村襲劇では、その実行部隊となったのが5,60名の保安(パオアン)兵で、数名の日本軍人が彼らを指揮していた。こうした編成の部隊を何というべきであろうか。「傀儡軍」と片付けられないのはもちろんであるが、日本兵と「傀儡兵」との混成部隊とするのも、日本軍の決定的な役割をあまりにも軽視していて適切な表現ではない。この武装組織は、日本が組織した一種の「植民地軍」ないしは「準植民地軍」というべきものであろう。
天皇の軍隊として「日本人」純血主義を頑固に守っていた日本軍は、兵員不足という現実によって、戦争の末期にいたってはじめてその原則に手をつけざるをえなかった。植民地に対する徴兵令の施行による朝鮮系・台湾系の「日本軍人」の誕生がその典型であるが、東南アジアの各地で急遽組織された「兵補」や「義勇兵」「保安(パオアン)兵」などもそうした政策の一つであった。

 本稿ではこうした歴史的意味を踏まえた上で「日本軍」「日本兵」と表現した。しかしなお微妙な問題が落ちてしまう危険性があるので、補足しておきたい。キムソン村の人びとは、日本軍の襲来の情報を事前に掴んでいた。その情報源は実はキエンアンに組織されていた保安兵からであったという。保安兵の徴募方法については分からないことが多いが、キムソン村で聞いた限りでは、日本軍が地主や村長など村の有力者たち(多くの場合、親日団体である大越(ダイヴェ゙ト)組織にされていた)に保安兵の人数を割り当てると、地主や村長たちが時には強制的に、時には温情主義的な勧誘によって、村の若者たちを選んで差出すシステムになっていたという。ドンさんたちは「兵士狩り」という表現を使っていたが、これが実態であったろう。


 こうしてかき集められた保安兵が簡単に「日本兵」化されなかったのは当然で、彼らから情報がベトミン側に流れても不思議はなかった。すでに詳しく見たように、キムソン村襲撃はやや中途半端に終わったが、日本軍の、こうした編成上の特徴に、一つの原因があったかもしれない。5,60人の保安兵に対して、数人の日本人軍人(高田さんの記憶によれば、指揮官は20歳代の少尉だった)、配属された一人の憲兵(つまり高田さん)という編成からすると、正門に据えられた機関銃はキムソン村の内部に向けられていたのだが、同時に、保安兵に背後から睨みをきかしていたとも考えられるのである。


http://www15.ocn.ne.jp/~hide20/"に投稿記事一覧表および一覧表とリンクさせた記事全文があります。一部漢数字をアラビア数字に変えたり、読点を省略または追加したりしています。また、ところどころに空行を挿入しています。青字が書名や抜粋部分です

2014/08/03

日本軍政下 ベトナム"200万人"餓死 6

 先日、安倍自民党政権は臨時閣議を開き、従来の政府解釈を180度変えて、日本国憲法9条の下で集団的自衛権の行使を認める決定した。また、2014年8月1日の朝日新聞は、憲法改正の早期実現を求める意見書や請願が今年に入り19県議会で可決、採択されていたことを報じている。そうした動きの根底には、安倍首相の「侵略の定義は学界的にも国際的にも定まっていない。国と国との関係でどちらから見るかで違う」というような考え方や、さらには、先の大戦おける日本の戦争責任を回避したり過小評価したりする考え方、また、日本の戦争犯罪をなかったことにしようとする考え方などがあるのだろうと思う。

 しかしながら、日本の侵略や戦争責任、戦争犯罪は、日本人がどのように考えるか、という「日本人」の考え方の問題ではない。「被害」と「加害」の問題も存在するのであり、歴史の事実は、世界で共有されなければならないものであろう。

 日本軍政下におけるベトナム200万人餓死の問題でも、日本軍の責任をしっかりと認識する必要があると思う。
 日中戦争の行き詰まりを打開するために、中国の海岸を封鎖し、南シナ海の東沙島や海南島を占領した日本は、「仏印」経由の「援蒋ルート」を遮断するため、北部仏印に進駐した。この進駐は戦闘を伴うものではなく、フランスに圧力をかけて、強引に同意させたものであった。このとき、インドシナの住民や組織は交渉相手ではなかった。そして、日本軍の進駐直後から、「反仏・反日帝国主義」をスローガンした武装蜂起の動きがあったことを忘れてはならないと思う。
 また、北部仏印進駐が、単に「援蒋ルート」の遮断にとどまらず、「南進」の拠点として、さらには広大な戦線を賄う補給基地として重視されていた事実も忘れてはならないと思う。

 日本軍政下におけるベトナム200万人餓死の問題では「当時ベトナムにいた1万人の日本兵が、200万人分の米を食べらわけがない、ベトミンンの政治的な宣
伝である」
とか「…日本軍が配置したのは一個師団、約2万5千人です。2万5千人増加した為、200万人の人々が餓死するということはありません。200万人の餓死者は台風や洪水、米軍の交通手段の破壊によるものです」というような責任回避ともいえるような主張を 再三見聞きする。しかしながら、そうした主張は、5年間にわたる日本軍の駐留とその間の軍事政策、また「仏印処理」以降の日本の軍政をほとんど考慮していないと思われる。

 天候不順や南部からの米の移送遮断も、もちろん無視はできない。しかしながら、多数の餓死者を出したのは、日本軍の米、その他の物資調達、黄麻の強制栽培(稲作面積などの減少)などに主な原因があったことは否定できないと思うのである。軍用米の調達も、仏印「駐留部隊用」だけではないのである。他の戦線への「補給用」、さらには決戦に備えての「備蓄用」、日本への輸出用などがあったというのである。

 下記は、「ベトナム”200万人”餓死の記録 1945年日本軍政下で」早乙女勝元(大月書店)の抜粋であるが、表4や表6、表7は、日本の北部仏印進駐のもう一つの理由(食糧確保)を示し、表5は、日本軍の動静を示すものといえるであろう。
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               第6章 誰に責任が?

飢餓四つの原因


 ・・・

 未曾有の飢餓に至った1944年~1945年の背景を大ざっぱに整理してみたが、理由④には、いうまでもなくそれまでの時間的な経過も含まれよう。(注 ④ 日本とフランスによるモミの強制買い付けが、最後に挙げられるが、これはどうか。)フランス軍がベトナム侵略をはじめたのは1858年までさかのぼるから、実に80年余にわたる長期の植民地支配と搾取とに、目を向けなければならない。これで、ベトナム人民の生活は逆さに振っても血も出ないほど極度に疲弊しきっていた。ところが汗も血もみな吸いとっていった「太った鬼」のほかに、突然大東亜共栄圏のスローガンを掲げて「背丈の低い盗賊」(日本ファシストの意=ベトミン紙による)が登場した。

 「1940年秋、日本ファシストが連合国攻撃のための基地を拡大しようとインドシナに侵略すると、フランス植民地主義者は膝を屈して降伏し、わが国の門戸を開いて日本を引き入れた。このときから、わが人民はフランスと日本の二重のくびきのもとに置かれた。このときから、わが人民はますます苦しくなり、貧窮化した……。」

 ベトナム人民共和国独立宣言はその文章のあとに、問題の「200万人以上の同胞が餓死した」とつづくのだが、インドシナを貧窮のドン底に追いやった日本が、それまでは一体どのような役割をはたしたのか。軍事管理期間の5年間にどれだけの戦略資源を調達あるいは収奪して、日本国内へ運んでいたかを、次にみていくことにする。

 まず基本的な資料として、正木千冬氏訳の『日本戦争経済の崩壊──戦略爆撃の日本戦争経済に及ぼせる諸効果』を取り上げたい。これは、アメリカ戦略爆撃調査団報告書総合報告ともいえる部分の邦訳である。
 同書はトルーマン大統領の指示によって、戦後すぐに来日した850人のアメリカ軍人のもとに300人の日本人が動員され、戦略爆撃がもたらしたであろう被害実態と、その爆撃効果を知るために作成された膨大量のレポートである。正木千冬氏訳の総合報告は全ページの半分近くを、日本側の統計で埋めつくしているところに特徴がある。戦時下の日本経済の実態を、アメリカが入手した資料で確かめねばならないのは不本意だが、その統計は貴重な第一次資料とみることができる。以下の表4から7までは、同書から引用した。


 表4は、日本国内の食糧在庫量で、1931年からはじまって、45年までの農林省の統計である。
 問題のコメを見ていくと、39年度がそれまでの半分以下に落ちこんで、わずか67万6900トンになっている。これは朝鮮米、台湾米の凶作にもよるものだが、翌40年も在庫はわずかに増えたくらいで、大きな変化はない。戦争指導者たちは、この数に頭を痛めかなりの危機感を覚えたであろう。ところが、41年はにわかに100万トン台を確保した。日本軍の「仏印進駐」は40年9月のことだが、そのねらいが今にして手に取るようによくわかる。

  表4  食糧在庫調べ 1931~45年 (単位 トン) 注:コンマ略
コメ その他の雑穀 缶詰 砂糖
1931 1523374 25612 177437
32 1484571 31236 299250
33 1501266 38224 180750
34 2738481 46955 49200
35 1656023 52033 73620
36 1344416 61155 57270
37 1251955 78953 69603
38 1451550 91147 63631
39 676900 102642 55381
40 726124 2642431 64721 66693
41 1178377 2264042 73721 89744
42 392000 1855614 47224 167159
43 435333 1543092 61014 105956
44 384167 50128 11273
45 133000 4583
(注)コメの在庫は毎年10月30日現在 その他の雑穀は大麦、小麦、裸麦の合計で6月30日現在、缶詰、砂糖は12月31日現在
(出所)農林省

表5は、日本軍用食糧の推移だが、先の表で39年度からコメの在庫が減る一方なのに対し、42年からの軍隊用食糧のうちとくにコメはうなぎ上りに増えて、4年間のあいだに3倍にも跳ね上がっている。
 これは、戦力が急速に増強されたからにほかならないが、かわりに農村は留守家族だけとなり、食糧生産が減少するのは避けようもない。表4の42年度からのコメの在庫分減少は、このこととも決して無関係ではなかったのだ。コメ絶対量の不足は、そのまま一般庶民にしわ寄せされていく。戦争で犠牲になるのはつねに一般庶民であり、わけても女性、子ども、年寄りたち弱いものである。日本は軍事面のみならず、食糧面からいっても、戦争をすれば自滅せざるをえなかったのだ。

         表5 軍隊用食糧  1942~45年 (単位 トン)
1942 1943 1944 1945
コメ 230600 374300 502500 666600
大麦 41800 23000 25+900 63800
裸麦 139000 75100 90100 130200
小麦 3100 3700 6900 68100
小麦粉 不詳 不詳 100000 122900
味噌 28300 38750 67650 66370
醤油 23050 30750 56500 55650
465850 545600 849550 123020
(注)42年、43年の合計には小麦粉を含まない。
(出所)農林省

表6は、雑穀の輸入高である。インドシナからの場合それはほとんどトウモロコシで、40年度から全輸入量の50%以上を占め、42年に減るものの、43年は80%以上、44年も70%とある。船舶もほとのど沈められ海上輸送路が危険だらけとなった時点で、いささか信じがたいすうじだが、農林省の統計とあればまちがいあるまい。台湾、朝鮮、中国と比べれば、大変な物量である。
 なお蘭領東印度とあるのは、こんにちのインドネシアをさす。


    表6 雑穀および雑粉輸入  1940~45年 (単位 トン、下段は%)
表作成の都合上 輸入元を下記の番号表示にした。
1 仏領インドシナ  2 蘭領インド  3 台湾  4 朝鮮  5 中国
6 満州
1940 1941 1942 1943 1944 1945
1 148600
55.2
135200
50.5
124900
15.2
634100
84.5
355000
70.0
2 76900
28.5
79200
29.5
22300
2.7
5000
0.7
3 500
0.2
1000
0.4
1000
0.1
300
0.1
100
0.1

4 3300
1.2
1000
0.4
600000
72.9
25200
3.3
25200
4.1
15000
6.5
5 1000
0.4
2300
0.3
5000
0.7
4500
0.9
3000
1.3
6 40000
14.9
50000
18.8
72800
8.8
80500
10.7
122000
24.0
213400
93.2
269300 267400 823300 750100 506800 231400
(出所)農林省 船舶運営会

 表7は、いよいよインドシナからのコメとモミの輸入量だが、ビルマの下にシャムと出ているのは、タイのことである。
 インドシナからのコメ(モミ)は40年度に約44万トンで、全輸入量の26%近かったものが、41年~42年とトン数が増え続ける一方で、43年にはなんと66万2000トンにもなり、全輸入量の58%以上となった。
 表6のトウモロコシもまた43年度が80%以上を占めたのを見れば、昭和18年度の「外米」ならびにトウモロコシの大半が、ベトナムからきたものだった、といってよいだろう。コメはモミで運ばれてきた分もあるから、その分は保存されて、昭和19年までは一般の主食配給分に混入されてくる。「配給の米に今度も小さな豆が入っている。白い米、黄色い米、青い豆、紅い粒、褐色の虫、五色の米である」と、徳川無声が日記にしるしたのは、同年夏のことだったのを思い出す。

 私(たち)は、まちがいなく、ベトナム人民の血の出るようなとぼしい米や、汗の結晶ともいうべきトウモロコシを多量に食べて、なんとか飢えをしのぎ、戦時下のきびしい食糧難時代を生きのびたのだ。このことは、何びとも否定できない事実である。かわりにベトナム北中部で、どのような大惨事が起きたかなどは、夢にも知らされずに。……。


 インドシナから日本へのコメについて、次にフランス側が残した統計を、『資料・ベトナム解放史』からみていきたい。
 インドシナにいけるコメとトウモロコシは、日本政府の特命で三井物産と三菱商事が輸送権を独占していたが、コメは主として三井物産に委託されていた。しかし「日本ファシストの需要はきわめて高く、輸出額は日本とフランス両国間の貿易協定に定められた要求額にはとても及ばなかった」と、同書にある。1941年2月のフランス総督令によって、これまでコメの輸出機構を独占していた華僑にかわりフランス人企業11社が、精米業社からなかば強制的にコメを入手し、日本企業経由で日本本土へ輸出するというシステムとなった。それでも華僑の比重は大きかったが、フランス企業の”黒幕”が、三井物産だった。

  表7  コメおよび籾輸入高  1940~45年   (単位 トン、下段は%)

表作成の都合上 輸入元を下記の番号表示にした。
1 仏領インドシナ  2 台湾  3 朝鮮  5 ビルマ  6 シャム(タイ)
1940 1941 1942 1943 1944 1945
1 439300
25.9
562600
25.2
973100
37.0
662100
58.3
38400
4.9
2 385000
22.5
271800
12.2
261500
9.9
207200
18.3
149800
19.1
9000
6.0
3 60000
3.6
520000
23.3
840000
32.0
72000
6.3
559500
71.5
142000
93.9
4 420000
24.8
437500
19.6
46600
1.8
18000
1.6
5 284000
16.8
435400
19.5
508000
19.3
176500
15.5
35500
4.5
200
0.1
1694000 232700 2629200 1135800 783200 151200
(出所)農林省 船舶運営会

 表8上段右の対日輸出総量は、インドシナより三井物産に売られたコメの年度ごとの統計だが、そのすべてが日本国内に運ばれたわけではない。丸山静雄氏の、『ベトナム解放』によれば、日本とフランス政庁との協定で、インドシナから日本へ供給するコメの量は、1941年が70万トン、42年が105万トン、43年不明で、44年が90万トンだったとしるされている。この協定トン数を、表8の対日輸出総量ならびに表7の日本国内へ輸出量とを参照しながらわかりやすくまとめてみると、次のようになる。

 1941年度は、日本が70万トンのコメを要求したのに対して58万5000トンが三井物産の手に渡り、そのうちの56万2600トンが、日本本土へ輸送された。42年度は105万トンの要求に対して、97万3908トンが確保できて、97万3100トンが日本国土へきた。44年度は90万トンの要求に対して49万8525トンが確保できて、3万8400トンが日本国土へきたことになる。
 とくに注目しなければならないのは1944(昭和19)年度だが、この年に三井物産が確保したコメは、もうほとんど日本国内への搬入はできず、その大半ともいうべき45万トンあまりが、現地に残されていたのだ。北中部のベトナム人民は空前絶後の飢餓に苦しんでいても、決してコメがなかったわけではないのである。しかも、駐屯日本軍の軍用米は、先の協定分による引き渡し分には含まれなかったというから、日本軍ならびにその企業特別倉庫には、どれだけ多量のコメおよびモミが山積みさあれていたか、はかり知れないものがある。


            表8  コメの対日輸出量
年度 要求総額 実績
1940 不明 468000
41 700000 585000
42 1074000 973908
43 1125904 1023471
44 900000 498525
45 不明 44817
J.Gauthier,L'Indochine au travail dans la paix Francaise,Paris,1947 p.283

 その同じ戦時下に、日本国民に主食として配給されてきたコメは、第1章にしるしたように、最初のうち基本は大人一人あたり1日2合3勺(330グラム)だった。1か月分でなら約10キロ、1年分だと約120キロの消費量となる。
 それで決して十分ではないが、もし、規定量のコメが主食として「代用食」を含まず、しかも遅配欠配なしに配給さあれたならば、最低限の生活は維持できたのだと、少年期をふりかえって私は思う。なぜなら、それでも餓死者は出なかったからである。現在の日本人はコメだけに関していえば、1年に70キロの消費量でしかなく、アメリカは6キロにしか過ぎない。


 戦時下の例にならって、人間の最低限のコメ消費量をもし仮に1ヶ月10キロとした場合、餓死したというベトナム北部の人たち「200万人」は、単純計算で2万トンのコメがあればあ1ヶ月を生きのびることができたはずである。1944年の秋作米収穫のあと11月から、45年の春作米収穫時までの7ヶ月間は、14万トンのコメがありさえすれば、生き抜くことが可能だった。
 いや、不作の秋作米も多少は残されていたはずだから、厳密には5ヶ月間あまりが、大飢饉のピークではなかったか。最低ぎりぎりの計算だが、10万トンのコメがあって、それが平等に分けられていれば、どうにかこうにか餓死せずにすんだということになる。


 もしも、44年の秋作米から、フランスが強制的に買い付けたとされる北部のモミ12万5000トンのうち、10万トンが一般に等分に放出されていたら、また、ジュートの転作強要がなかったとして、4万ヘクタールから9万トンのさつま芋かトウモロコシが収穫されていたら……などと、私はまたしても考えてしまう。もしもという仮定は、歴史には成り立たないのを、あえて知りながらも。
 45年の3月9日夜に、フランス軍を一掃したあとの日本軍は、インドシナの植民地支配管理者となり、第38軍土橋勇逸司令官が「仏印総督職務執行」となって、総督府を引き継いだ。塚本毅公使は総督府総務長官に、蓑田不二夫総領事はコ-チシナ(南部)総督に、西村熊雄総領事はトンキン(北部)州理事長官にそれぞれ昇格し、フランス時代の継続統治の主力となった。

 その日本軍にしてみれば、インドシナの「敵性勢力」は放逐したものの、1000キロにまで迫った連合軍との決戦近しで、軍用米を少しでも多く貯めこまなければならなかっただろうし、食用の牛や乗用の馬の餌としても、また機関車や発電所の石炭がわりにも必要だったろう。3月9日の「仏印処理」に際しての日本政府は、「印度支那の住民に対しては有らゆる援助を辞せざるべく」と声明したが、それはまったくの口先ばかりで、巷に溢れる飢えた人びとを同じ人間として遇する方針はなく、見ても見ぬふり知らぬふりの傍観者だったといわれても、返す言葉はない。救援活動はもちろんのこと、 餓死者がどこでどのくらい出たかという調査もせず、最小限の資料さえ把握しようとしなかった


 これは、南京大虐殺のように、日本軍が血まみれの日本刀を振りかざしての虐殺行為とは異なる。しかし南京大虐殺の数倍にも及ぶ間接的な恐怖地獄であり、そもそもの元をたどれば、タアイルオン村で家族9人を餓死させたファン・スンさんが憤怒の声でまくしたてたように、「こっちが来てくれといったわけじゃないのに、向こうから勝手に押しかけてきた」侵略に非があるのは、誰の目にもあきらかである。
 ベトナムの声放送は、現在にいたるも毎日、朝夕と当時流民となって離散してしまった家族たちの消息を求める”尋ね人”の時間がつづいている。
 日本人にとっては、忘れてはならない歴史の暗い1ページであり、いつまでも心に刻まなければならないはずの重い負債である。


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2014/07/22

日本軍政下 ベトナム"200万人"餓死 5

 日本軍政下におけるベトナムで、”200万人”の餓死者が出たという話は、ベトナム独立同盟(ベトミン)が、8月の一斉蜂起で独立を果たし、ベトナム民主共和国を成立させたその日(1945年9月2日)、独立式典でホー・チ・ミンが読み上げた「独立宣言」の中に出てくる。下記の一節である。

・・・1940年秋、日本ファシストが連合国攻撃のための基地を拡大しようとインドシナに侵略すると、フランス植民地主義者は膝を屈して降伏し、わが国の門戸を開いて日本を引き入れた。このときから、わが人民はフランスと日本の二重のくびきのもとに置かれた。このときから、わが人民はますます苦しくなり、貧窮化した。その結果、昨年末から今年はじめにかけて、クアンチからバックボにいたるまで200万人以上の同胞が餓死した。・・・”

この「独立宣言」の内容に関して、

ハノイ人民幹部が「政治宣伝だった」と認めた

として、当時の日本軍に責任はないとしたり、またその責任を過小評価したりするような主張が、いろいろなところでなされている。しかし、「日本軍政下ベトナム"200万人"餓死」の1~4ですでに取り上げたように、日本人自身による多くの餓死者の目撃証言や、日本軍のコメ(モミ)の強制買い付けの問題、黄麻強制栽培の問題その他を具体的に検証すれば、それほど簡単に責任逃れができる問題ではないことがわかる。

「ベトナム”200万人”餓死の記録 1945年日本軍政下で」早乙女勝元(大月書店)にも、一部が引用されているが、「証言する民 十年後のベトナム戦争」大石芳野(講談社)の、下記のような、地元住民に対する聞き取りによって集められた証言も無視することはできない。”ハノイ人民幹部が「政治宣伝だった」と認めた”として、名前も役職名も経歴も分からない「ハノイ人民幹部」の一言で、数々の証言をすべてをひっくり返せるものかどうか、冷静に考える必要があると思う。
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                第8章 「北」の人々

           ── 旧日本軍・抗仏・北爆の四十年 ──

恐怖の旧日本軍「麻作戦」

 東南アジアの国々を旅すると、どこでも人なつこい笑顔で歓迎される。だが、親しくなるにつれて「日本軍に父が……親類が……故郷の人が……」、といった話になる。
 ハノイの南東にあるタイビン省へ行った時に、人民委員会の副議長ブバン・ハンさんに日本軍の話をぶつけてみた。彼は初めいささか驚いたような表情をして私をじっと見つめていたが、深く吸い込んだ息をゆっくりと吐いて、40年前のことを思い出すように話し始めた。


「当時、省の人口は約100万人のほぼ三分の一弱にあたる28万人が日本軍の『作戦』によって命を落としました。最大の理由は、収穫寸前の稲を引き抜かせて麻を植えさせられたことにあったのです。小作農はもちろんのこと、地主にとっても、収穫直前の米蔵は空っぽでした。10日待ってくれれば、収穫を終え、田を耕し直して麻を植えることもできたのです。私たち農民は日本軍に懇願しました。けれど、聞き入れてもらえず、強制的に刈り取らされたのです。その結果、貯えのなかった小作農たちから先に飢えて倒れていきました。水害も加わり、弱った体に伝染病がみるみる広がっていったのです。全滅した家族もたくさんありました。亡くなった家族、友人の遺体を埋めながら、次は自分だ、自分は誰が埋めてくれるのだろうか……そんな想いでした。まだ元気のあった人が、馬車で遺体を集めてはまとめて空き地に埋めました。小さな家に子どもたちが飢えて泣いていたけれど、その子たちも翌朝には息たえていました。冷たくなった母親の乳房に吸いついたきりの赤ん坊……。着る物、調度品は次々に売って食べ物に換えていったのでとうとう裸同然で歩いていました。私の長女は5歳だったけれど、米ヌカでやっと生き残りました。でも、赤ん坊は死んでしまいました」

 タンホー村へ行ったとき、農婦ブー・ティ・クイットさん(59歳)の家を訪ねた。彼女の家はレンガ建てだ。きれいに掃除された庭の隅に井戸が掘ってあり、炊事場のレンガの小屋には食器、鍋などがきちんと並べられてあった。73年に草葺屋根の家から立て直した。クイットさんのこの庭を囲むようにして、すぐ横に3人の息子がそれぞれの家を建てた。彼女は若い人たちに農業技術の指導をしている。最近では1ヘクタールにつき11トンの米が収穫できるようになったという。
 彼女に日本軍のことを尋ねると、やはり少しとまどっていたが、こう話した。
「日本軍は村人の倉庫から残り少ない米を港に集めて出荷したんですよ。何でも南方の仲間に送るんだそうでした。一度に運び切れないで残った米から芽が出はじめて。飢えた子供が、手づかみでとろうとしてひどく殴られましたね。
 痩せた土地が多い北部では収穫もぎりぎりなんですよ。生きるための米をとりあげられ、実る前の稲穂を刈られて、これじゃ死ね、ということですよ」


 同じタンホー村の農夫グエン・ヒ・トゥさん(69歳)は、貧しい農民だった。そこに突如「麻作戦」がとられてトゥさん一家はどん底へ追いやられた。
 「『共産主義者はどこだといって乱暴しましたよ。私は違いましたがこの村にいて救われる道はないと思い、弟を連れてハノイから70キロの高地バクヤンに働きに出ました。その直後、飢えた家族が次々に死んで全滅したことを知りました。が、私と弟は帰るに帰れませんでした。46年にフランスとの戦いが勃発したので急いで村へ帰り、民兵となったのです』
 彼は44歳でやっと結婚ができるゆとりができた。だが、一人息子が4歳の時、妻に病死されてしまい、そのまま再婚もしないで今日に至っている。
「妻のことが忘れられなかったのと、息子のことを考えても母親を覚えさせておきたかった。幼かったから、生みの親より育ての親の記憶がはっきりしてしまうと思いましたから」
と、トゥさんはいった。ベトナムでは、男性も女性も再婚しない人が多い。そのことを表したことわざがある。
「雄の鶏が雛を育てる」
それほど男ヤモメは多いのだという。


 日本軍に、「共産主義者」と名指しされて捜索されたという一人ドーバン・クーさん(72歳)に会うことができた。クーさんはベトナム人としてはやや大柄で、健康そうに見える。穏やかな笑顔を浮かべながら、部屋に案内してくれた。2つのベッドにはゴザが敷いてあり、テーブルと椅子がきちんと置いてあった。ベッドの後ろの壁には竹製スダレに描かれた花柄の絵が飾ってあった。
「村人の知らせですぐ逃げました。しばらくして戻ってみると、村長の家に日本兵がいて彼らは大声でどなっていました。日本軍には通訳がいなかったため、手まねで『豚を食べたい』とか、共産主義のマークを示して『連れて来い』とか、『麻を植えろ』などと命令してました。思うようにならないと『家に火をつけるぞ』と脅迫し乱暴を加えていました。郡長は日本軍に○○ドノといって、ペコペコでしたね。
『決められた面積に麻を植えなければ、村全体を焼き打ちにする』、といわれたので、仕方なく稲を抜いて全体の三分の一を麻畑にしました。でもその結果、タンホー村だけでも飢えで少なくとも1300人が亡くなりました」
と、クーさんは話した。そこへ妻のリンさん(73歳)が茹でたての黄色いトウモロコシを大ざるに盛って持ってきてくれた。香ばしさに誘われて1本とって丸かじりした。クーさんはニコニコしながら
「あなたは横笛を吹きましたね」
といった。トウモロコシを横にして食べる姿は、ちょうど笛を吹いているようだ、と人びとは詩的に表現している。
 別れ際にクーさんは私の手をとりながら、
「この村にきた日本軍の兵士も、普通の平民だったのでしょう。それが兵士としてベトナムに送り込まれて野蛮な行動をとらされた。これは日本軍国主義者がそうさせたので、一般の人びとはお互いに兄弟です。これが私たちの本当の気持ちですよ」
と、柔らかい眼差しでいった。


 ベンフン村のグエン・ティ・メンさん(60歳)は幼い孫の相手をしながら、
「あのころのことは忘れましたよ」
といって、話そうとしなかった。けれど、
「この前、村に養蚕のことで数人の日本男性が来ました。その時、子供たちは『日本軍と同じようにひどいことをするかもしれないね』と、話していたんですよ。夫は驚いて、子供たちに『あれは日本の軍国主義者のしたことで、一般の日本人はそんなことはしないよ』と教えていましたね」
とだけいった。

 ベトナムが日本軍に占領されたのは45年の5ヶ月間だったが、駐留は5年間にも及んでいた。日本軍はほかの東南アジアや南洋諸島の地域にいる仲間の食糧を補うために、ベトナムが収穫した米を運び出した。そのため村人は飢えた。しかも、日本軍を狙った連合軍の攻撃が激しくなり、南部からの米が北部へ送れなくなっていった。そこに悪天候による不作。さらに追い打ちをかけたのが、「麻作戦」だった。



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2014/07/18

日本軍政下 ベトナム「200万人」餓死 4

 安倍首相の独裁的ともいえる集団的自衛権の閣議決定その他を受け、内外で、その背景にある歴史修正主義的な考え方を含めて、今まで以上に、日本の政権に対する批判の声が高まっている。周辺国の政権関係者も日本に対して「歴史修正主義」と言う言葉を公然と使うようになった。
 そして、私自信も、戦争体験者の減少に合わせるように、「歴史修正主義」的な考え方が、日本国内で広がり、深まっていることを、いろいろな場面で感じるようになった。

 日本軍政下におけるベトナムの200万人餓死をめぐる問題でも、事実を正しく検証することなく、日本の軍政を正当化しようとする主張が目立つ。確かに”200万”という数字は概数で、正確なものではない。また、それが日本軍だけの責任でないということも事実であろう。
 しかし、、「当時ベトナムにいた1万人の日本兵が、200万人分の米を食べらわけがない、ベトミンンの政治的な宣伝である」とか「日本軍が配置したのは一個師団、約2万5000人です。2万5000人増加した為、200万人の人々が餓死するということはありません」などといって、責任逃れのできるような問題でないことも確かであると思う。

 タイビン省では、1944年におよそ103万人だった人口が、独立後には75万人に減っていたということや、下記に抜粋したような個別の事実を、総合的に考えると、日本軍政下で、200万人近い餓死者が出たことを否定することは難しい。

 「ベトナム”200万人”餓死の記録 1945年日本軍政下で」(大月書店)の著者、早乙女勝元氏も、200万人餓死の原因として、①天候不順による凶作 ②南からのコメの輸送停止、③ジュートなどへの転作の強要、④日本とフランスによるコメの強制買い付け、の4つをあげ、それらが複合的に影響しあったため、多数の餓死者を出すことになったといっているのである。

 さらに言えば、当時ベトナム北部に駐留していた元日本兵の「その頃、師団は決戦に備えて2年分の食糧を確保していたそうです」というような証言があり、また、ベトナム女性の「日本軍は村人の倉庫から残り少ない米を港に集めて出荷したんですよ。何でも南方の仲間に送るんだそうでした。… 痩せた土地が多い北部では収穫もぎりぎりなんですよ。生きるための米をとりあげられ、実る前の稲穂を刈られて、これじゃ死ね、ということですよ」との証言もある。これらの証言を無視したり”虚言”として切って捨てるのではなく、下記のような事実やその他の資料と合わせて考える必要があると思う。
 
 まず、日本とベトナム(南ベトナム・ゴ・ディン・ジェム政権)との間の賠償協定締結(1959年5月13日)に関わって、国会に提出された政府提案理由の中に「……ヴェトナム領域における特殊な様相は、常時8万前後のわが軍の存在及び南方地域に対する割当20万人の兵站補給基地としての役割から生じた。すなわち、交通輸送機関の全面的徴発、主として米軍の爆撃による鉄道路線の寸断等の原因から国内経済流通が極度に乱れ、加うるに、諸物資の大量徴発のため昭和20年に入ってからは餓死者のみで推定30万が出た」とある。早乙女勝元氏も取り上げているが(『私たちの中のアジアの戦争 仏領インドシナの「日本人」』吉沢 南(朝日選書314)に取り上げられていることはすでに紹介した)、「餓死者のみで推定30万」はさておいて、「常時8万前後のわが軍の存在及び南方地域に対する割当20万人の兵站補給基地」という指摘を見逃してはならないと思う。

 また、早乙女勝元氏は『日本戦争経済の崩壊─戦略爆撃の日本戦争経済に及ぼせる諸効果』(正木千冬訳)に、当時日本は大量のトウモロコシやコメ(モミ)をインドシナから輸入していた事実が記録されている、と明らかにしている。下記にはベトミンによる日本軍のモミ貯蔵庫やコメ倉庫襲撃の話もでてくるが、日本の企業(三井物産)が確保したにもかかわらず、輸送の見通しが立たず、日本国内へ搬入できなかったコメ(モミ)がベトナム現地に大量に残されていたという事実も明らかにされている。

 したがって、ベトナムの200万人餓死をめぐる問題は、当時ベトナムを軍政下においた第21師団の日本兵(兵員数約2万5000人)が、200万人分の米を食べられるかどうか、というような問題ではないのである。

 数え切れない餓死者が出た事実と、それに日本軍が深く関わった事実を真摯に受け止めるべきではないかと思う。

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               第5章 内外の証言記録から

餓死者の数

 大飢饉のリアルな実態から、支配管理者だった日本軍の姿をあきらかにしてきたが、次に飢餓についてのベトナム側の調査と研究のうちから、これはと思う統計を「日本とベトナム」紙より引用したい。
 ベトナム北部からやや南よりのゲアン省(現在のケディン省の一部)は、ホー・チ・ミン主席の故郷で知られる。当時は飛行場や鉄道車輌工場、港湾施設がととのっていたために、日本軍が最大時1万人もの軍を駐屯させたところである。軍事施設の拡張工事は、多くのベトナム人を苦力(クーリー)として動員し、食糧、物資の徴発もひどく、人びとの生活は極度に貧しく追い詰められていた。稲田をつぶしてジュートへの転作も、ラム河川敷で広くおこなわれたという。そこへ悪天候が重なったために、たちまちにして大飢饉となった。同省での飢饉関係調査は、1964年に実施されている。(表2-略)全県を網羅したものではなく、もっとも被害が大きかったとされる8県、263村を対象にして、調査対象期間を44年末より45年初頭の3ヶ月間とした。それ以後の被害は含まれていない。 
  

 したがって限られた範囲内の重点的な調査でしかないのだが、それでも全滅した家族は次頁の表(略)のとおり2250戸を数え、餓死者は4万2630人となる。この死亡者数は、その後ゲアン省での30年にもおよぶ抗仏・抗米戦争による犠牲者数よりも、あきらかに多い数字となろう。
 紅河デルタの南端にあるニンビン省でも、62年にやはり飢饉の被害調査が重点的に行われ、同省のなかでわりと豊かな地域のはずのキムソン・イエンカイ両県だけで、3万7936人の餓死者を出した。
 そのうちキムソン県の内訳を見ていくと、餓死者は6116家族の、2万2908人に達した。うち1571家族の7008人は、家族全滅というもっとも悲惨な結末となった。
 また、この時期に流民となって、村を離れていった行方不明者が3814人いる。かれらが、その後どのような運命をたどったかはわからないが、おそらく大半が行き倒れになったものと思われる。行方不明者も加えると、キムソン県の死亡者は2万7000人近くなる。

 紅河デルタのタイビン省となりの、ハノイ寄りにハイゾォン省がある。同省のフォンタイ村を1964年に訪れた作家の山岸一章氏の『ベトナム-詩と竹と英雄の国』によれば、同村は5部落620戸、人口3075人の村だが、大飢饉で「この村では2500人(当時の人口)のうち890人が餓死したというのです。アンザクという部落は、557人のうち411人が餓死したというのです」と記している。
 「いま、豊かな田園風景のなかで、広い水田に田植えがはじまっていました。それを目で見ながら、20年前に、同じ水田地帯のまんなかの農村で、10人に4人、アンザク部落では、10人に8人が餓死していったようすを、どうしても想像することができませんでした。わたしは子どものころ、義父が失業して、2日も3日も味噌汁と塩湯で過ごした記憶があって、飢えることの苦しさを知っています。日本の軍国主義者が、”大東亜共栄圏”の美しいことばで宣伝しながら、そのかげで、実際におこなった罪悪の大きさと恐ろしさに、からだがふるえてくるのを止められませんでした。」


 また、大石芳野さんの『証言する民──10年後のベトナム戦争』には、タイビン省で、日本軍が収穫寸前の稲を引き抜かせてジュートに替えさせられた例が出てくる。せめて10日待ってくれの農民たちの懇願さえも日本軍はききいれず、稲を強制的に刈り取られてしまった結果、貯えのなかった小作農たちから先に倒れて死んだ。亡くなった家族や、友人の遺体を埋めながら、次は自分の番だ、誰が自分を埋めてくれるだろうか……という人民委員会某氏のコメントがある。
 同省のタンホー村では、次のように語る人がいた。「『決められた面積に麻を植えなければ、村全体を焼き打ちにする』といわれたので、仕方なく稲を抜いて全体の三分の一を麻畑にしました。でもその結果、タンホー村だけでも飢えで少なくとも1300人が亡くなりました」


 そのタイビン省を1972年に取材した本多勝一氏の『北ベトナム』にも、同省のドンフン県ドンフォン村での餓死者の数が記されている。
 「かくて、ドンフォン村の餓死者は、1944年に137人、翌年に155人、計292人に達した。ほかに出稼ぎで離村したまま行方不明の137人も、どこか他郷で餓死したとみられているから、合計は429人になる。この村は当時より人口がふえたという現在でも約2600人だから、これはおそるべき高率だ。
 こうした中で、ベトミン(ベトナム独立同盟)は『敵のモミの倉庫を破壊して人民を救おう』という運動を展開した。日本軍が集めたモミが倉庫にある。ベトミンは死を賭した民衆を率いて、鎌や包丁をふりかざししてこれを襲った。警備のスキをついて急襲すると、倉庫を守る兵隊など2、3人だから、何千人という怒り狂った群衆にはほどこす術もなかったという。このときの群衆は、片手に包丁、片手にモミを入れるカゴという姿が普通だった。」


 それまでは、歩いていく道になにか落ちていないかと、いつもうつむいてとぼとぼと足を運んでいた人びとが、「片手に包丁、片手にモミを入れるカゴ」姿の大群衆と化したのである。ベトミンは、その先頭に立った。

 先のニンビン省における2つの村の餓死者の調査数を書いたが、同省のニュークアン県には、日本軍が支配者になると同時に、いちはやくベトミンによる大規模なモミ倉庫襲撃が組織されたクインリュー地区がある。同地区で、省初めての革命権力=人民委員会が成立したのは45年4月4日だったというから、日本軍の「明号作戦」から一ヶ月も経過していなかった。すぐに日本軍保安隊が弾圧に出動した。運動の中心だったルーフォン村で銃撃戦となり、省人民委員会の責任者だったチャン・キエン氏が、不幸にも日本軍の銃弾に倒れた。まさに命をかけてのたたかいだったのである。

 すでに前年12月末、ベトミン武装解放宣伝隊が、後の名将ボー・グエン・ザップの指揮のもと、北部カオバン省でたった36人の兵から組織されていたが、飢餓が深まるにつれて人びとの支持を得、爆発的に勢力を拡大していった。


 ベトミンはいたるところで、「日本ファシストから米を奪え」「汗と涙で育て上げたモミを取り返せ」と農民たちを組織していく。日本軍のモミ貯蔵庫や、コメ倉庫がつぎつぎと襲撃されていった。日本軍は、これを暴力で弾圧し、指導者たちを銃殺したり、負傷させたりしたが、深夜でもたいまつを手に手に殺到してくる何百人何千人という大群衆を前にしては、もはやどうすることもできなかった。

 1945年3月9日の直後、ベトミン戦線は、抗日救国運動を促進するよう、全国の同胞に呼びかける「アピール」を発した。アピールの中には次のような一節があった。


  ……国民同胞諸君
 わが民族の運命はか細い髪の毛にぶら下がっている。しかし、千歳一遇の機会
 が来つつある!
 十分な衣食を欲するならば
 家と国を守りたいならば
 兵役、夫役を免れたいならば
 被爆、被弾の難を逃れたいならば
 民族が世界に対して胸を張ることを願うならば
 さあ、立ちあがろう、富める者も貧しき者も
 男も女も、老いも若きも、幾百万人が一つになって!
 刀をとれ、銃を構えよ、
 賊を殺し、裏切り者を駆除せよ。
 強大で、自由な、そして独立した国ベトナムをうちたてよう。
 痛苦と怨恨を注ぎこみ、敵を流し去る滝としよう。国土を守り犠牲となった民族の英雄たちに背かぬよう断じて誓おう。
 同胞諸君!

 抗日救国の時は来た。急いでベトミンの金星紅旗に続け!

 ドク・ラップ(独立)の叫びは、こうしてなだれのように村や町から、民族の一大エネルギーとなって「八月革命」へと突き進んでいく。やっと飢餓神を振りきったやせ細って裸同然の人びとは、勇気以外になにも失うものはなかった。そうした飢えに苦しむ民族の心を心にした者のみが、ベトナムの新しい時代「自由と独立の国家」(ベトナム民主共和国独立宣言による)を築いたのだといえよう。


 
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2014/07/17

日本軍政下 ベトナム"200万人"餓死 3

 大戦末期の日本軍政下における、ベトナム"200万人"餓死に関しては、「当時ベトナムにいた1万人の日本兵が、200万人分の米を食べらわけがない、ベトミンンの政治的な宣伝である」、と200万人の餓死そのものに疑問を投げかけつつ、当時の日本軍の責任を否定する人たちがいる。現在ネット上では、そうした考え方をとる人たちが主流のようでさえある。

 しかし、「ベトナム”200万人”餓死の記録 1945年日本軍政下で」(大月書店)の著者、早乙女勝元氏によると、「1万人の日本兵」ということ自体が事実ではないようである。「仏印」駐屯日本軍は第38軍(司令官土橋勇逸中将)だが、「明号作戦」のために増強された兵力は、隷下部隊に第21師団、第37師団、独立混成第34旅団、独立混成第70師団、指揮下の部隊には第2師団、第22師団、第4師団の一部などが含まれ、その総兵力8万2000人のうち北部に2万5000人が配置されていたというのが、どうやらほんとうらしいというのである。また、すで「日本軍政下ベトナム"200万人"餓死 1」で紹介したが、戦後南ベトナム(ゴ・ディン・ジェム政権)との賠償協定に関わって、政府が国会に提出した賠償提案の理由の中に、「当時8万前後のわが軍」と明記されていて、それが45年に入っての通常兵力だったと解釈できるというのである。

 さらにいえば、「1万人が200万人分のコメを食えるはずがない」というのは確かであろうが、”そのとき貯めこんでいたコメの物量を忘れてはならない”という指摘も重要であると思う。また、同文書には「南方領域に対する割当20万人の兵站補給基地としての役割」などという言葉もあり、当時日本軍が確保していたコメと同時にベトナムから持ち出されたコメについても考慮する必要があると思う。軽々しく「当時ベトナムにいた1万人の日本兵が、200万人分の米を食べらわけがない」などということはできないと思うのである。下段の「飢餓四つの原因」も、忘れてはならない指摘であると思う。

 下記は「ベトナム”200万人”餓死の記録 1945年日本軍政下で」早乙女勝元(大月書店)からの抜粋である。
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                第6章 だれに責任が?

強制買い付け

 当時の食糧事情を、ベトナム側からあきらかにした資料がある。
『1945年の200万人餓死の真実』は、私も二度ほどお会いしたことのあるベトナム歴史研究所所長バン・タオ教授が監修し、ゲウン・カック・ダム氏が編集した一冊で、4年ほど前に日本ベトナム友好協会に送られてきた。その結論部分が『日本とベトナム』紙に3回にわたり分載されている。

 これは、書名からも察しがつくように、問題の「200万人餓死」を解明する上で、ベトナム側のもっとも権威のある、しかも新しい研究書とみることができる。また、こんにちの時点までに入手したベトナム側あるいはフランスなど西側の統計資料が豊富に引用されているのにも、特色がある。
 その内容を損なうことなく紹介するには、ちょっと力不足だが、できるだけわかりやすく次にまとめてみることにしよう。


 ──フランス側の資料によると、1942年にベトナム北部で161万7000トンのモミを生産したのに対して、食べるほうの人口は800万5000人だった。
 大人と子どもを平均して、一人の人間が一年間に消費するモミを210キロ(この量は少し多いように思えるが、モミ計算であるうえに、副食物が極端にとぼしく、味噌、塩、ニョクマム(魚醤)くらいしかなかったため、その分をコメで補う生活だったと考えられる)とすると、800万5000人に169万トンのモミが必要となる。すると、この年に生産したモミ総量は、8万トン前後の不足分があったということになる。
 1943年には、同じ北部で151万3000トンのモミを生産したのに対し、人口は1000万人に増えていた。したがって、この年の不足分は61万トンあまりとなる。その分はどうしていたのか。南部のコメを運んでくることで補っていた。南北の交通が正常だった41年には、18万6000トンの南部米が北部に搬入されている。


 ところが1944年~45年ともなると、重慶、桂林などからの連合軍の日本軍事目標爆撃により交通手段は悪化の一途をたどり、南部米の移送があちこちで分断されてしまう。44年には、わずか6800トンの南部米が運ばれたにすぎない。もはや南部米はアテにできないとあって、これを現地で解決すべく、フランスは農地を細分化し、1マウ(北部で3600平方メートル)単位で、モミの買い上げを強制した。農民は1マウあたり200~250キロものモミを売らねばならなくなったのである。

 強制買い付け制度によるモミは、こうして年毎に増加して、42年が1万9000トン、43年が13万トン、44年が18万6000トンとふくれ上がっていく。農民のなかには、規定量のモミを売ったら食用分がなくなってしまい、はるかに高い金でモミを買わねばならない者が続出してきた。
 その買い付け価格であるが、43年に100キロのコメが市場で57ドンだったのに対して、当局の買い上げ価格は26ドン。ざっと半値だった。ところが44年には市場価格は400ドンに達したにもかかわらず、買い上げ価格は53ドンだった。八分の一である。食用米が不足すれば、当局が支払ってくれる価格の8~10倍もの高いコメを逆に市場で入手しなければ生きていけなくなったのだ。
 こうして農村はたちまちにして窮乏化し、例年貯えていたところの非常用の保有米まで失うほどの、かつてない危機的事態となった。


 都市部はどうか。日本軍とその関係企業、フランス政庁(共同管理は45年3月9日までだが)と接触していた人々にだけ、コメは配給制になっていた。しかし、43年なかばまで一人あたり毎月15キロのコメが、44年には10キロ、45年には7キロになってしまった。不足分は買い足さなければならず、すさまじいインフレで、都市人民もまた急速に餓民なっていった。

 もう一つ、忘れてはならない大きな問題がある。たとえ自然災害によって食用米が不足しても、これまでの農民たちは、トウモロコシなどの雑穀にたよることができた。しかし、戦争が激化すると、日本とフランスはコメのみならずトウモロコシを買い占める一方で、繊維性・油性作物の栽培を奨励し、強要した。ジュート、チョマ、綿、ヒマ、落花生、胡麻などの栽培面積は、北部だけで44年に4万5000ヘクタールとなり、40年とくらべて9倍に達した。もしも40年度の5000へクタールのままだったとすれば、のこりの4000万ヘクタールで、モミ6万40000トンが、さつま芋かトウモロコシ9万トンを収穫できたはずである。


 北部の飢餓状態は、44年の末になると、いっそう深刻さを増してきた。同年10月と11月に台風と大雨が何度も重なり、やがて冷害も加わって、秋作米収穫に大きな被害が出た。これを統計によって、次にみていくことにする。

 38年から43年まで、北部における10月秋作米(春作米を除く)の平均収穫量は、モミで109万トンだった。しかし、44年の10月米収穫は、やっと100万トンに達しただけだった。このほかに、北部の人たちは8万トンあまりの雑穀を生産していたので、食糧生産量は合計108万トンになる。
 ところが、前述のように、この年フランスは18万6000トンのモミを強制的に買い付けた。その三分の二が秋作米で、12万5000トンである。このうちの一部をフランスは都市部のごく限られた人びとに配給した。その総量5万トンという数字は疑わしいが、仮にそうだとして7万5000トンがフランスと日本に残されたことになる。さらに農民が次の植え付けの種モミとして保有しておかなければならないモミが、5万5000トンあまりあった。これを差し引くと食用として残された分は95万トンになる。
 それが、北部人民に食用として残されたモミで、44年11月から45年5月の春作米収穫期まで、約7ヶ月分となる。


 北部の人口は、約1000万人。一人あたり年間210キロの穀物が必要だったとすれば、1ヶ月に18キロ。7ヶ月ならば126キロになる。しかし、総計95万トンのモミで7ヶ月を食いつなぐためには、750万人分しかない。残りの250万人がはみ出してしまう!

 以上は、非常に単純な計算によるものであって、95万トンからの食用分が、残されたすべての人たちに平等に配分されていたならばまだしも、実際は決してそうではなかった。フランスが買い付けを委ねていた大地主や権力者、ならびに各種商人たちが、インフレを見越していちはやくごっそりとおさえこんでしまった。買い占めと売り惜しみである。そのため、あるところにはあったが、実際に一般の手にまわった分は、もっとずっと少なかったのである。
 同書のまとめは、次のような文章で結ばれている。

 「数知れぬ人々が、このような籾・雑穀の不足状態の中で、バナナとか山イモとか木の葉、あるいは金持ちたちが捨てたゴミなどを食糧にして食いつながざるをえなくなった。しかし、このような物は飢餓の解消には、あまり大きな貢献にはなりえなかったのである。
 したがって、1945年初頭に北部で200万人の人が餓死したという、ベトナムの新聞が公表している数字は、けして誇張されたものではなく真実であり、これを誇張とするのは、日本帝国主義とフランス植民地主義の責任を故意に軽減しようとする人の議論なのである。」


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飢餓四つの原因

 パン・ダオ教授監修による『1945年の200万人餓死の真実』と、来日したタオ教授から直接細部のくわしい説明を受け、またさらに多くの資料を照合していくところ、深刻な飢餓の原因は決して単純なものではなく、大きく分けて次のような理由が考えられる。


①天候不順による凶作
②南からのコメの輸送停止
③ジュートなどへの転作の強要
④日本とフランスによるコメの強制買い付け

 というわけで、いくつものマイナス要因が、同時期に重なったことの複合汚染ならぬ複合飢餓だったと考えられなくもないが、しかし、以上の理由のうちの、もっとも主要な要因ははたしてどれなのか。

 ①の自然災害だったという指摘には、すでに同地域における歴史に残る飢饉を紹介したが、これまでどんなひどい不作でも、200人余りの犠牲者が出た例(1915年)があっただけである。
 1944年に超大型の台風と洪水とに襲われたトンキンデルタが、かなりの面積にわたって水没したのは事実だったとしても、秋作米は約100万トンの収穫があって、43年度の109万トンに比べ、約1割ほどの減収でしかない。もともと消費量の追いつかぬ収穫しかない人口密集地域だから、1割減っても影響は深刻だが、それが決定的な要因になったとは考えにくい。不作になったのはもちろんのことだが、しかし、冷害による被害もまた意外に大きかったのではあるまいか。
 ハノイの温度は夏に30度以上の酷暑になることもあるが、12月から1月の平均気温は17度前後である。それが、この年は4度以下までさがり、時には薄氷さえ張ることがあったという。日本兵士たちはすべて外套を着用したといわれる。すでに長期におよぶドン底生活で、衣食住すべてにわたりぎりぎり最低だった人びとには、耐え難い寒波だったことだろう。身のまわりのものはみな売りつくし、裸同然となって食物を求めてさまよう人たちは、もはや肉体的な抵抗力がなく、コレラ、チフスなどの疫病も広がり、さらに凍死も多かったのではないかと思われる。


 ②の南からのコメの移送が遮断されたのも、小さくない要因である。ベトナムのコメどころは、今も昔も圧倒的に南のメコンデルタで収穫される南部米(サイゴン米)である。
 1938年~39年度の統計によれば、インドシナ全域でのコメの収穫高は年間630万トンで、その内訳はベトナム北部で25%、中部で16%に対し、南部で40%を占めた。カンボジアは12%ラオスは7%にしか過ぎなかった。したがって、インドシナ全体のコメの収穫量の半分近くが南部で生産されるサイゴン米である。

 人口が多いわりに食糧生産に追いつかぬ北部は、南からのコメと引き替えに石炭などの地下資源を送っていたものだが、戦争が激化するにつれて、その均衡がくずれた。41年には18万6000トンの南部米が北部に運ばれてきたのに、44年はわずか6800トン。例年の二十分の一では、どうしようもない。
 南部では余ったモミを石炭がわりにして、機関車を走らせたというエピソードがあるくらいだが、コメの流通に当たっていた日本企業と華僑は、北へのコメ移送にきわめて消極的だった。この時期には、連合軍の爆撃によって、南北のルートは水路陸路ともに各所で分断されていた。大がかりな米の輸送は次の爆撃目標になりやすく、危険度と収入高からしてもリスクが大きすぎる。
 牛車や小型ギャンクなどでコメを運ぶのに努力したという日本企業員だった人の声もきくが、個人的な善意は認めるにしても、日本軍に北部の飢民を救おうという方針もなく、なんの措置もとらなかった。飢饉に苦しむ人びとは異国からの支配者に見捨てられたのである。


 ③日本とフランスによるジュート(黄麻)など繊維性・油性作物栽培の転作は、最初は奨励程度だったものが、やがて強要に近い圧力をともなってくる。コメとトウモロコシを除けば、インドシナの特用農産物の目玉はなんといってもジュートだった。農産物や鉱産物の麻袋としての利用度が高かったからである。
 先のベトナム側資料によれば、1941年に5000ヘクタールの栽培面積だったジュートは3年後には9倍の4万5000ヘクタールに拡大したとある。42年9月に、日本政府は三菱商事、三井物産、大同貿易、日本綿花の4社をトンキンデルタに送り込み、次いで台湾拓殖、又一商会、大南公司、江商、台南製麻、東洋綿花、三興、大丸興業などを加えて、大がかりなジュートの栽培と輸出にあてた。

 栽培の適地は主として河川敷だが、それでは足りずに水田をつぶし、コメの二期作のうちの一期作をジュートに変えたところもあった。そして、台湾人農業指導員を多くあてている。農民たちの不満や苦情が、直接日本軍や企業までは届かない巧妙な手口が、実は日本がねらったところの「仏印」支配機構だった。
 先の資料には、ジュートなどへの面積がもしも41年度の5000ヘクタールのままだったとすれば、残る4万ヘクタールでモミ6万4000トン、もしくはさつま芋かトウモロコシ9万トンが収穫できたはずだという。生きるか死ぬかのぎりぎりの瀬戸際に、6万トンのモミ、あるいは9万トンの農産物があるかないかでは、事態は大きく変化する。ジュートへの転作も又、決して見落とすことのできない飢餓の一要因といえるだろう。


 ④日本とフランスのモミの強制買い付けが最後に挙げられるが、これはどうか。
 問題の1944年の秋作米から、フランスは12万5000トンのモミを買い付けたとされている。そのうちのどれだけが日本軍ならびに日本企業へきたかは不明だが、45年3月10日以降は、フランス軍がいないのだから、その分も含め、日本の特別倉庫には相当量のモミとコメが蓄蔵されていたはずである。
 それは「少なくとも、現地軍が2カ年食べ得る備蓄量が目標だった」と小山内宏氏は『ヴェトナム戦争・このおそるべき真実』に書いている。ハノイの「第21師団は決戦に備えて2年分の食糧を確保していた」とは、第3章に紹介した元軍曹武田澄晴氏の手紙の一節である。
 北部駐屯日本軍が、2年分もの食糧を確保していたのだとすれば、フランスが買い付けた44年の秋作米12万5000トンのうち、せめて10万トンでも、北中部の一般人民に平等に放出することはできなかったのか。
 しかし、日本もフランスも、それをしなかった。ベトミン組織の予備軍ともいうべき農民や貧民が、飢えれば飢えるほどに体力も気力も失い、自分たちの支配に対する抵抗力が衰弱するとでも思ったのだろう。フランスは日本軍よりも、足元を揺すぶる地鳴りのようなベトミン運動の高揚を恐れていた。この点では、日本もフランスも支配者としての共通の危機感と連帯感があったようである。侵略国ならではのこの支配思想こそが、当然するべき救援活動も怠り他人事に終始したのであって、以上4つの原因のうちの最大の要因だった、と私には思えてならない。


 ・・・(以下略)

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2014/07/08

日本軍政下 ベトナム"200万人"餓死

 1945年3月10日は、「東京大空襲」のあった日である。その前日の1945年3月9日は、大本営の「仏印処理ニ伴フ声明」に基づいて、フランス軍を壊滅させるべく、日本軍の「明号作戦」が仏印全域にわたって発動された日である。

 「ベトナム”200万人”餓死の記録 1945年日本軍政下で」早乙女勝元(大月書店)に、「東京大空襲」が、この日本軍の「明号作戦」発動に対する報復であるという、当時、陸軍所属の学徒兵(金矢義雄氏)の証言が出ている。連合国は、日本軍が仏印全域を軍事支配化に置く準備に入ったときから、繰り返し警告していたという。”日本軍が仏印において武装行動に移る場合には、その報復として首都東京に対し、空前の大爆撃を加える”と。その事実関係を明らかにする確たる文書資料はないようであるが、”なるほど”と考えさせられる。

 その連合国の「報復」の話とともに、日本軍の「明号作戦」発動によってもたらされたといえる、「ベトナム”200万人”餓死」の話には、驚くほかない。同書の著者、早乙女勝元氏は、ベトナム戦争末期、アメリカ軍による北爆の被害状況を確認し記録するためベトナムに入り、そこで、日本軍政下の”200万人”餓死、に出会う。、それから、「ベトナム”200万人”餓死」の調査や聴き取りを始めたようである。下記は、同書に取り上げられている、元日本軍兵士のベトナムの”餓死”に関わる証言である。

 下記は「ベトナム”200万人”餓死の記録 1945年日本軍政下で」早乙女勝元(大月書店)からの抜粋である。
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           第3章 北爆の惨禍と飢餓の記憶

元兵士の勇気ある証言


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 しかし、そうした批難の手紙とは別に、同じ兵士として、自分の目撃した深刻な状況を克明に知らせてくださった方もいる。広島市在住の武田澄晴氏の手紙は、当時のベトナム北部の惨状を伝える貴重な一証言と見ることができよう。

 「私は昭和18年1月より21年3月までベトナム各地を転々として、20年3月9日夜”明”号作戦と称する戦闘で負傷し、入院しました。当時私は第21師団(師団長三国直福中将)の独立野戦高射砲第62中隊で、ハノイ市外のジャラム飛行場に対空陣地を敷いていました。私は軍曹で分隊長をしていました。
 ハノイ市内のフランス女学校を接収した陸軍病院に約1ヶ月入院している時、見舞いに来てくれる戦友たちが、『市内には餓死者がゴロゴロしているよ、おどろくなよ』と言うのです。
 退院の日、私はジャラムからルージュ河(紅河)畔に移動していた中隊に帰る時堤防の上にずらりと並んでいる餓死者を見たのです。愕かずには居れませんでした。迎えのトラックの上から果てしなく続くその、まるでイリコを干してあるような光景は、ショックでした。胸がしめつけられる思いでした。しかし同乗の友は平気になっているのです。もう見馴れたからでしょう。『早く収容するなりしてかたづければよいのに……』と言うと、『なに、毎晩かたづけられているのだが、次の日はまたこの状態だよ』とのことでした。


 やがて私は、外出できるようになりました。(高射砲隊は昼間防空任務につき、夕方から外出するのです。)いやでもその堤防を通らなければ市内に入れないのです。生まれて初めて見る餓死者、その寸前の者……地獄でした。ほとんどが子どもと、老人でした。
 ムシロがかぶせてあるので、死んでいるのかと思って見ると、大きな眼を開いたうつろな表情、ものを言う気力もすでになく、じっと見つめているガイ骨のような顔々々……。もうそうなっては食べものを与えても食べる力がないのです。

 むすびを持ったまま死んでいる者、幼い兄弟が抱き合ってミイラのようになっている者、(性別は全然わかりません。)いくらかの小銭を与えられ手にしたまま死んでいたり──私も初めのうちは食物や銭を与えたりしていましたが、キリがないのです。そして人間というものは、そんな地獄の環境にも見馴れてくると平気になるものでした。屍体をよけたりまたいだりして、市内の軍酒保に行くのです。そこにはあり余る山海のご馳走が、安く飲食できるようになっていました。(その頃、師団は決戦に備えて2年分の食糧を確保していたそうです。)


 酔ってふらふら賑やかな町の中を歩いていた時、私はハッとして立ち止まりました。街角の歩道の上に、たった今捨てられたと思われる色の白いかわいい、生後4、5ヶ月かと見える幼児がちょこんと坐っていて、キョロキョロめずらしそうに人の通りを見ているではありませんか。そしてその前には、たぶん子を捨てた親の最後の贈り物であろう白い御飯が、バナナの葉の上に盛られて置いてあるのです。
 私はその頃25歳、結婚もしていませんでしたが、捨てた親の気持ちを思うと、胸が熱くなってきました。3日か4日後には、もうムシロの下で、骨と皮なるのだと思うと、哀れで哀れでなりませんでした。許されるものなら、部隊につれて抱いて帰って育ててやりたい気持ちで一杯でした。


 それからやがて夏がきて、私たちはヅーメル橋(ロンビエン橋)の防空に当たっていました。野戦倉庫の兵隊が、現地人の曳く米の麻袋を満載した荷車につきそっていくと、家陰からナイフを持った少年がさっと飛び出してきて、麻袋を切り裂くのです。すると、そこから白い米がサラサラとこぼれ、アスファルトに白い細い帯を敷いたように落ちてゆく。それを、難民の女性がホウキとチリ取りとを持って奪っていくのです。私たちはこの少年を「斬り込み隊」と呼んでいましたが、警備についている兵隊の中には、大眼に見いていたものもおりました。

 やがて越南独立同盟=ベトミンの暗躍が活発になってきました。そして敗戦。独立を絶叫して泣く越盟の闘士たち、湧きにわくハノイの街、ホー・チ・ミン主席の独立宣言をとりまく大群衆──その中で、我々はヤケ酒でうさ晴らしをしていたのです。


 いつでしたか、新聞で日本がベトナムに与えた損害のことで『鶏3羽くらいだ』と元将官が語ったのを読み、私は唖然としました。あの頃でさえ餓死者の数は、ハノイ周辺でも50万人から100万人だということがささやかれていたのです。それらをすべて天災のせいにするのでしょうか!以上、実情を見たまま聞いたままを書いてみました。乱筆御容赦ください。」

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               第5章 内外の証言記録から

学者兵士と特派員の目

 ベトナム関係の文献には、かならずといっていいほど、1945年初めの大飢饉についての記述がある。それはほんの数行であったり、かなりのページを費やしているものなどさまざまだが、ベトナム現代史にとって、あまりにも苛酷な抵抗戦争を別にすれば、欠かすことのできない大惨事だったからだろう。
 飢餓問題について、それだけをテーマにして書かれた一冊は、残念ながら日本側ではまだ見当たらないが、ここでは数多くの資料のなかより、日本とベトナム双方の記述を見比べながら、その実態はどんなものであったのかをあきらかにしてみたいと思う。


 まず当時、ベトナム北部にいた日本人の記録である。”現場の人”といえば、もっとも多かったはずの該当者は日本軍兵士だが、私あてにきた元軍曹武田澄晴氏のヒューマンな証言は第3章で紹介した。しかし、兵士というなら、まだほかにもいる。
 陸軍二等兵だった小林昇氏である。氏は福島大学教授から召集された経済学者で、1945年4月、サイゴンからユエ(フエのこと)を経て、ハノイに到着した。『私のなかのヴェトナム』は、60年代後半に出たエッセーふうの本だが、ベトナム飢餓問題を私が最初に知った貴重な一冊である。氏は44年11月に南方へ送られる途中、南シナ海で遭難した。敵の魚雷攻撃で船を沈められたのである。
 かろうじて一命を取りとめて、ベトナムの地を踏み、南方軍司令部に配属されることになる。そして北部の第21師団第62連帯へと急ぐことになったが、もうその頃は連合軍の爆撃で、鉄道はかなりの被害を受けていた。中国を基地にした連合軍の爆撃は日本軍を目標にしたが、ベトナム人民は巻きぞえとなり、とんだ災難にあったわけである。サイゴンからハノイまで、汽車を乗り継ぎながらなんと10日を要したという。


 「ソンコイのデルタの南端にあるナムディンの町は、トンキンではハノイ、ハイフォンにつぐ都会である。わたしはサイゴンからここまでたどりついたとき、猛烈な飢饉の惨状にいきなり出くわした。四方から流れついた農民の家族たちが、文字どおり骨と皮だけになって、街路に斃死してゆくのである。それは栄養失調の死ではなくて絶食の死であった。息をとめた夫の躰にすがって妻や子の哭いている歩道を、幾時間かしてまたもどってくると、妻のほうももう生命のしるしがかすかになっているというような、やがていたるところで接しなければならなくなる光景に、わたしははじめて接したのであった。市の大八車が、路上のそういう死者たちを積み上げて、屍臭をふりまきながら焼場へ運んでゆく。その車には、まだたしかに息のかよっていると思われる躰も積み込まれていた。

 まだ息のある者さえ、死者といっしょくたにされて運ばれていく光景は凄惨そのものである。あまりにも多くの死体処理で、作業者たちは一体ずつ個別に尊重するゆとりがなかったのだろう。
 やがて雨が降りつづくようになり、水路はすべて濁流にまみれ、たまに霧の晴れた日に近くの山に登って見ると、ソンコイ川(紅河)は中流で決壊して、平野は一面水びたしになっている。洪水はトンキン平野のほとんどを覆いつくして、稲の収穫が重大な影響を受けたのはまちがいないと見られた。


 そして、気温が上昇していくにつれて、炎熱下の洪水がコレラを蔓延させた。疫病もまた、容易ならざる事態だったことがわかる。兵営には、ベトナムの母や娘たちが、莚一枚を抱えた身で近づいてきては、日本軍の残飯や小銭をめあてに体で取引きしようとする。なんともやりきれぬ事実である。日本軍は「金と食糧を持っていたために、ヴェトナムの民衆に対しては経済上の優越者であった」と記されている。

 戦後20年ほどしてから、小林氏は自分が生きのびたベトナムをもう一度確かめてみたいという思いから、横浜港より海路の旅に出た。その同じ船で、サイゴンの孤児院に籍を持つというカトリックの神父と親しくなる。
 神父はオランダ人だったが、1945年当時はハノイの孤児院にいたということで、たまたま大飢饉の話になった。一体どれだけの人が死んだと思うか、の問いかけに、「ほぼ200万人でしょう」と氏が答えると、「そのとおりです。ああ、当時のことを知っている人がいようとは……」と、神父は掌に顔を埋めて絶句した。おそらく神父にとっても、一生のうちの忘れがたい思い出だったのだろう。
 
 小林氏は当時の惨状を回想して、次のように書かざるをえなかった。
 「この大飢饉が太平洋戦争の間接の結果にほかならず、したがってこのときの200万という膨大な数の死者に対する責任を日本人が負うべきだということを、われわれのなかの幾人が知っているだろうか」



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2014/06/24

ベトナム 餓死者「200万」と 日本軍 黄麻栽培強制

 1945年9月2日、ハノイ中心部にある旧総督府前、バーディン広場でベトナム民主共和国の独立式典があった。その時、ホー・チ・ミンによって読み上げられた「独立宣言」の文章に、”200万人以上の同胞が餓死した”という驚くべき文言がある。1944年から45年にかけて、つまり日本軍がベトナムを含むインドシナを占領していた時期のことである。

 それは、1944年11月頃から始まる。もともとベトナム北部は人口過密で食糧不足に陥りがちであった。特にこの年は、収穫直後から食糧の強制供出でほとんど手元に米がない状態であったという。それまでは、食糧が不足するときはトウモロコシなどの雑穀で食いつないだり、南部からの供給に頼ったりして生き延びてきたのであるが、大戦末期には、南部も余裕がなかった上に、戦争によって交通網が寸断されたこともあって、南部からの供給は不可能であった。それに追い討ちをかけたのが、日本軍による黄麻(コウマ、別名ジュート、インド麻、麻袋などに使われた)の強制栽培であるという。黄麻の栽培を強制されたために、雑穀などの収穫もほとんどできなかったのである。

 仏印の黄麻開発のために動員された企業の一つである台南製麻の会計係(河合さん)は、自らが関わった黄麻の強制栽培が「200万」の餓死者を出したという主張に疑問を呈しつつも「多くの行き倒れを目にした」と証言している。また、下段はハイフォン憲兵分隊の司法班に所属していた高田さんが、当時のベトナムで目撃した餓死者に関するものである。下記は、『私たちの中のアジアの戦争 仏領インドシナの「日本人」』吉沢 南(朝日選書314)から、大戦末期のベトナムにおける餓死者の数に関わる部分を抜粋したものである。
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                 2 台南製麻の会計係

「200万」の餓死者

 8月一斉蜂起によって、1945年9月2日、ベトナム民主共和国が成立した。その日、ハノイ中心部にある旧総督府前のバーディン広場で開かれた独立式典で、ホー・チ・ミンが書いた「独立宣言」が、50万の群集を前に、ホー自身によって読み上げられた。それには、次の一節が含まれている。

”1940年秋、日本ファシストが連合国攻撃のための基地を拡大しようとインドシナに侵略すると、フランス植民地主義者は膝を屈して降伏し、わが国の門戸を開いて日本を引き入れた。このときから、わが人民はフランスと日本の二重のくびきのもとに置かれた。このときから、わが人民はますます苦しくなり、貧窮化した。その結果、昨年末から今年はじめにかけて、クアンチからバックボにいたるまで200万人以上の同胞が餓死した。”

 1944年から45年にかけて、つまり日本軍がインドシナを占領していた最後の時期において、ベトナム中部のクアンチ省から北部(バックボ)一帯にかけてきわめて多くの餓死者を出したが、「独立宣言」は、その数を「200万人以上」と算定した。「独立宣言」は、餓死者の数について具体的に言及した、最初の文献の一つであろう。

 
 その後、日本政府がこの数を問題にしたことがある。1959年日本政府が「南ベトナム政府」と賠償協定を結ぶ際、国会に提出した政府提案理由の中で、言及されている。やや長文になるが関係部分を引用しておこう。
「……ヴェトナム領域における特殊な様相は、常時8万前後のわが軍の存在及び南方領域に対する割当20万人の兵站補給基地としての役割から生じた。すなわち、交通輸送機関の全面的徴発、主として米軍の爆撃による鉄道線路の寸断等の原因から国内経済流通が極度に乱れ、加うるに、諸物資の大量徴発のため昭和20年に入ってからは餓死者のみで推定30万が出た。ヴェトナム政府[当時のゴ・ディン・ジェム政権]は、この数字を100万とし、日本で、この賠償協定に政治的理由で反対している一部の人々は、もっぱら北部地区における餓死者の数は200万としているが、いずれも誇張であろう。しかし、餓死寸前の栄養失調者をも導入すれば、このような数字に達したかもしれない。その他強制労働に従事せしめた数万の労務者の中からも、相当数の犠牲者が出たことは想像に難くない。」

 ここには、餓死者の数について3つの数字が出てくる。
 一つは日本政府自身の推定で、「30万」。上記の文面では、日本政府は「30万」という数に自信ありげだが、しかしながら、その根拠はまったく示されていない。この数字は、敗戦直後ベトナムにいた外交官の報告にもとづいているに違いない、と私は推測する。それがどの報告なのかは確かめられないが、例えば、先に引用した「終戦以後本年3月に至る北部仏印政情報告」には、次の一節がある。


 食糧問題に付いては昨年4、5月の候東京〔トンキン〕各方面を通して数十万の餓死者を出したること(越盟〔ベトミン〕の宣伝によれば其の数200万に上る由)……」
 この1946年の報告では、「数十万」と幅をもたせており、同時に、ベトミンの「宣伝」する「200万」という数字については、疑問視されている。しかしいずれにしろ、日本側は調査したわけでもなかったにもかかわらず、当初からその数を低く見積もる傾向が強かった。したがって、日本政府が「数十万」を「30万」に読み変えたとしても、それほど不思議ではない。

 第2は、「ヴェトナム政府」、つまり59年当時のゴ・ディン・ジェム政権の言う「100万」という数である。ゴ・ディン・ジェム政権が全ヴェトナム国民を代表するかどうかが、当時賠償に関連して国会の内外で議論された。同政権の根拠薄弱な正当性については、ひとまず視野の外に置いて、「100万」について検討すると、この数字についても特に根拠らしいものは示されていない。ゴ・ディン・ジェム政権としては、ベトナム民主共和国の主張する「200万」と日本政府が主張する「30万」との中間を取れば、ベトナム国民を納得させうるであろうし、また日本政府も受け入れやすいと踏んで、「100万」という数字を提出したのであろう。そして同政権は、餓死者に対する賠償として、1人1000アメリカ・ドルと換算し、合計10億ドルを日本に要求した(他の物質的損害に対する賠償と合わせて、総計20億ドルを要求した)。日本政府は「100万」についても「誇張があろう」とした。


 第3は「日本で、この賠償協定に政治的理由で反対している一部の人々」が言う「200万」である。明らかにこの「200万」は、「独立宣言」中の一文ならびにベトナム民主共和国政府のその後の主張を受けたものである。日本政府は、これも「誇張があろう」とかたづけている。
 しかしながら日本政府は、「30万」という数字にも確固とした根拠がなかったのであるから、「100万」ならびに「200万」の数字を虚偽架空として退けることもできなかった。したがって「餓死寸前の栄養失調者も導入すれば、このような数字に達したかもしれない。その他強制労働に従事せしめた数万人の労務者の中からも、相当数の犠牲者が出たことは想像に難くない」と言わざるを得なかったのである。


 それにもかかわらず、1959年日本政府がゴ・ディン・ジェム政権と最終的に妥結した賠償額は、3900万ドル(140億4000万円)である。この内約半分である2000万ドルが、餓死など人的損害に対する賠償である、と仮定してみよう。ジェム政権の換算法(1人=1000ドル)に従うと、日本政府は、わずか2万人分を賠償したにすぎない。まったく不当としか言いようのないほど、餓死者の数を低く抑えてしまったのである。

 上記3つの数字のどれかを支持するにたる十分な資料を今の私は持ち合わせていない。だが、これまでの検討で一つ明らかになったことがある。それは日本政府が調査をまったくしないで、餓死者の数を一貫して低く見積もろうとし、そして最後にはその数字をウヤムヤにしてしまったことである。
 ところで「200万」という、1945年9月2日の「独立宣言」に初めて現れる数字が、かなりの信憑性持っているのではないかと思わせる資料もある。それは省別の餓死者の数である。

 例えば、紅河デルタの最先端に位置するタイビン省は、人口稠密な穀倉地帯であるが、1944年~45年の餓死者の数は約25万という記録がある〔本田勝一『北ベトナム』朝日新聞社1973年〕。また、ベトナムの歴史研究者の推定によると、その数は28万人である(チャン・フイ・リエウ監修『8月革命』第1巻 史学出版社、ハノイ、1960年)。1945年当時の人口を正確に知ることはできないが、1936年当時同省の人口は102万7000人であった。以後の10年で人口の変化があまりなかったとすれば、省人口の4分の1以上が餓死したことになる。この省では、零細な小農民が、ベトナム北部(トンキン)1、2を争う稠密度(1000平方メートル当り676人)で居住していた。しかも日本軍が駐屯していたハノイやハイフォンにも近く、また紅河一つを越えれば工業都市ナムディンに至るという位置関係にあったから、米略奪のために日本軍が直接この省に入ったり、あるいは村役人たちを親日団体に組織し、彼らを通して米取り上げを行なったりした。したがって、タイビン省一省だけで、餓死者が20万人以上にも達してもおかしくない条件を持っていたといえよう。


 以上一例としてタイビン省を取り上げたが、このほかに、ゲティン省については、省内の地域ごとに餓死者の数を算出した比較的完備された統計があるし、ハドン省などいくつかの省についても餓死者の数が公表されている。統計の精密さについて見当を加えつつ、こうした省別の数を加算してゆけば、「200万」かどうかは何とも言えないが、かなりの数に達することは間違いなかろう。
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               4 ハイフォンの憲兵

ハイフォンにおける1945年3月9日

 ・・・
 日本とフランスの関係が抜き差しならないものとなり、ついにはフランス軍を武装解除し、日本の一国支配を実現させた1944年暮れから翌年の冬にかけての時期、ベトナム北部の食糧難は危機的な飢餓状態にいたり、民衆は死の淵に立たされた。ハイフォン市内でも行き倒れの死体が多数ころがっていた。日に何十体と出る死体は、処理にこまると、クアカム河に投げ込まれた。高田さんは、次のように語っていある。

”田舎からハイフォンの町に相当の人がどんどんやってきて……。本来ならば田舎だから、当然食糧があるべきところが、生産は不振で、その上にやっぱし日本軍に強制的に米なんか取られるもんだからして、いよいよ食べるもんがなくなって……。町に出たならば、何か食べられるじゃろと思って、ハイフォンの町あたりにきおったですね。乞食みたいな格好して、バタバタ倒れてましたね、死んで道路に。死体がなんぼでもころがっているのを見ましたもんね。痩せ細って、栄養失調なんていうもんじゃなかったですね。今のアフリカの子供の写真みたいですよ。日本が飢餓対策をたてたかって?ぜんぜん聞いていませんね。師団参謀から、食糧を備蓄せよ、との命令がきました。自分たちだけは守ろうと……。日本兵は食っていまし
たよ。腹一杯食って、遊んでいましたよ。”


 私の聴き取りでも、十中八、九の人が、ベトナムの民衆が飢餓に瀕していた時、日本兵は「腹一杯食って、遊んでいた」と証言している。「先生にですからざっくばらんに話しますが、その頃の女遊びはすごかったですよ」、と高田さんは恥らいながら語った
 

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2014/06/19

アジアの教科書に書かれた日本の戦争 インドネシア

 下記は、「アジアの教科書に書かれた日本の戦争 東南アジア編」越田 稜編著(梨の木舎)から、「インドネシア」の中学校用『社会科学分野 歴史科 第五分冊』(インドネシア 語)マルトノ著(ティガ・スランカイ社 1988年版)の、ごく一部分を抜粋したものである。
 インドネシアの中学校用教科書には、戦時中の日本の軍政がどのようなものであったのか、詳細に記述されている。多岐にわたる日本の加害責任と、その責任の大きさにあらためて驚かされる。

 ところが逆に、日本では 安倍自民党政権が「自虐史観から脱皮する教育を進める」として、教科書検定基準の「近隣諸国条項」を廃止するという。下村博文文部科学相も、教科書検定制度について「日本に生まれたことを誇らしく思えるような歴史認識が教科書に記載されるようにしていく必要がある」と述べている。「自虐史観に陥ることなく日本の歴史と伝統文化に誇りを持てるよう、教科書の編集・検定・採択で必要措置を講ずる」というわけである。

 1985年、西ドイツのヴァイツゼッカー大統領が、「過去に目を閉ざす者は、未来に対しても盲目になります」という演説をしたことはよく知られているが、日本の戦争における加害責任を教えないことで「誇りを取り戻す」というのは、「未来に対しても盲目」になるということではないのか。きちんと歴史の事実に向き合い、過去を乗り越えて、生まれ変わった日本を示すことで、誇りを取り戻すようにすべきだし、周辺国もそれを望んでいるは明らかだと思う。
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中学校用 『社会科学分野 歴史科 第五分冊』(インドネシア語)マルトノ著 ティガ・スランカイ社 1988年版

               Ⅲ 日本占領時代

B インドネシアは、日本の戦争を支えるために資源および人力を提供させられた
 当初、日本軍の到来はインドネシア民族に歓迎された。インドネシア民族は、長く切望してきた独立を日本が与えてくれるだろうと期待した。
 どうしてインドネシア民族は、このような期待をもったのだろうか。それは、日本がやってきてまもなく、つぎのような宣伝を展開したからである。
──日本民族はインドネシア民族の「兄」である。日本がきた目的は、インドネシア
   民族を西洋の植民地から解放することである。
──日本は「大東亜の共栄」のために開発を実施する。
 その実態はどうであったか。日本時代にインドネシアの民衆は、肉体的にも精神的にも、並はずれた苦痛を体験した。日本は結局、独立を与えるどころか、インドネシア民衆を圧迫し、搾取したのだ。その行いは、強制栽培、強制労働時代のオランダの行為を超える、非人道的なものだった。資源とインドネシア民族の労働力は、日本の戦争のために搾り取られた。
 戦時中であったために、日本による占領時代のインドネシアでは、軍政がしかれた。ジャワ島とスマトラ島は陸軍によって、その他の地域は海軍に支配された。そして、戦時にふさわしいように、あらゆる種類の活動の目的が、戦争に必要とするものにむけられた。


 天然資源が、戦争のために搾取された。労働力が、戦争のために搾取された。その搾取は、つぎのように行われた。

a 天然資源と食糧の搾取─原材料は、戦争が必要とする工業材料を得るために使われた。食糧の供給は、とくに軍人による消費のための備蓄にむけられた。
──あらゆる耕作地は、日本軍政府に監視された。収穫物の販売は独占され、価
   格も日本軍政府によって決定された。それは、モルッカ諸島でのオランダ東イ
   ンド会社による香料の独占と、どこが違うのだろうか。
──戦争にあまり役立たないものの栽培は、制限されたり、完全にやめさせられ
   た。例えば、スマトラでの煙草の栽培は壊滅させられ、ヒマの栽培に替えさせ
   られた。ヒマは飛行機の潤滑油の材料として、非常に必要だったのだ。
──必要性があるため、依然として耕作が続けられたものには、キニーネ、ゴム、
   砂糖きびがあった。

──森林は、農地として利用するという理由で伐採された。森林伐採は、ジャワ島
   だけで、50万ヘクタールにおよんだ。
 農地造成のための場当たり的な森林伐採は、結局のところ、食糧増産にはつながらず、それどころか逆に、収穫は減少した。思慮を欠いた森林伐採は、土地の侵食と洪水の原因となった。侵食は土地の肥沃度を低下させ,灌漑に不可欠な水源を涸れさせた。洪水は、稲作を破壊した。
 そのほかにも、農業生産を減少させた原因があった。
──優れた農業技術を欠いたまま、農業が続けられていた。日本は、その国内で
   実施していたような、近代的農法の指導をしたことがなかった。
──日本軍政府は、軍隊の消費のために、家畜を大量に殺した。その結果、家畜
   の数が次第に減少していった。しかし、農民たちは、田を耕すために、家畜が
   必要だった。

──民衆は、各自の庭でヒマを栽培することを義務づけられた。その収穫は日本
   軍政府にひきわたさねばならなかった。これは、オランダ東インド政府時代の
   強制栽培と、どこがちがうだろうか。結果的に、耕地は減少し、農民には田で
   働く時間が不足してきた。
──多くの民衆が無理やりロームシャ(強制労働者)にされた。こうして、田を耕作
   する労働力が、しだいに減少していった。農業生産はすでに減少していたが、
   民衆は依然として収穫の80パーセントを、日本軍政府に引き渡すよう強制さ
   れた。
 この結果、民衆の間では食糧がたいへん不足してきた。多くの人びとが死んでいった。道端や店先など方々で、しばしば死体が目撃された。
 一方、日本軍政府による衣料品の供給も失敗してしまう。オランダの植民地時代には、輸入によって、民衆の衣料需要を満たしていた。日本植民地時代には、戦時であったので、このような輸入はありえなかった。そのため、民衆は綿の栽培を義務づけられた。しかし、十分な成果は上がらず、またインドネシア国内で加工することは、まだできなかった。
 その結果、民衆の衣料は非常に不足し、地方の多くの人びとは、麻やシュロの繊維で作った粗末な服を、身に着けるしかなかった。それさえも買うことができない民衆もまたいたのである。


b その他の物資の搾取──民衆の負担は、日本が戦争に必要なその他の物資の供出を義務づけたために、いっそう重くなった。
 そのような物資に、屑鉄がある。古い鍬や鎌、そして庭の鉄柵まで取り壊して、差し出さねばならなかった。

c 労働力の搾取──労働力の搾取が、社会の階層を問わず、いたるところで行われた。都市から田舎まで、知識層も文盲の人びともまた、そのすべてが戦争のために搾取されたのだ。

 もっともひどい目にあったのは、強制労働者(ロームシャ)にするために動員された人びとだった。彼らは田舎の出身で、一般的に文盲だった。もし教育のある者がいたとしても、小学校卒業がせいぜいであった。
 そのロームシャたちは、橋、幹線道路、飛行場、防衛拠点、防空壕といった、日本の防衛のために重要であった建設工事で労働を強制された。そのような壕が、いまも残っている。カリウラン(ジョグジャカルタ)にあるのは、その一つだ。

 
 ジャワ島の各地方から集められた数千の人びとが、ジャワ島以外の島の森林で働かされた。それどころか、例えばマラヤ、ビルマ、タイ、インドシナなど、国外で労働させられた人びともいた。ロームシャの仕事は、非常に重労働だった。原始林で木を伐採し、丘を掘り崩し、山の中で岩を砕くことなどが、その仕事だった。それとともに、ロームシャたちの待遇は、きわめて残酷であった。彼らが労働中に少しでも不注意だったりすると、平手でたたかれ、銃で殴られ、鞭で打たれ、足蹴にされた。これにあえて抵抗した者は、殺された。また、彼らの健康は、配慮されなかった。衣服は満足に支給されなかった。彼らは食糧を与えられはしたが、米の飯ではなく、タピオカの粉の粥だあった。それも一日一回であり、量もきわめて限られたものだった。
 その結果、数千人ものロームシャは、二度と故郷に戻ることができなかった。彼らは、働かされていた森林で世を去ったのだ


 ・・・以下略

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